シュウゲキ
奇妙な物音が聞こえてきた。
次いで、人間たちの声。聞き覚えのあるものではない。どちらも、大きく耳障りな音だ。怪物にとって、不愉快きわまりない。
地上で、何か起きているらしい。人間どもが、また騒ぎを起こしたのか。最近、奴らの存在が鼻につくようになってきた。怪物は、上に向かいゆっくりと泳いでいく。
今の怪物にとって、ほとんどの人間は単なる食材でしかない。その食材が、すぐ近くでうろつき不快な音を出しているのだ。しかも、今は腹が減っている。
ならば、殺して食らうだけ……怪物は、上に向かい泳いでいった。
・・・
突然、ドアを叩く音がした。かなり強い力で、何度も叩いている。
何かあったのだ──
浩市は、すぐに起き上がる。時計を見れば、午前二時だ。窓から見える風景は、闇に包まれている。
ドアを叩く音は、まだ続いている。切羽詰まった雰囲気だ。誰かが外に来ている。しかし、そいつはまともな訪問者ではない。
いったい何者か、などと考えるまでもなかった。田山か、渡部の関係者だろう。
先日、中里の件があったばかりなのに……一難去ってまた一難とは、このことだ。
戸を閉めたまま、そっと声を出す。
「すみませんが、どちらさんですか?」
「田山だ。悪いが、ちょっと匿ってくれ!」
声は、間違いなく田山だ。不安に襲われながらも、まずは何用か聞いてみる。
「はい? どういうことですか?」
「渡部たちに見つかったんだよ! 早く開けてくれ!」
殴られたような衝撃を受けた。自分の出来る手助けにも限度がある。これは、浩市の手に余る頼み事だ。しかし、帰ってくれとも言えない。
そこで閃くものがあった。
「ちょっと待ってください。隠れるなら、もっといい場所がありますよ」
「は? 何を言ってんだ!」
「今、外に出ます。付いて来てください」
言うと同時に、浩市は外に出る。
田山は、いつもと同じメガネとマスク姿である。ただ、いつもと違う点もあった。右足を引きずっているのだ。怪我をしたのか。
「今から店に行きましょう。厨房には、床下収納のスペースがあります。人ひとりくらいなら隠れられます。ひとまず、そこに隠れましょう」
「待て。そんなスペースに隠れたって、すぐに見つかるんじゃねえか?」
田山の口調が、いつもとは違っていた。明らかに焦っている。よほど危険な目に遭ったのだろう。だからといって、ではウチに隠れてください、とは言えない。
「ウチで匿っても同じです。家探しされたら終わりですよ」
田山を厨房のスペースに入れた後、浩市は自宅に帰るため歩き出した。
だが、そこで車のエンジン音が聞こえてきた。見れば、ふたつのライトがこちらに向かってくる。直後、クラクションが聞こえた。こちらに対する何らかのアピールだ。
浩市は顔をしかめる。あれは、間違いなく渡部らの車だ。まさか、こんなに早く来るとは。逃げるか? それとも上手くごまかすか?
いや、この状況では逃げられない。なら、ごまかすしかない。
やがて車は、浩市の十メートルほど手前で停まった。ドアが開き、四人の男たちがこちらへ近づいて来る。全員、殺気立っているのが暗闇の中でも見て取れた。
「なあ、兄さん。ここらへんに、誰か逃げて来なかったか? メガネかけた奴だ」
渡部が聞いてくる。いつもの余裕を感じさせる話し方ではない。言わなければ殺すぞという空気を放っている。
「えっ? いや、見てませんよ」
「兄さん、それは妙じゃねえか? 今は午前二時だぜ。まともな奴なら、寝てる時間帯だ。にもかかわらず、兄さんはここにいた。メガネ野郎が、ここらに逃げてきたのと、ちょうど同じタイミングでな。これを、どう説明する?」
口調は乱暴だが、言っている内容は筋が通っていた。浩市は、必死で考えを巡らせつつ答える。
「い、いや、偶然ですよ。本当に見てないんです。僕は、たまにこの辺をパトロールするんですよ。最近、変なことが多いものですからね」
「下手な嘘をつくのはやめねえか!」
渡部が怒鳴った時、家から理恵子が出てくる。
「いい加減にしてください。警察呼びますよ」
「警察だぁ? んなもんが怖くてヤクザの看板は背負えねえんだよ。お前らふたりくらいバラしたところで、死体さえきっちり始末すれば何の問題もない。どうせ、こんな田舎のお巡りじゃ大した捜査も出来ねえだろうしよ」
言った直後、渡部は懐から何かを取り出す。腕を上に向けた。
次の瞬間、銃声が轟いた。浩市は、反射的に後ずさる。渡部は拳銃を抜き、空に向け発砲したのだ。
そして、渡部は銃口をこちらに向ける──
「おふたりさんよう、俺は完全に頭にきてんだよ。だから、手段は選ばねえ。メガネ野郎の居場所、知ってるんだろ?」
拳銃をちらつかせながら、渡部は聞いてきた。
浩市は、思わず後ずさる。まさか、こんな強行手段に出てくるとは思わなかった。
この男たちは、浩市らを撃つだろうか……そんなバカなことをするとは思えないが、保証はなかった。何より、そこまで危険な賭けをする気にはなれない。
こうなれば、田山を売るしかないのか。いや、売ったところで助かる保証もない。
その時だった。予想外の事態が彼らを襲う。
突然、湖に異変が生じた。水面が泡立ったかと思うと、何かが勢いよく飛び出してきた。暗いため、細かい部分の形状は見えない。だが、ひとつはっきりしていることがあった。身長は二メートル以上、二本足で立っているものだ。
新たな乱入者は、こちらに向かい歩き出した。特に急ぐでもなく、のんびりと進んで来ている。
浩市は、それが何なのかわかっていた。理恵子も知っていた。湖に棲む怪物だ。どうやら、騒ぎを聞きつけ出てきてしまったらしい。
言うまでもなく、渡部たちは怪物のことなど知らない。彼らは、突如として乱入してきたものに唖然となっていた。これまで見たこともない生物である。目の前で何が起きているのかすら、把握できていないのだ。
怪物の方は、彼らの事情など関係ないらしい。立ち止まったかと思うと、向かい合う人間たちを見回す。
一瞬の間を置き、怪物は豹変する。突っ立っている渡部らに、恐ろしい速さで襲いかかっていった──
怪物は、もっとも近くにいた若者に腕を振るう。グシャッという音の直後、若者は叩き潰されていた。もはや、人間とは呼べない形状になっている。
そこで、ようやく渡部らは置かれた状況を理解したらしい。自分たちは、得体の知れぬ怪物に襲われている──
「ぶ、ぶっ殺せ!」
怒鳴ると同時に、拳銃のトリガーを引く。手下たちも、続けて発砲した。銃弾が、次々と怪物の体に炸裂する。
弾丸が当たる度、怪物の巨体が微かに揺れる。だが、それだけだった。退く気配はない。浩市は、次に何が起きるかを予測し顔を歪める。
その予想は外れなかった。次の瞬間、怪物は動く。巨体からは想像もつかぬスピードで間合いを詰め、強靭な両腕を振るう──
戦い……いや、一方的な殺戮はすぐに終わった。渡部らは、ほんの数秒でものいわぬ死体になっている。いや、肉塊と言った方が正確だろう。
そんなことをしでかした怪物はというと、肉塊を見下ろしている。その顔つきからは、何を考えているのか読み取れない。
呆然となっていた浩市と理恵子だったが、不意に怪物が顔を上げる。ふたりに視線を移した。
その時、浩市の口から思わぬ言葉が出る。
「ありがとう」
なぜ、そんなことを言ったのか。
深い理由などなかった。前と同じく単純に、お陰で助かった……という気持ちから発せられた言葉だ。
しかし、その言葉を聞いた怪物の顔つきが僅かに変わる。
「ア、イ、ア、ト、ウ」
怪物は、そっと繰り返した。
直接、その長く強靭な腕で四つの死体をひとまとめに担ぎ上げる。
一瞬にして、湖へと潜っていった。
浩市と理恵子は、しばらく無言で湖を見つめる。
ややあって、ふたりで顔を見合わせた。
「また、あいつに救われたみたいだ」
浩市が言うと、理恵子は複雑な表情で頷く。
「そうだね。でも、前回と今回は救われた……という言い方が正しそうだよ。またあの怪物に遭ったら、どうなるかはわからないしね」




