435.助けは来ません
無明。
一切の希望が見えない、闇の底。
セドナは、そこにいた。
縋る、祈る、泣く、喚く。
自分ではどうしようもない理不尽な力を前に、セドナはまるで子供のようだ。
子供の頃、流行風邪で熱を出して何日か寝込んだことがあった。
子供には辛く苦しい時間だったが、家族の必死の看病が嬉しく、そして耐えればいつかこの苦しみは引くと信じていたから、ただセドナは耐えた。
今回はあとどれくらい耐えれば誰かが看病してくれるだろう。
あとどれくらい耐えれば、痛みは引くだろう。
(バカじゃないの)
誰かの冷たい視線と、険しい声が聞こえる。
そんな酷いことを言うなんて、誰だろう。
セドナは悲しい気分になった。
そう言われても、これは自力ではどうにもできない。
どうにも出来ないことで人に助けを求めて何が悪いのか。
(そういうことじゃないでしょ)
じゃあ、どういうことなのか。
冷たい声は、端的だった。
(変わりたいんじゃなかったの?)
それは、そうだ。
だから変わろうと努力して、勇み足で挑み、しかし、その結果がこれだ。
変わり方を間違えたのだ。
或いは、変わるべきではなかったのだ。
スクーディア家の令嬢として慎ましく、お淑やかにしているべきだった。
(変わろうとしたのは、そこじゃないでしょ)
そこじゃ、ない?
じゃあ、どこだろう。
微睡みに落ちる間際の思考で、しかしセドナは記憶をたぐり寄せる。
あれは確か飲みの席。ヴァルナとアストラエがセドナに内緒で王子の婚約者の元に行った件の後。アストラエが早々に逃げたためにヴァルナと一対一で酒を飲んでいるうちに、自分の中でも漠然としていた不安が輪郭を帯び、やがて口をついて出たそれ。
置いていかれる、という、不安。
親友だった二人が変わっていき、自分だけ取り残されるという漠然とした恐怖を、あの時のセドナは抱いていた。今も無理をして二人についていくことで紛らわせてはいるが、いつ、どんな時にまた同じ気持ちが顔を出すのか心のどこかで怯えている。
士官学校を卒業したあの日、三人は騎士団の未来を誓い合った。
でも、きっとあのなかでセドナだけは嘘をついていた。
騎士団の未来などセドナは何一つ見えていないし、志も抱かず、ただ二人に合わせただけだ。今になって思えばアストラエもどの程度本気だったのかは分からないが、私はあそこで誓いを立てないことで二人との繋がりが希薄になるのを恐れた臆病者だった。
(ほら、見えてきた。そういうとこの正体)
――ああ、なんだ。
セドナは、目の前の闇に閉ざされた世界に一筋の光が通るのを感じた。
成績はよくて勉強も出来る筈なのに、なんで気付かなかったんだろう。
(わたしは……家族が、友達が、ヴァルナくんが受け入れてくれないと不安で仕方のない自分の弱さと脆さが、嫌いだったんだ)
いつの間にか、問いかける声は消えていた。
当然だ。あれは、セドナの無意識の声だったのだから。
助けを呼んでも誰も来ることはない。
脱出するにも、レン・ガオランをどうにも出来ない。
どうにも出来ない人間をどうにかするには、どうすればいいだろう。
そんなことは決まっている。
(立ち上がらないと、何かを変える好機すら訪れない)
次第に周囲の闇が光に照らされ、レンと戦っていたフロアの壁が見えた。
呼吸を静かに整えて、体の奥底で氣を練る。また地面に転がっていた全身は数多の打撲と負担に軋み、重く響く痛みと倦怠感が絶え間なく襲うが、氣の乱れを正すことでほんの少し体がましになった。乱れを正せば僅かながら思考能力も戻ってくる。
どうしようもない状況に追い込まれた際、やるべきことは一つ。
それは、待つことだ。
しかし、援軍を待つこと、相手が攻撃を繰り出すのをやめるのを待つことの他に、もう一つの待ちがある。それは前者二つの受動的な待ちではなく、能動的な待ちだ。
(いま出来るのは、消極的に戦うことだけ……リュンちゃん仕込みの後の先。でも、それじゃあ……)
「跳ねたと思ったらまた大人しくなった。呼吸の練習かな? 上手い上手い、兄弟たちとは大違いだ。基礎がしっかりしている」
先ほどまで一方的に嬲った相手を今度は称賛するような言葉をとる。当然そこには自分が主役で相手は取るに足らない端役であることを前提とした精神性が垣間見える。傲慢であることとも違う、致命的な思考のズレがあるようにセドナには思える。
だから、なのだろう。
自分が力を振り絞って立ち上がったり物事を考える暇があるのは、そのズレ故なのだ。彼はこちらを野ウサギか何かと同程度に考え、野ウサギが自分を害することは不可能だと決めつけているからこそ笑っている。
セドナが勝てるとしたら、その慢心を突くしかない。
相手の気が決定的に緩む瞬間を待って、粘るのだ。
「練氣、組み手」
「ん?」
「そっちの攻撃のお稽古……付き合って、あげたんだから。こんどは、こっちの稽古に、付き合ってよ」
「なんで? 君から学べることなんてないと思うけど? ドンロウ道場は強さが全て。強さに繋がらないものは切り捨てるってバンも言ってたよ」
正論だ、彼には付き合う義理がない。
しかし、ここで引いては何にもならない。
セドナは詭弁を用いて隙を誘う。
「私、が……強くなるために、必要、なの……。稽古である以上、互いに高みを目指すもの、でしょ」
「うん? よく分からないな」
「自分だけ強くなって、相手の強さには付き合わないって、礼儀として、どうなの」
「やっぱりよく分からない」
やはり話は通じないか、とセドナは諦めかけたが、意外にもレンは考え込む。
「そういえば、ルールを守らない礼儀知らずは強くなれないってバンも言ってたっけ。いいよ、練氣組み手だね。おいで」
レンは攻めの構えを解き、手招きする。
練氣組み手とは、全身を行き渡る内氣を体のどこからでも放出出来るようにする組み手だ。攻め手と受け手の二役に別れ、攻め手はゆっくり氣を操作して相手を攻撃し、相手はその氣を打ち消せるだけの氣を命中箇所で練ることで防ぐ。これを繰り返す。
実戦形式のものではなく型にはまった動きが多く、動きも比較的ゆったりしている。この組み手は主に氣のオンオフ、密度や放出のコントロール力が高めることに重きを置いている。
相手を殴り飛ばしたりする組み手ではない。
しかし、息が切れて微かにふらつく体は悲鳴をあげる。
少しでも気を緩めれば膝が震え、意識は遠のきそうだ。
結果的にこの場で最も嬲られる時間の長かったセドナは深刻なダメージを負っていた。
とてもではないが優雅に練氣組み手など出来る状態ではない。
(でも……ここで抵抗しないと。ここで何かしないと。ここで自分を越えないと、何一つ変われないから……!!)
相手は四聖拳、隙を突いたところで勝てる相手ではない。
しかし、少しでも時間を稼げば双子の兄弟が目を覚まして不意打ちするかもしれない。ロマニーが思いも寄らぬ方法で舞い戻ってくるかもしれない。外で大きな状況の変化があり、助けが入るかもしれない。そして、それらの希望があったとしても、ここでセドナを倒してフリーになったレンが暇を持て余して外に出たりしようものなら全てが潰えて終わる。
誰かがここで踏ん張らなければならない。
その役割を、自分がやろう。
無駄かも知れない。
もっと大きな後悔を味わうかもしれない。
でも、今それが出来るのは自分しかいない。
ここで逃げたら、セドナ・スクーディアという人間はあと何年、何十年周囲に甘えて生きていけばいい。あとどれほど助けを乞い、友達の足を引っ張ればいい。自分にしか越えられない壁を前にしたとき、泣いて蹲るようでは――セドナは、一生あの尊敬する親友の隣に真の意味で立つことが出来ない。
(ありったけを、込める。そうだ、四聖拳の予想すら上回るものを。もう確証なんてなくてもいい、私の可能性に私の全てを賭けるんだ!!)
果てしなく遠い、セドナの攻撃を受けるために待つレンへの道。
脳が左右にふらつくような、酩酊に似た感触を精神力で押さえつける。
倒れてしまいたい、泣き叫びたい、早く済ませたい。
そんな本音の欲望が、不思議と極限まで己の肉体から無駄な力をそぎ落としていく。
自分が歩く度に乱れる空気の音さえも聞こえる気がする。
気は遠のいているのに、感覚は極限まで研ぎ澄まされるようだ。
恐らく今の集中状態を途切れさせれば、もうセドナは立てない。
自慢の頭脳でなにか策略を考えるだけの余裕もない。
心に残ったのは、たった一つの静かな感情。
(戦え、わたし。戦え、セドナ)
セドナは己の拳に籠った全ての力を込めて、レンの心臓に向けて掌底を放った。
キレはあったが、力が圧倒的に足りないそれは、べち、とレンの胸を叩くだけだった。
レンは予想出来てたかのように薄笑いを浮かべ――次の瞬間、怪訝な顔をした。
「う、ん? なんだ、これ……お前っ!?」
レンはセドナの手を押しのけようとするが、セドナは持てる全ての体幹を込めて押し続ける。セドナの手から漏れ出す氣はそこそこ止まりで、とてもレンの氣を貫けるものではない。にも関わらず、レンの顔には次第に焦りが生まれ、遂に彼はセドナの手を力尽くで振り払った。
だらんと腕が虚空に投げ出される。だが、投げ出された腕はセドナのほぼ無意識の極限状態が生み出した柔らかさが作用し、レンに受けた衝撃を全て反らす。セドナはふらつく意識のなか、また拳を構え、レンに向けて突き出す。
「ぅあああッ!!」
精神的に動揺したレンはそれを幾つか体で受けてしまい、更に顔を引き攣らせると後ろに退く。
「なんだ。なんだ。なんだ!! 氣で防いでいる筈なのに、なんで、なんで!!」
レンは冷や汗を流しながら自らの上着を剥ぎ取り、己の裸体を見た。
そこには、セドナが攻撃した痕跡が異様なまでにくっきりと残っていた。
ありえない、そんなに強い衝撃はなかった筈だ、と、今頃レンは焦りに焦っているだろう。彼は世間知らずなところがある。だからこそ、未知の経験には弱いと踏んだセドナの賭けは実った。
「稽古の、途中に。取り乱すのは……行儀がよくない、よね」
「五月蠅いッ!!」
まだ自分が優位であることや、早くセドナを倒したいという焦りから大振りになった拳を、セドナはゆらりと躱す。殆ど無意識の行動だったが、それにレンは更に焦る。
「お前、お前! この、この!! なんでさっきまで当たってたのに、当たらないんだ!!」
次々に手足を振り回して仕留めにくるレンだが、その動きからは精細さが抜け落ちてただ荒々しく暴力を振り回しているだけだ。セドナは倒れそうになる体を極限まで酷使して、それらを躱す。躱す度に肉体が限界だと泣き叫ぶが、精神力で黙らせる。
「焦るから、だよ」
「黙れぇ!!」
一八〇度まで開脚して振り上げられたレンの踵落としが迫る。
だが、その直前にセドナは沈むように前に出て、レンの重心をずらすように両手で腹部を突き飛ばした。結果、レンの足はふらついて踵落としはセドナの横に逸れる。リュンに教わった後の先の戦法が、今こそ活きている。
レンの腹部には、またしてもセドナの両手の痕が赤くくっきり残った。
「ぐぅっ!! なんだ、なんで……戦いで体が温まっている筈なのに、なんで! こんなに寒いんだようッ!!」
レンの体が震えている。
肌は青白くなり、鳥肌が立ち、先ほどまであれほど柔軟だった肉体は緊張ですっかり強ばっている中で、セドナが拳を当てた場所だけがくっきりと真っ赤だ。しかし、腫れ上がってはいない。だからこそレンは意味が分からず勝手に混乱していく。
(――いける、まだ、戦えるよ)
セドナは休ませろと叫ぶ肺を酷使して深く息を吸い込み、吐き出す。
口からは白い蒸気が煙のように漏れた。
ただ、蒸気は上に広がって消えるのではなく、下へと落ちていく。
――セドナは、まだ誰も試したことのない可能性に賭けた。
自らがその力を持っていることをつい最近になって知り、そして魔法先進国である皇国にて基礎中の基礎程度を習うことである程度使いこなせるようになったそれを、セドナは宗国で学んだ氣の中に練り込み、混ぜた。
今、セドナが放っている氣は、外氣でも内氣でも、ましてその上位の氣たちですらない。
セドナが纏っているのは、氷の魔力と氣を混濁させた、セドナだけの技術。
白い靄のように漂うそれを、セドナは死力を振り絞って無垢の暴力へと与え続ける。
「熱を奪え、フローズン・オーラ!!」
今、レン・ガオランに自分はどう見えているだろうか。
きっと、得体の知れない化物に見えているに違いない。
でも、お前に助けはこない。
怖いでしょう、レン・ガオラン?




