トレンチ10 再びの図書館
「いらっしゃいませ、王立図書館へ……って、あら?」
「ど、どうも」
王立図書館のドアを開くと、館長のカトルがにこやかに出迎えてくれた。やはりいつものように人っ子一人いない。良平の声も反射して響く。
「旅人の……ええっと」
「良平です。もしかすると前回名乗りそびれたかもしれません」
「ええ、そうね……って、おや。後ろに連れているのは」
「あ、ああ」
振り返ると、そこには青い顔をして頭を抱えるユエの姿があった。昨日、酒をあおって良平のベッドを占有した挙句、今日は二日酔いときている。
「お、久しぶりだな、カトル殿」
震えた声でユエが挨拶すると、カトルはにこやかな笑みを返した。
「ええ、お久しぶり。何年振りかしらね、お嬢様がここに来るのは」
良平は二人の顔を見比べた。
「知り合いなんですか?」
「知り合いも何も。私は、ユエお嬢様の御父上であらせられるショウゲン様の弟子筋だもの。それこそ、お嬢様がおむつをつけていらっしゃった頃からお嬢様の顔は見知っていますわ」
「カトル殿、これ以上言うと剣の錆にするぞ」
「あらら怖い!」
しかしそのくせ怖がっている様子はなく、むしろからかっている。その様はまるで母娘を見るようだ。そうやって楽しげに頬を緩ませるカトルは、良平に向いた。
「今日は何のご用かしら? また私の話が聞きたいの?」
「いえ。これを」
良平は懐から巻物を取り出し、それをカトルに渡した。その巻物を封印している帯を見た瞬間、ああ、と声を上げて目を光らせた。
「勅任文人の封……。すごいわね、あなた。まさか異世界に来てひと月足らずで勅任文人から紹介状を頂ける立場になったのね」
「はあ、まあ……」
その封をほどいて巻物を広げ、目を落とすカトル。しかし、さすがは王立図書館の館長、ものの数秒で読み終えてまた巻物を丸め直した。
「ふむふむ、まさか、ジュ君から紹介状とはねえ。あの子、よほどのことじゃないと他人を認めないのに。どうやって気難しいあの子から紹介状を書いてもらったの?」
「いや、別に何をしたわけじゃないんですけど」
昨日の夜、ユエを強制的に寝かしつけてから、ジュと一緒にベランダに出た。そこには椅子二脚と机が一つ置かれている。もちろん窓の外には百万ドルの夜景などあるはずもなく、どこまでも広がる夜のとばりが横たわっているばかりだった。しかし、そんなことを意に介することもなく、ジュはどこからともなく瓶詰の飲み物とグラスを取り出し、机の上に置いた。
『さて、飲みながら歴史談義としゃれ込みましょう』
グラスの酒をグイッと飲み干して眼鏡をくいと上げ、ジュはマシンガントークを放った。これはすごい、カトルさんとほぼ同レベルだ……! しかし、話題が歴史学、こっちも素養があるだけに、なんとか会話についていくことができた。ショク王国の歴史に始まり、その前のカン王朝、さらにその前の数々の王朝、そしてその前の、文字資料すらない時代まで……。そうこうあれこれ話しているうちに、出し抜けにジュが懐から巻物を取り出して、良平に握らせた。
『これを王立図書館のカトル女史に渡してください。これは私からの案内状です。これを見せれば、閲覧規制のかかったもの以外すべての本を読むことができるでしょう』
うーん、良平は首をかしげる。
「ただ、一緒に酒を飲んで、歴史の話をしていただけですけど」
「なるほど、あの子、歴史談義をする友達を見つけたってことなのかしらね」愛おしげに笑うカトルは手を叩いた。「でも、いずれにしてもこれをもって良平さん、あなたは王立図書館の本を読む権利を有しました。開架資料はご自由に見てどうぞ。閉架史料は私に言えばお持ちいたしますわ」
「はい、ありがとうございます。じゃあさっそく」良平は早速ジュから聞いた書名を上げた。「“カン王朝時代の古物収集趣味”と、“シン風土記”はありますか」
「ええ、どちらも閉架資料ですわ。ちなみに“シン風土記”は全八巻なんですけど、すべてお持ちしてもよろしいかしら?」
「ええ、お願いします」
「なら、あちらでお待ちくださいね」
四人で囲むくらいの大きさの卓を指したカトルは、にこやかに頭を下げて奥へと消えていった。
良平はとりあえず言われた通りに腰を掛ける。しかし、蒼い顔をしているユエは座ろうともしなかった。
「ユエさん、座ってもいいんじゃないですか?」
けれど、ユエは首を横に振った。そのたびに、銀髪がきらきらと輝く。
「いや、私は武人だ。武人が図書館なんぞという惰弱なところに腰を落ち着けるわけには」
「調子が悪くても?」
「悪くても、だ!」
未だに、この国の文人と武人の関係性とか社会的な立場の違いが判らない。それゆえに、あまり踏み込んだことも言えない。人類学の先生が『他文化にお邪魔した時には、その文化を破壊するような行為は慎むべきである。仮に、それが私たちにとって野蛮でおぞましいものだとしても』とおっしゃっていたのを思い出す。
かといって、無言でいるのも気まずい。良平が声を上げようとした。
が、ユエが先に割って入った。
「そういえば、一つ聞きたいことがあるのだが」
なぜか顔を青くしながらももじもじとするユエ。どうしたのだろう。話を先に促すと、ユエは続けた。
「まさか、昨日の夜、何かしたのではあるまいな」
「は? 何かってなんです」
「いや、そのあのあれだ。君も大人ならわかるだろうが」耳を真っ赤にしてユエは難詰口調を強める。「私が飲んでいたのはあくまでエーテルのはずなのだ。なのに酒を飲んだ時のように体がほてって仕方がなかった。そして朝気づけば君の宿舎のベッドの上に寝かしつけられていて、君が『あ、起きました?』とベッドの下から話しかけてきたではないか!」
そりゃそうだろう。良平はため息をついた。
「いえ、あれ、お酒だったんですよ。それはジュさんが証明済みです。それに――」
繰り返すけれど、ユエを寝かしつけてから、ジュとベランダで歴史談義に花を咲かせていたのだ。で、ジュが帰ったのは夜も白けてきた辺り。さすがに三十近い男がオールするのは無理があると察し、占有されているベッドに眠るわけにもいかなかったので床の上で仮眠を取ったのだ。
と、本当のことを言うと、ユエは少し肩を落とした。
「そうか……それはそれは、よかった」
「ええ、まったくユエさんには触れていませんのでご安心ください」
「そういうことではなくてだな」
と、そんな会話をしているうちに、カトルが奥から戻ってきた。
「いや、お待たせしました。見つけるのに案外時間がかかったわ、許してね」
台車を押してやってきたカトルは、本を紹介しながらそれぞれのタイトルを紹介していった。
「まずこっちが“シン風土記”全八巻」
どすんどすんどすん。
「そしてこっちが“カン王朝時代の古物収集趣味”ね」
どすん。
辞書のような厚みの本が九冊も並ぶ。なぜか背表紙の端にごつい金属製の輪がついている。そのうちの一冊を手に取ろうとしたそのとき、カトルは良平を押し留めた。
「あ、ちょっと待ってくださいね」
そう言うや、カトルは机の上に飛び乗った。彼女の緩やかなスカートの裾がふわふわと揺れた。
な、何をする気なんだ?
困惑する良平をよそに、いずこからか鎖を取り出したカトルはそれを本の背表紙についている輪に通し、卓の真ん中にあるU字型の突起に緊縛した。目にも留まらぬ早業に、良平もユエもただ呆然としているしかなかった。
「不覚ッ……、私にも見えなかったぞ」
「ま、マジですか」
と、鎖を麻ひもでも巻くように始末したカトルはにっこりと笑った。
「ごめんなさい。あなたたちのことを疑うわけではないの。でも、これが決まりだから」
ああ、そういうことか。良平は合点した。
活版印刷技術や紙漉き技術が発達するまで、本は極めて高価なものだった。そのため、中世の図書館では本の盗難を防ぐために本に鎖がつけられて、みだりな持ち歩きができないようにしてあったという。
そうやって一人納得すると、カトルは机から降りてちょこんと頭を下げた。
「それじゃあ、あとは勝手にご覧くださいな。あとユエさん、あまりこの“旅人”さんにご迷惑をおかけしないようにね?」
「迷惑などかけてはおらん! そもそもこっちが迷惑しているくらいだ」
「ふふふ」
スキップにも似た足取りで、からかうように微笑むカトルはバックヤードへと消えていった。
ぐぬぬ……。これ以上なく顔を赤くするユエは、地団駄を踏んだ。
「あのう、ユエさん、ブレイクブレイク」
「なにおう!」
「いえ、それにユエさん、もしお忙しいならもう結構ですよ。僕一人で本を読みますから」
「そうはいかん! 私は“導き手”。君がこの世界で何らかの役割を見つけるまで、私は君から離れられないという仕組みなのだ。それに、もし君に何者かが襲ってきたらことだ。私が警護してやる」
む? 良平は首をかしげた。この世界、さして治安が悪そうではなかった。一度夜に独り歩きもしたし、昼間も歩いてはいるものの、特に危険を感じたことはなかった。それに、中世社会ならば当然のごとく存在するはずの貧民窟やスラム街といったものをまったく見出すことができなかったばかりか、戦争の時代ならば当然いるはずの流民たちの姿さえない。まあ、この辺りをリアルに書きすぎるとゲームとしての興がそがれてしまうのだろうなあ、とメタなことにまで思いを馳せたところで、もしかすると実際には治安が悪いのだけれど気づかずにいるだけかもしれないと考え直した。
いずれにしても。
「お、お願いします」
治安が悪いところで一人歩きはすべきではない。
「よかろう」
ユエはなぜか満足気に鼻息を吐いた。その時、ユエの綺麗な銀髪がすこしたなびいた。




