僕の願い、母の決断
その夜、母の前に座って、僕は勇気を振り絞った。
「母さん、お願い。一緒に外へ行こう」
食器を洗う母の手が止まる。
「国境の向こうには、安全な場所がある。病院もあって、水も電気もある。
……ヨハンって人が言ってたんだ。行ける方法も、少しずつだけど探してくれるって」
母は何も答えない。
「ここにいたら、いつ死ぬかわからない。僕、戦争で死にたくないよ。
銃を持って誰かを殺すような大人には……なりたくないんだ」
その言葉に、母の肩がわずかに震えた。
「アスラン……あなたはまだ子どもよ」
母の声はかすれていた。
「だからこそだよ。母さんと一緒に、安全な場所で生きたい。
父さんのことは……僕も忘れたくない。でも、もう帰ってこないかもしれないでしょ……?」
服を握りしめ、母に訴えた。
長い沈黙が続いた。
僕の言葉が、母の心に届いたかどうかはわからない。
僕が寝静まった後、母は声を押し殺して泣いた。
アスランにとって好きで私のもとに生まれてきたわけじゃない。
好きでこの国に住んでいるわけではない。
まだ10歳。本来なら学校にいって友達と外で走り回っているはずだった。
私が育ったこの国は、平和のはずだった。
学校、公園、スーパーへの道、図書館、ショッピングモール。
思い出がたくさんある。
でもアスランにとっては、地獄がはじまってからの国だった。
この国のいいところなんて、何も教えてあげられていない。
「本当にごめんね…どうしようもない母親で…」
「この国の子供になってしまってごめんね…」
寝ているアスランの頭を撫でる。
アスランの言葉が胸をつき刺さった。
「僕、戦争で死にたくないよ。
銃を持って誰かを殺すような大人には……なりたくないんだ」
翌朝、アスランが起きると、母が何やら準備をしている姿がみえた。
母はリュックに食料と衣服、一枚の写真を詰めた。
父さんがまだ若かった頃の写真だった。
「……この国を出よう」
その声は、ささやくように小さかった。
でも、僕にとっては鐘の音のように響いた。
ヨハンに連絡をとり、町を抜け出す夜を決めた。
安全を求めて国をでたいと願う他の家族と一緒に、人目を避け、裏道を通り、山を越えて川を渡る。
決して安全なルートではなかったけれど、それしかなかった。
移動中、母は何度も立ち止まった。
足が痛いのか、心がついてこないのか、僕にはわからなかった。
そして、3日後。
僕たちは国境を出てすぐにある難民キャンプにたどり着いた。
『マハラ難民キャンプ』
そこは、外の世界とは違っていた。
もちろん、銃声はなかった。
空には爆撃機も飛んでいなかったし、水も配られていた。
最初は安心から、不自由を感じなかった。
普通に生きていける、そう思っていた。
でも、塀に囲まれ、監視され、自由のない「暮らし」がそこにあった。
配給の列は長く、トイレは汚く、人々は不安と疲れに覆われていた。
僕が想像していた“自由”とは、少し違っていた。
夜、配られた毛布の上で寝転びながら、僕は母に聞いた。
「母さん……ここって、本当に安全なの?」
母は、疲れた目で僕を見て、そしてやさしく言った。
「安全っていうのは、たぶんね、“何も起きない”ことじゃないの。
“何かを選べる”ことよ。ここには、それがあるかもしれない。少しだけね」
その言葉の意味は、まだはっきりとはわからなかった。




