目隠し鬼(一)
なく蟲のひとつ聲にも聞こえぬは こころごころにものやかなしき(和泉式部)
りん、と花が鳴り。
りん、りんと鳴る花の音に、秋の風が澄み。
りん、りんと鳴る花があの子を呼び続け、そして俺はそこに無い影を求め、揺れる花影に目を凝らす。
1
おーにさーん こーちらー
てーのなーる ほーおえー
夏草の匂いのする手拭いで目隠しされた俺は、愉しげな笑い声と囃し立てるような唄声に向かって、そろそろと足を踏み出す。サラリとした畳が不意に硬くてスベスベした感触に取って代わる。和室を囲む板廊下に出たのだろう。前に突き出した手が半開きの硝子戸の端に触れた。
おーにさーん こーちらー
てーのなーる ほーおえー
廊下の端にしゃがみ、片足を外に突き出して履き物を探す。けれどもいつもそこにあるはずの祖父のゴム草履は見つからなくて、湿って柔らかな苔が爪先に触れた。俺を誘う唄声が不意に耳許に近づき、そして砂利を蹴る足音と共に遠くなる。俺は裸足のまま庭に飛び出し、蝉の声と池に跳ねる鯉の水音と手拭い越しに真っ白に視界を染める夏の陽射しの中、唄声を追って駆け出した。
❀
母方の実家は東京から電車で二時間程のところにあった。都会からそんなに離れているわけでもないのに、田んぼや畠がまだ数多く残っていて、子供の頃は夏休みの遊びには事欠かなかった。そしてその古びた家は、いつも多くの子供達の気配に満ちていた。
あれは近所に住む子供達だったのか、それとも従兄弟や再従兄弟やらといった遠い親戚だったのか。すでに名前どころか顔すら思い出せない彼等の笑い声を夢にみたのは、一人暮らしをしていて倒れた祖父のことが頭の隅に引っ掛かっていたからか。それとも、これが俗に言う虫の知らせというやつか。
「今週末、おじいちゃんの家に行くから」
両親の不在にもかかわらず、いつも通りの平和かつ平凡な夕食後、裕貴が何気無く席を立とうとした瞬間を狙ったように姉の由美が宣戦布告した。
「ふうん」
「ふうんじゃないわよ。あんたも行くんだから」
「げ、なんで?!」
「裕貴イコール人足」
「ニンソク?!」
「……人足。荷物の運搬や普請などの力仕事に従事する労働者」
シチューの皿を興味無さげに掻き混ぜつつ、弟の直貴がボソリと呟く。
「え、ちょっと勘弁してよ。俺、今週末は……」
「あんたが暇なのはすでに把握済みよ。文句言わずに諦めなさい。お父さんは出張でいないし、母さんは病院でおじいちゃんに付きっ切りでしょ。私ひとりであの家の片付けなんて無理なんだから」
「えっと、ナオキは?」
「……ボク、中学三年。塾の夏期講習」
皿から顔を上げぬまま、直貴が再びボソリと呟く。鬱陶しいほど長い前髪に隠れて、弟の表情は窺えない。いつも思うが、なんでコイツはこう無駄に暗いのだろう。自分との血の繋がりが全く感じられない。
「とにかく、今週末、私と裕貴はおじいちゃんの家の掃除と荷物の整理」
テキパキと鍋や皿を流しに運びつつ、姉が横目でジロリと裕貴を睨んだ。
「……逃げたら絶対に許さないからね」
2
姉に逆らって逃げたりしたらどうなるのか。具体的には定かではないものの、幼少期から現在に基づく経験から想像するに、楽しいことでないのだけは確かだろう。脳梗塞で突如倒れた祖父の家の片付けなんて面倒以外のナニモノでもないが、まぁ仕方が無い。一緒に住んでいるわけではないが(それどころかここ数年来は会うこともなかったが)、これも血の繋がった家族のツトメってやつなのだろう……と無理矢理自分を納得させる。そもそも裕貴には姉に逆らうほどの勇気も根性もないのだ。かくして人は人生における選択権を失い、奴隷化する。
「お邪魔しまーす」
母から預かった鍵で玄関の引き戸を開け、誰もいない家に向かって一応声を掛ける。都会の家では考えられないほど広々とした土間は、ひんやりと涼しく、どこか懐かしい匂いがした。
片付けと言っても、久々に訪れた田舎の家は多少埃っぽい程度で綺麗なものだった。
「じいちゃんって昔っから几帳面だったからなぁ」
中学に入ってからは部活だの塾だのと理由をつけて、滅多に訪れることもなかった。祖母が亡くなってからますます無口で無愛想になった祖父が、裕貴ははっきり言って苦手だった。都会から遊びに来た孫に声を掛けるでもなく、縁側でただ静かに本を読む祖父の真っ直ぐに伸びた背筋が、不意に瞼の裏を過った。
「押入れの布団はクリーニングに出しちゃうから、風呂掃除が終わったら、次は庭の物置を整理しといて」
「じいちゃんの書斎はどうする?」
「書斎は……掃除機かけて畳を乾拭きするだけでいいわ。本だけは勝手に触ったらおじいちゃん嫌がるだろうし」
テキパキと指示を出す姉に従い、広い内庭の片隅にひっそりと立つ物置小屋に入る。物置と言っても、それはゆうに八畳はあるちょっとした離れのようで、土のついた農耕具はまだしも、空き瓶やら破れた傘やら使われなくなった家電製品やらが雑多に積まれ、今にもなだれを起こしそうだった。
「うわ、コレを俺にどーしろっつーのよ」
整理の行き届いた母屋に比べ、この物置小屋の様子はどうだ。もしや祖父は捨てるべきか判断に困ったモノは、とりあえずこの中に放り込んでいたのではないだろうか。 ぶつぶつ言いつつ、古い雑誌や空き瓶等の分かりやすいゴミから順番に片付けてゆく。と、湿って黴臭い段ボール箱の横で裕貴の手が止まった。
青いプラスチックの竿に半透明のネットのついた虫捕り網が、物置の片隅でひっそりと埃をかぶっていた。
あれは裕貴が小学四年生の時だ。クラスの子供が父親に習って蝶の標本を作って学校に持ってきた。硝子の箱の中で色とりどりの翅を大きく広げた蝶達は、優雅で、まるでそこだけ時が止まっているようで、そして酷く不気味だった。
「学校にこんな気味ワリーもん持ってきてんじゃねーよ」と顔をしかめた裕貴をクラスメイト達は一斉に非難し、そして臆病者と嘲笑った。標本を持ってきた少年が金の有る家の子で、クラスでも発言権の強い人気者だったのが災いしたのだろう。自分が出来ないからって僻んでる、などと言われて、裕貴は思わず勢いで「それっくらいオレにも作れる」と答えてしまった。そして自ら言い出した手前、後にも引けず、裕貴は夏休みが始まると同時になけなしの小遣いで虫捕り網を買って、祖父母の田舎に来たのだ。
「ったく、金持ちなら金持ちらしく、家でおとなしくゲームでもしてろよなー」
小さな彼らが一体なんの罪を犯したというのか。細いピンで磔にされた虫達を想像し、うんざりとした気分で蝉やらバッタやらを手当たり次第に捕まえる裕貴を、畑から帰ってきた祖父が見咎めた。何をしているのかと訊かれ、裕貴はバカ正直に「クラスの奴らを見返してやるために」標本採集をしていると答えて、祖父にこっぴどく叱られた。祖父はいつも眉間に皺を寄せて取っ付きにくい人だったが、しかし声を荒げるようなことは滅多になかった。後にも先にも、あんな風に祖父に叱られたのはあの時だけだ。
何やら色々と理不尽な気がしないでもなかったが、元々気乗りのしなかった事でもあるし、祖父に叱られたのを機に裕貴はコレ幸いと昆虫採集を諦め、虫捕り網はザリガニの捕獲網にジョブチェンジした。安物のナイロン網はザリガニのハサミに切られてあっという間に穴だらけになったが。
「じいちゃんってば、こんなもんまで取っとくかなフツー」
破れた虫捕り網に苦笑し、けれどもなぜかそれをゴミの山に投げ入れることが出来なくて、裕貴は手にしたそれをそっと小屋の隅に立て掛けた。
思えば祖父は、命や食べ物を粗末にすることを酷く嫌った。子供の頃はなんとなくボンヤリと「じいちゃんはセンチュー派で食糧難だったから、その頃の癖が抜けないんだろう」なんて考えていたが、野菜にしろ肉や魚にしろ、祖父にとって人が口にする食べ物は全て『命』だったのかも知れない。裕貴がザリガニやオタマジャクシを飼うことについては特に何も言わなかったし、蝉の幼虫をわざわざ見つけてきて、脱皮の様子を裕貴や直貴に見せてくれたりもした。羽化したばかりの油蝉の淡く透き通るようなエメラルドグリーンの翅を思い出し、ふと頬が緩む。
物置から放り出したガラクタをひとまとめにして家の裏に出す。一段落したところで木陰に立ち止まった。頬を撫でる一陣の風が心地良い。
おーにさーん こーちらー
てーのなーる ほーおえー
目を瞑り、記憶の底に沈む唄声に耳を澄ます。
地面に落ちた柿の甘い腐臭。掘り起こされたばかりの土の湿った匂い。田んぼの青い水鏡を揺らす風。都会で聴けば暑苦しいだけの蝉時雨も、ここではどこか哀愁を帯び、不思議な懐かしさに頭の芯が痺れる。
おーにさーん こーちらー
てーのなーる ほーおえー
ヒロ、と高く澄んだ声が俺を呼ぶ。
ヒロはとろくさいな、と呆れたように溜息をつき、小さく柔らかな手が転んだ俺の膝を払う。俺はとろくさくなんかない、なんったってクラス対抗リレーではアンカーをまかされてるんだからな、俺がトロいんじゃなくて、おまえらがすばしっこすぎるんだろうと口を尖らせた俺を見て、澄んだ声が愉しげに笑う。
おまえ、そんなこと言ってたら、いつまでたっても鬼のままだぞ。
硝子の風鈴のように風に舞う笑い声を掴もうと、俺は闇雲に手を伸ばす――
「ヒロッ」
背後から不意に肩を叩かれ、飛び上がるほど驚いた。
「あ、なんだ、ユミ姉か。いきなり驚かせんなよ」
「いきなりって、さっきから何回も呼んでるのに返事もしないでこんな所にぼんやり突っ立っちゃって、どうしたのよ? 熱中症とか言わないでよ?」
「いやそんなんじゃないけど……あのさ、シゲト伯父さんのとこって、ナツミ姉ちゃんとタクヤさんの他には子供いないよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
母の兄、つまり裕貴達の伯父にあたる茂人は母とはかなり歳が離れていた。そして当然の結果としてその子供達も裕貴達よりも大分歳上で、裕貴が小学生の頃は夏実はすでに大学に通っており、拓哉に至っては社会人だった記憶がある。そして母には他に兄弟姉妹はいない。
「俺達が子供の頃さ、よくこの家で鬼ごっことかしたじゃん? ほら、一人が目隠ししてさ、『おーにさーんこーちら』とか唄うヤツ。あの時に一緒に遊んでた子達って、どこの子だったのかなぁとか思って。あれだけいっつも遊んでたのに、名前とか顔とか全然思い出せなくってさ。姉貴、憶えてない?」
気のせいだろうか。夏の陽射しに細められた姉の眼が硝子のように硬くなり、すっと色を失った。
「……知らないわ」
「俺達のイトコなわけないから、遠い親戚とか、近所の子だったのかなぁ」
「……私はここで誰かと遊んだ記憶なんてないし、そもそもヒロやナオと違ってあんまりこの家には来なかったから」
妙によそよそしい口調でそう言い捨てると、姉はそそくさと母屋へ帰っていった。
3
ヒロ、と誰かが俺を呼ぶ。
早く来いと両手を大きく振って手招きする影に、俺は勇んで駆け寄る。
「相撲とろうで」
怪我をしないよう、綺麗に石を取り除いた柔らかな土に拾った枝で円を描く。俺よりもひと回り身体の大きな少年と、飽くことなく幾度も幾度も取っ組み合った。何度やっても俺が勝てることは滅多になくて、けれどもがっちりと胸板の厚い少年は手加減などせず、かと言って傲慢な態度を取ることもなく、ただひたすら真剣に、愉しげに、俺と相撲を取り続けた。
「もういい加減にせえや。スイカ食おうで」
呆れた声と共に投げられた白いタオルで汗を拭い、井戸で冷やしたスイカにかぶりつく。甘い汁に喉を鳴らしつつ、誰が一番遠くまで種を飛ばせるか皆で競った――
❀
何の夢をみていたのか。真夜中、喉の渇きを覚えて目が覚めた。慣れない畳の匂いに自分がどこにいるのか分からず一瞬戸惑い、そして祖父の家に来ていたことを思い出す。水が飲みたいと思ったが、しかしわざわざ起きて勝手の違う台所まで水を飲みに行くのも億劫で、このまま朝まで我慢しようと寝返りを打った時だった。
夢うつつに、クスクスと押し殺したような笑い声と、パタパタと廊下を走る軽い足音を聴いた。と、それが裕貴の部屋の前で止まった。スッと微かな音と共に障子が滑り、細く開けられた隙間から幾つもの視線がこちらの様子を窺っている。やがてひとつの影が音も無く近づいてきた。小さな黒い影が寝ている自分の躰を覆う。ひんやりと冷たい風が首すじを撫で、その誰かの吐息のような感触に不意にハッキリと目が覚めた。慌てて身体を起こして障子を見たが、月明かりに音も無く揺れる庭木の枝が映るばかりで、そこには誰もいなかった。
……寝惚けて夢でもみたのだろう。
自分にそう言い聞かせ、首すじに残るひんやりと濡れたような感触を手で強くこする。けれども幾度こすっても、妙な感触を拭い去ることは出来なかった。
「……枕が変わったから、変な夢みたな。俺ってデリケートだし」
無理に独りごちて、何となく釈然としないままに再び布団に横になった瞬間、眼の端に走り去る子供の影が映った。
突如凄まじい勢いで襖が開き、黒い影が裕貴に向かって倒れ込んできた。
「うわあッ?!」
咄嗟に横っ跳びに逃れ、布団から転がり出る。バクバクと鳴る心臓を抑え、月明かりにぼんやりと浮かび上がる乱入者の姿に目を凝らした。
「え……ってユミ姉かよ?! なんだよもう! 驚かせんなよッ」
髪を振り乱してぜえぜえと肩で息をする姉に向かって、これまた肩で息をしながら裕貴が喚く。
「ってかマジでなんなの?! すげーコワイんだけど?!」
「あ、あのさ……」
一体彼女は何を見たと言うのだろう。肩の震えを止めようとするかのように、姉は両腕でキツく自分の身体を抱き締めている。普段の独裁者じみた……いや、男勝りな姉からは想像もつかないその姿に、裕貴が眉をひそめた。
「ヒロ……悪いけど、今晩、一緒に寝ていい……?」
「え? 別にいいけど……マジでどうしちゃったわけ?」
「どうしたって……」
何か言いかけた姉が、ふと口を噤んだ。
「……いや、いい。なんでもない」
隣の部屋から引きずってきた布団を頭から被り、姉が裕貴に背を向ける。しかしいつまでも寝返りを打ち続ける姉の気配に裕貴もまんじりともせず、浅い眠りと覚醒を繰り返すうちに朝を迎えた。
(To be continued)




