ヒトクイ
中里が去っていくと同時に、理恵子が厨房から出てきた。彼女もまた、全てを聞いていたのだ。
不安そうな顔つきで口を開く。
「どうするの?」
「わからん。とりあえずは、奴の言うことを聞くしかなさそうだ。クソ、まさか中里まで絡んでくるとはな……俺たちは、どこまで不幸なんだよ」
歪んだ笑みを浮かべつつ答えた。
本当に、不幸としか言いようがない。ヤクザのみならず、ここで悪徳警官まで登場しようとは思わなかった。
浩市はただ、誠司のしでかしたことを闇に葬りたいだけだった。他のことにかかわる気などなかった。それなのに、五億円を巡る悪党たちの争いに巻き込まれている。
その時、理恵子の手が、そっと浩市の背中に触れた。
「確かに不幸だけどさ、泣き言いってても何もならないよ。これからどうするかを決めなきゃ」
不思議な感覚だった。
絶望するしかないような状況なのに、理恵子の手が触れただけで、不安が和らぐのを感じていた。
ひとりではない。誰かがそばにいてくれる。それだけのことだ。にもかかわらず、浩市はフッと笑みを浮かべていた。
「あんたは本当に強いな。理恵子さんがいなかったら、俺たちはどうなってたか……」
「そういうこと言うのは、全部終わってからにして。で、どうすんの? 田山に、あの中里のこと伝えるの?」
「今は黙っとくよ。あのふたりを接触させたら、殺し合いになりかねないからな。まずは話し合ってみる」
答えると、理恵子は目を逸らした。何か言いたげな様子だが、ためらっているらしい。
少しの間を置き、理恵子は口を開いた。
「中里の話だけどさ、どう思う?」
「えっ、どう思うって?」
訝しげな表情の浩市だったが、続けて放たれた問いは想定外のものだった。
「正直に言って。五億を奪おうとか思ってる?」
聞いた瞬間、崩れ落ちそうになった。五億を奪う……そんなことは、考えもしていない。
「冗談じゃないよ。今はただ、この状況をどうやって凌ぐか……それしか考えてない。金なんかいらないよ」
「なら良かった。こういう時、トチ狂って五億いただこう……なんて考える奴がいるんだよ」
「冗談じゃないよ。金よりも、とにかく普通に生きたいよ」
吐き捨てるような口調で答えた。その言葉は、偽らざる本音だ。五億円など、全く興味はない。
仮に、浩市が客の来ない食堂を経営していただけの人間ならば、その話を聞いて気持ちが動いていたかもしれない。
しかし、今の浩市を取り巻く環境はのっぴきならないものである。誠司が父を殺してしまい、湖には未確認生物が住み着いている。しかも、誠司は高田まで殺してしまった。
そして浩市は、弟の罪を隠蔽しようとしてしまった。もはや、彼もまた犯罪者である。さらに今、裏の連中の争いに巻き込まれようとしている……。
今の浩市に金などいらない。ただただ、平穏な日々が戻ってきて欲しいだけだった。
午後六時になり、浩市は店を閉めた。
外に出ると、待っていたのは中里だ。浩市を見るなり、笑みを浮かべて近づいて来る。
浩市は、無言で目配せし湖へと歩いていった。中里も、後を付いていく。
ふたりは、湖の周囲をゆっくりと歩いていく。林の中に入っていくと同時に、浩市は立ち止まり振り向いた。
中里も足を止め、ニヤリと笑う。
「腹は決まったよね? じゃあ、あのオッサンを呼び出してよ」
「ちょっと待ってください。あの人を殺すつもりですか?」
「それしかないじゃん」
軽い口調で答える中里に、浩市は異様なものを感じていた。この男は、人殺しなどなんとも思っていないらしい。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。まずは、話し合いましょう。三人で話し合い、穏便に済ませませんか?」
「話し合いだって? 無理無理。あのメガネオヤジはさ、相当ヤバいみたいよ。表沙汰にはなってないけど、金を奪う時にひとり殺してるみたい。話し合いなんかしたら、寝首かかれるだけだよ」
「いや、でも殺したら後が面倒ですよ」
浩市がそう言った途端、中里の表情が変わる。
「君さあ、わかってないみたいだね。俺はね、君に頼んでるわけじゃないんだよ。命令してんだよ。さあ、早く呼び出してくんないかな。でないとさあ、俺も怒るよ!」
凄む中里の右手は、腰に下げられた拳銃に置かれている。完全に脅しに来ているのがわかった。
対する浩市は、思わず後ずさる。まさか、ここで撃つ気はないだろう。だが、この男はこちらの話を聞く気がない。こうなった以上、田山を売るしかないのか。
その時、またしても予想外のことが起きる──
湖が、にわかに泡だってきた。だが、浩市も中里もまだ気づいていない。
次の瞬間、水中から何かが飛び出してきた。水しぶきをあげながら高く飛び上がり、ふたりの近くに着地する。
それは、巨大な体をしていた。身長は二メートルを遥かに超えており、横幅も広い。甲殻類のような皮膚をしており、人間と同じように二本足で立っていた。
「お、おい、何なんだこいつは……」
言ったのは中里だ。その声は震えており、先ほどでの自信に満ちた態度は消え失せている。
それも仕方ないだろう。いきなり目の前に現れたものは、これまでに見たこともない生物である。体は自分より遥かに大きく、姿は異様だ。そんなものが、湖からいきなり上がって来たのである。
浩市もまた、何も言えなかった。怪物が、この場に現れるとは思っていなかったのだ。
ふたりは突っ立ったまま、乱入してきた怪物をじっと見上げていた。怪物もまた、身じろぎもせずふたりを見つめている。
沈黙が、その場を支配する。だが、それは長く続かなかった。
突然、中里が動き出す──
「よ、寄るな!」
喚きながら拳銃を抜く。銃口は、怪物へと向けられていた。両者の距離は、二メートルほどだろうか。この距離では、まず外さないだろう。
浩市は顔をしかめた。この悪徳警官は、恐怖のあまり冷静さを失っている。放っておけば、怪物を撃ちかねない。
しかし、拳銃の弾丸ごときでは、この怪物は殺せないだろう。むしろ、逆上させるだけなのではないか──
「中里さん! 落ち着いて! こいつはおとなしいから──」
言った時には、もう遅かった。中里の震える指は、拳銃のトリガーを引いてしまったのだ。
乾いた銃声とともに、弾丸が発射される。正確に、怪物の胴体を貫いた。だが、怪物は微動だにしない。ピクリともせず、中里を見下ろしている。
中里の暴走は止まらない。さらに、拳銃のトリガーを引く。乾いた音を発しながら、銃弾が打ち出されていった。
弾丸は高速で発射され、怪物の体に炸裂する。と、怪物の方も動いた。突然、すっと移動する。
次の瞬間、腕が振るわれた。中里の顔面を、無造作にぶっ叩く──
一瞬にして、状況は変わり果てていた。
中里は、地面に倒れていた。その首は、折られてしまったらしく奇妙な方向を向いている。顔の肉と皮膚は削げ落ちており、無惨な状態である。制服を着ていなければ、中里とはわからないだろう。
先ほどまで、この男は生きていた。浩市を脅し、田山を連れてこい……と居丈高な態度で命令していた。しかし、今は物言わぬ屍となっている。
呆然となっていた浩市だったが、すぐに目線を怪物へと移す。
怪物もまた、浩市を見つめていた。その体には小さな傷がついており、緑色の体液が流れている。それも数か所だ。中里が、死ぬ間際に放った銃弾によるものだろう。
この生物が、何を考えているのかはわからない。だが、結果として救われたのだ。
「あ、ありがとう」
思わず、礼の言葉が口から出ていた。すると、怪物も口を開ける。
「ア、イ、ア、オ、ウ……」
怪物の口から出たのは、この前と同じものだった。浩市は、思わず笑みを浮かべる。
だが、その後の行動は浩市を驚かせるものだった。怪物は、中里の死体に手を伸ばす。恐ろしい腕力で、軽々と掴み上げた。
そのまま、湖に飛び込む。あっという間に、水中へと消えてしまった。
「だ、大丈夫?」
そっと声をかけてきたのは理恵子だ。彼女は、木陰に隠れて成り行きを見守っていたのだ。
「ああ、大丈夫。あいつのお陰で、助かったよ」
言った直後、浩市はその場に座り込む。もはや限界だった。怪物が、あんなことをするとは……。
その時、理恵子がそっとしゃがみ込んできた。
「助かった、のかな?」
冗談めいた口調だったが、彼女の顔も蒼白だった。
それも当然だろう。目の前で、ひとりの人間が死んだ。それも、怪物に殴り殺されたのだ。そんな光景を見せられて、平静でいられるわけがない。
「ああ、たぶんな」
「あいつ、人を殺したんだね」
理恵子が、そっと呟いた。
「仕方ないだろ。拳銃で撃たれりゃ、あいつだって痛いよ。身を守るために、中里を殺したんだ」
言い返す浩市の語気は荒くなっていた。あの怪物を、悪く言う気にはなれない。実際、怪物のおかげで助かったのだ。
しかし、理恵子は違うことを考えているようだった。
「じゃあ、あの死体は何のために持っていったのかな」
「えっ?」
「拳銃で撃たれて痛かった、だから反撃して殺した。それはわかるよ。でもね、その死体をわざわざ持って湖に帰っていった……これは、ちょっと話が違ってくるよ」
死体を持っていった……その行動の目的は、ひとつしか考えられない。
「あいつ、死体を食べる気なのか?」
「それ以外に、何か理由がある?」
その問いに、浩市は何も言えなかった。思い当たる理由はひとつだ。他の理由など考えられない。
黙り込む浩市に、理恵子は静かな口調で語り続ける。
「あの怪物は、人間を食べるんだよ。そうとしか考えられない」
彼女の言う通りだ。それはわかっている。だが、素直に頷けない部分もある。
そんな浩市に、理恵子はもう一度繰り返した。
「あいつは、人食いの化け物なんだよ。もう、この辺りにはいられない」
「ちょっと待て。あいつは、俺を襲わなかったぞ」
感情に任せ言い返した浩市だったが、理恵子はかぶりを振った。
「既に、食料は用意できていたからね。中里ひとりを殺せば、当分の食料になる。そう思っただけなんじゃないかな」
答えた後、理恵子はそっと浩市の肩に触れる。
「ねえ、冷静になって考えてみて。あたしの言っていることが絶対に正しい、なんてことを言うつもりはないよ。でもね、その可能性はある。あいつが人間を食べるとなったら、いよいよおしまいだよ。あたしたちも、あいつに襲われるかもしれない」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「みんなで、ここから逃げるしかないでしょ」
・・・
湖の底では、怪物が中里の死体を食らっていた。
警官の制服を引き剥がし、肉を食らう。強靭な顎と牙で、骨までバリバリ噛み砕いた。中里の体は、たちどころに怪物の胃袋へと消えていく。周辺には、血の匂いを嗅ぎつけた水生生物たちが集まってきた。おこぼれをもらおうというのだ。
死体のあらかたを食べた怪物は、満足し横たわった。
「ア、イ、ア、オ、ウ」
聞いた言葉を繰り返しつつ、先ほど起きた出来事を思い返してみる。
泳いでいる時、上から音が聞こえてきた。人間の話す声だ。興味をそそられ、行ってみることにした。
地上に出てみれば、ふたりの人間がいた。片方は、よく知っているあいつだ。もう片方は、初めて見る人間だ。大きな声で、何やら言い合っている。何やら、良からぬことが起きる予感がした。
その予感は当たる。見覚えのない方は、こちらを向き喚いた。直後、手に持った何かから音が出る。
直後、痛みを感じた。肌を突き刺す感覚だ。こんな痛みは、初めて体験した。もっとも、生命に別状はない。この程度なら、すぐに治る。
しかし、不快な思いをしたのも確かだ。こいつは、なんてことをするのだろう。こちらは何もしていない。なのに、痛い思いをさせられた。
人間は、なおも攻撃してくる。手に持ったものが音を発し、直後に痛みを感じる。一撃で殺せる弱い人間が、こちらに痛みを与えているのだ。
調子に乗るな、そう思った時には体が動いていた。腕を振るっただけで、人間は死体と化していた。
血の匂いが、鼻を刺激する。途端に、食欲を感じた。美味い肉がある。食べたい。
その時、もうひとりいることを思い出す──
あいつも食べたかった。だが、あの言葉を聞いた時、何かが彼を押しとどめる。なぜか、あいつは殺してはいけない気がした。
仕方ない。今回は、ひとり食えれば充分だ。怪物は、死体を抱え水中へと戻っていった。




