目隠し鬼(四)
7
ヒロ、と誰かが俺を呼ぶ。
ヒロ、跳ぼうで。そう言って、無邪気な笑顔と共に差し出された手を握る。
夏の陽射しの中、自分の手は汗ばんでいるのに、握った手はひんやりと冷たかった。
走り高跳びを知ったのは、オリンピックの陸上競技だった。もちろんそれ以前にも走り高跳びという競技の存在自体は知っていたし、小学校の体育でも真似事らしきことをやらされはした。けれども、それはあくまで遊びに近い『真似事』であって、『本物」ではない。祖父の居間の小さなテレビに映る選手達は、鍛え上げられた躰を鞭のようにしならせ、二メートルを遥かに超える高さを青空に向かって飛んだ。
俺も飛びたい、と思った。跳ぶのではなく、飛ぶ。だた純粋に、自分の全てを使って、あんなふうに、あの澄んだ空に近づいてみたい――
「あれっくらい、たいしたことねぇべ?」
隣でポリポリとスナック菓子を食べていた少年が、テレビを指差し肩を竦めた。
「ヒロだって、すぐにあれっくらい跳べるようにならぁ」
ヒロは特別じゃもん、そう言って、馬面の少年がニコニコと笑う。
特別と言われて悪い気はしないが、しかしちょっとやそっとのことで、自分があの高さを跳べるようになるとは思えなかった。
「そしたら、ためしにオレが一緒に跳んでやらぁ」
少年に腕を掴まれ、内庭に出る。と、相撲好きの少年が慌てて駆け寄ってきた。
「やめとけぇや、コウ。あんまりヒロに無理させっと、じぃさまに怒られるど」
「コータはでけぇなりして、心配性じゃ」
コウと呼ばれた少年は相撲好きの少年の困惑顔を笑い飛ばし、裕貴の肩に腕を絡めた。そして次の瞬間、助走もなくいきなり地面を蹴った。
全身が青色に吸い込まれる。
澄んだ色が自分の内に広がり、満たし、息が止まる。
「跳ぶんは楽しいじゃろ?」
二階の屋根にふわりと着地した少年は、言葉も無く呆然と空を見上げる裕貴の顔を覗き込み、得意げに笑った。一体どうやったらこんな高さを跳べるのかと聞こうとした時、道の向こうに畠から帰ってくる祖父の姿が見えた。
「じぃさまじゃ! 逃げろ!」
そう叫ぶなり、馬面の少年は瓦を蹴ってあっという間に姿を消した。なすすべもなく後に残された裕貴が、祖父の小言を散々食らったのは言うまでもない。
「瓦屋根なんぞ登って、滑って落ちたらどうするつもりだ。取り返しのつかない怪我をするぞ!」
祖父の心配はわかる。でももう遅い。
遥かに遠い空が一瞬だけ近づく感覚を、あの青色が自分の内を満たす悦びを、自分は知ってしまった。
❀
どうやら寝落ちしていたらしい。
床に落ちていた漫画を拾い、凝った肩を揉む。朝日が眩しい。弟に家から閉め出され、昨夜は結局漫画喫茶で時間を潰すハメになった。トイレで顔を洗いながら、一連の事件を思い返す。警察に変な疑惑をかけられ、見知らぬ少年に便秘薬を飲まされ、妙なイキモノにバカ呼ばわりされ、本当に散々な目に遭った。それもこれも、全ての元凶は――
ひょいっと顔を上げた瞬間、背後に立つ小さな影と鏡越しに目が合った。
「……ってオイッ! トイレの中にまでついてくんなッ」
裕貴に怒鳴られ、おかっぱの童女がねっとりとした上目遣いで頬を膨らませる。
「……りんは知ってるぞ」
「何をだよ?!」
「……ヒロはりんを捨てて逃げるつもりであろうが?」
「捨ててって……」
図星過ぎて思わずギクリとする。いや、しかしそもそもこんな目付きの悪い童女を拾った覚えは無い。そう言ってやろうと振り返ったが、糸のように細い一重瞼に透明な雫が盛り上がるのを見て、思わず息を飲んだ。
「え、ちょ、ちょっと待て! なんだよ、泣くなって! いや、ゴメンナサイ泣かないでくださいオネガイシマス」
どうやら人外的存在らしいが、それでも見た目七〜八歳の少女を泣かせては余りに後味が悪い。自分は何も悪くないと内心密かに思うものの、それでも必死になって謝り、「コンビニで菓子買ってやるから」などと機嫌を取り、ようやく泣き止んだ少女と手を繋いで漫画喫茶を後にした。
早朝の陽射しは寝不足の眼に眩しく、今日も暑くなりそうだとゲンナリする。けれども裕貴の隣を歩く少女の手は、不思議なほどひんやりと冷たかった。
8
「ヒロは本が好きか?」
公園のベンチにちょこんと座り、コンビニで買ったアイスキャンデーを舐めていた少女が不意に尋ねた。
「いや、別に?」
朝食代わりの缶コーヒーを啜りつつ、裕貴が肩を竦める。
「あそこには絵のついた本が沢山あったな」
「あそこって、漫画喫茶のこと?」
ふむ、と少女が考え深げに頷く。
「アレならりんにも読める」
「へえ、おまえって字とか読めるわけ?」
「馬鹿にするな。読み書きは知のきほんだ」
少女がつんとアゴを反らせて鼻を鳴らす。漫画が読める程度で、実に生意気な態度だ。
「あーそうですかスゴイスゴイ」
適当に聞き流そうとした裕貴の顔を、少女が下から覗き込んできた。
「ヤスヒコも本を持ってるぞ」
「え? ああ、じいちゃんは読書家だったからな」
田舎の役所に勤めていた祖父は酒や煙草の類は一切嗜まず、無論博打や女遊びにも縁がなさそうだった。そんな生真面目な祖父の唯一の趣味は読書だった。天井まで届くような本棚は、祖父の生真面目な性格を体現するように、隙間ひとつ無く整理された蔵書に溢れていた。縁側に置かれた座卓の前に背筋を伸ばして正座し、ひんやりと黴臭い頁を繰る静かな横顔がふと瞼の裏を過る。
「うむ」と重々しく少女が頷いた。
「半裸のオトコの本だ。畳をめくったら、床下に沢山あった」
「半……は、はぁ?!」
「汗臭いオトコ共がな、こう、くんつほぐれつ揉みあってだな」
「く、くんつほぐれつ?!」
「うむ。昔はびでおてーぷとやらもあったが、ぷれいやーを婆様に捨てられたと嘆いておった。婆様はヤスヒコの趣味を知らなかったからな、ぷれいやーは粗大ゴミの日に……む、どうかしたか?」
思わず眼を瞑ってベンチにひっくり返った裕貴の姿に、リンが首を傾げる。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。まさかあのカタブツな祖父にそんなコアな趣味があったとは夢にも思わなかった。と言うか、はっきり言ってそんな事は知りたくはなかった。床下に沢山、というくらいだから、決して一時の興味というわけではないだろう。
「そんな、まさか、じいちゃんが……」
現代の若者である裕貴には、同性愛に対する強い偏見などはない。自分さえ巻き込まれなければ、誰が誰を好きになろうと一向に構わない。と言うか、他人の趣味嗜好なんてどうでもいい。しかしそれが自分の祖父となると気持ちはフクザツだ。彫刻刀で彫ったような硬い横顔を思い浮かべる。祖父は一体どんな気持ちで何十年という時を祖母と連れ添い、一家の長として家族を養ってきたのだろうか。ハッキリ言ってよく分からないが、しかしちょっと想像しようとしただけで、ぐわわわわ、と叫んで髪をかきむしりたくなる。
あまりに衝撃的な話を聞いたせいか、声を掛けられるまで人が近づいてくるのに気付かなかった。
「あれ? ヒロキ先輩じゃないっスすか」
名前を呼ばれて顔を上げると、ベンチで独り密かに悶える裕貴を数人の学生が見下ろしていた。
「ホントだ! ヒロキ先輩だ!」
「うわー、なんか久し振りっスねー! てか、こんな朝っぱらからこんなトコで何してんですか?」
「いや、何って、特に何も……」
人懐っこい笑顔に一斉に囲まれ、思わず顔が引き攣る。
「先輩、怪我の具合はどうですか? マネージャーはもうそろそろ完治してるはずだって言ってましたけど」
「あ! もしかしてリハビリとか?! ならこんなところで一人でやるんじゃなくて、部に顔出してくださいよ。リハビリの手伝いくらい、オレ達にだって出来ますし、先輩がいないとコーチが寂しがっちゃって、マジうるさいんですよ」
「そうそう、『ヒロキはどこだ、ヒロキはまだ戻らんのか』って毎日毎日喚いてて、挙句の果てにオレ達に八当たりしてくるし、もう先輩がいないと練習にならないんですよー」
「……俺がいなくたって、他にも二年や三年の先輩達がいるだろ?」
「そりゃあトラックやハンマーやってる先輩はいますけど、我が陸上部のハイジャンプのエースはヒロキ先輩じゃないっスか」
「オレ達だって、ヒロキ先輩に憧れてハイジャンプ始めたんだし……」
「なんだよそれ? 俺に憧れるとか、意味無いことしてんじゃねぇよ」
苦笑と共に立ち上がり、なるべく自然に、屈託無く見えるようにと、細心の注意を払って頭上に広がる青い空を見上げ、軽くアクビする。そして自分を見つめる後輩達に笑いかけた。
「だって俺、もう飛べねーもん」
(To be continued)




