コクハク
その日の始まりは、いつもと変わらないものだった。
店を開けると、来ることのない客を待つ。昼過ぎに田山が現れ、普段と寸分変わらぬやり取りをした。その後は駐在の中里が顔を見せた以外、ひとりの客もないまま時間が過ぎていく。
今日も、問題なく過ごせそうだな……などと思っていた時だった。突然、店の勝手口が勢いよく開く。誰が来たのかと思えば理恵子だ。のほほんとした態度の浩市に近づき、そっと囁く。
「あのさ……誠司くんのことだけど、ちょっとおかしいよ」
聞いた浩市は、思わず笑ってしまった。誠司がおかしいのは、今に始まったことではない。
「いや、あいつは生まれた時から今まで、まともだった時がないからさ……で、何がおかしいの?」
「部屋にこもったきり、ずっと出てこないんだよ」
ふざけた態度の浩市とは対照的に、理恵子の方は真剣そのものだ。
しかし、浩市には理解できなかった。部屋にこもるくらいなら大したことはない。むしろ、あちこち出歩かれる方が困る。わざわざ、店に乗り込んでまで伝える情報とは思えない。
「どうせ、部屋ん中で何かやってるだけなんじゃないのかな?」
「何か、って何?」
聞き返す理恵子は、明らかに苛立っていた。言葉にも棘がある。
浩市はというと、さらに戸惑い困惑し、どうしたものかと思っていた。正直、彼女が何を言わんとしているのかわからない。部屋にこもるくらい、ほっといても何の影響もないだろう。
ひょっとしたら、家で揉め事でもあったのだろうか。そんなことを思いつつ口を開く。
「いや、それはわからないよ。ただ、何やってようが俺には関係ない。死体さえ始末してくれりゃ、あいつの行動には何も言わないよ」
浩市がそう言うと、理恵子は下を向いた。
機嫌を損ねてしまったのか。ならば、その怒りの原因について話を聞こう……などと思った時だった。
突然、理恵子が顔を上げる。何かを決意した表情で口を開いた。
「落ち着いて聞いて。誠司くんは、シャブやってるんじゃないかって気がするんだよ」
「は? シャブ?」
唖然となる浩市。全く予想外の単語が飛んできたのだ。
シャブ、すなわち覚醒剤を指すスラング……ということくらいは知っている。しかし、誠司がそんなものをやっていた、という話は聞いたことがない。
「そう、シャブ。誠司くん、そっちで逮捕されたこととかないの?」
尋ねてきた理恵子の態度は、ごく自然なものだった。明日の天気は? と聞いているような口調である。浩市は、戸惑いつつも答える。
「ないよ。だいたいな、誠司は俺と同じで酒も飲めない男だぜ。シャブなんかやったら、倒れるんじゃないかな」
そう、浩市も誠司も酒が飲めない。アルコール度数の強い酒でも飲もうものなら、ひっくり返ってしまうだろう。そんな人間が覚醒剤など打ったら、死んでしまうのではないか。
しかし、理恵子の答えは非情だった。
「それ、全く関係ないよ。酒に弱くても、シャブやる奴はいるから」
あっさりと返され、思わず顔をしかめる浩市だった。が、そこでひとつの疑問が浮かぶ。
「なんで、そんなに詳しいんだ?」
途端に、理恵子の表情が険しくなった。
いきなりの変化に、浩市は何も言わず成り行きを見守る。もし彼女が答えないなら、とりあえずは話題を変えるつもりだった。言いたくないことなら、無理に聞かなくてもいい。
しかし、少しの間を置き理恵子は答える。
「昔、シャブ中と付き合ってたんだよ。とにかくヤバかった。ヨレると、わけわかんなくなるんだよ」
またしても、予想外の話を聞かされた。
理恵子は、浩市など想像もつかない壮絶な体験をしているらしい。圧倒されつつも、もうひとつ聞いてみた。
「あの……理恵子さんは、やってたの?」
聞いた途端、理恵子は露骨に不快そうな表情になった。
「やんないよ。一度シャブ打たれそうになったことはあるけど、何とか誤魔化して逃げたよ。あん時やってたら、あたしの人生終わってたかもしれない」
憎々しげな態度で語る。その表情を見るに、シャブ中への怒りは未だ消えていないらしい。
それにしても、理恵子にこんな一面があるとは思わなかった。父の健人に殴られ、抵抗もせず泣いていた姿が嘘のようだ。いや、こっちが理恵子の本当の顔なのかもしれない。
そんなことを考えている浩市に向かい、理恵子は語り続ける。
「そのシャブ中だけどさ、今の誠司くんと全く同じことしてたんだよ。いきなり部屋に入ったと思ったら、丸二日くらい出てこない。そんなことが、しょっちゅうあったんだよ」
「わかった。じゃあ、帰ったらそれとなく聞いてみるよ」
店を閉めると、浩市は真っ直ぐ家に帰った。
帰宅と同時に、誠司の部屋に向かう。ドアを軽くノックした。
「ちょっといいか?」
「う、うん、いいよ」
上ずった声が返ってくる。浩市はドアを開けると、ずかずか部屋に入っていった。
誠司は、部屋の隅に座っていた。入ってきた浩市を怯えた目で見るが、それは一瞬だった。すぐに目を逸らす。
そんな誠司の真正面に立ち、口を開いた。
「お前、大丈夫か?」
「えっ? 何が?」
無表情で聞き返してきた。相変わらず、浩市とは目を合わせようとしない。これは、どう見ても大丈夫ではなかった。
浩市自身は、覚醒剤をやったことはない。周りにも、そんな人間はいなかった。そんな浩市ですら、今の誠司がおかしいことはわかる。
しかし、ここで「お前、シャブやってんのか!?」などと聞いたところで、素直に白状するとは思えなかった。
仕方ない。今日のところは、それとなく釘を刺すだけに留めよう。浩市はしゃがみ込むと、誠司に顔を近づけていった。
「いいか、よく聞け。お前が何をやろうが、俺の知ったことじゃない。だがな、人生ってヤツは撒いたものを刈り取るように出来てる。お前のしたことは、全てお前の身に返ってくるんだよ。お前も、もう二十歳を過ぎている。行動に対し、いちいち口を挟むつもりはない。最終的に、泣くのはお前自身だからな」
ゆっくりとした口調で語る。にもかかわらず、誠司はこちらを見ようともしない。
殴りたい、そんな衝動に襲われる。だが、その気持ちをどうにか抑えて話を続ける。
「だがな、やることはきっちりやってくれ」
「や、やること?」
ここで、やっと誠司はこちらを向いた。こちらの言っていることが、通じていないらしい。
浩市は、誠司の襟首を掴む。彼の顔を引き寄せた。
「その頭に叩き込んどけ。お前には、大至急やらなきゃならねえことがふたつあるんだよ。ひとつは、オヤジの死体の始末。もうひとつは、高田をウチに近づけさせないことだ」
「高田? ああ、あいつか」
震える声で、誠司は答えた。
「あいつか、じゃねえんだよ。その高田に、ウチにも店にも来ないよう言っとけ。それも、今日中にだ。あんなバカにうろうろされたら、何も出来なくなるだろうが」
「う、うん。わかった」
「そっちを済ませたら、次は死体の始末だ。こっちは、多少の時間がかかってもいい。一週間や二週間くらいなら待ってやる」
優しい口調で語っていた浩市だったが、次の瞬間に表情が変わる。
「けどな、あんまり時間をかけてると何が起きるかわからねえぞ。警察の家宅捜索を受けてから、後悔しても遅いんだ」
「あ、ああ」
「とにかく、高田の件だけは今日中に終わらせろ」
そう言うと、浩市は部屋を出た。すぐに理恵子に目配せして、外へ出ていく。彼女も、浩市の後に続いた。
十メートルほど歩いたところで、浩市は立ち止まり理恵子の方を向いた。
「どうだった?」
聞いてきた彼女に、浩市は苦笑しつつ答える。
「あれは、確かにヤバいな。でも、ほっといても大丈夫だよ。あいつは、大した悪さは出来ない男だから」
途端に、理恵子の表情が険しくなった。浩市を睨むような目で見つめ、口を開く。
「前から思ってたんどけどさ、浩市は誠司くんに甘すぎるよ」
「えっ、そんなことないよ」
「あたしだったら、とうの昔に切り捨ててる。誠司くんは、確かに極悪人じゃないかもしれないよ。でもね、こういう非常時にシャブやる神経は理解できない。彼は、面倒くさいことはほっとこうって肚なんだよ。そうすれば、頼れる兄貴がなんとかしてくれる……ってね」
彼女の言葉は、鋭い刃物のように浩市の心に突き刺さった。誠司は、確かにそういう人間だ。今まで誠司と暮らしてきて、嫌というほどわかっていた。
同時に、そんな厄介者と知りながらも、切り捨てられない自分の愚かさもわかっている。
だからこそ、怒りが湧き上がる──
「あんたにはわからねえよ。俺とあいつは兄弟だ」
思わず、強い口調になっていた。
すると、またしても理恵子の表情が変わる。寂しそうな目で、浩市を見つめた。しかし、すぐに目を逸らす。
「そう、聞く耳持たずって感じだね。じゃあ、もう何も言わない。けどね、ひとつだけ覚えておいて。ああいう人間ってのは、いつか決定的なことをやらかすよ。みんなをまとめて地獄に突き落とすようなことをね」
横を向いたまま、冷たく言い放つ。その顔には、見覚えがあった。かつて、父から理不尽な暴力を受けていた時、理恵子はこんな顔で耐えていたのだ。
浩市の中で湧き上がってきた怒りの矛先は、己へと向けられた。
「ごめん。俺がバカだったよ。理恵子さんには、迷惑かけっぱなしだったね。そのことを、ちっとも考えてなかった」
言いながら、浩市は頭を下げる。考えてみれば、理恵子は誠司と家でふたりきりという状況なのだ。
彼女から見れば、誠司は赤の他人である。しかも、家族で一番の厄介者だ。その厄介者の世話を、ずっと押し付けられていた。
誠司のことだけではない。父・健人に対しても同じだ。理恵子がこの家に来た当初、父とどんな生活をしていたかは知らない。だが、父が病で倒れてからは、ひとりでずっと世話をしてきた。何を言われようが、黙って耐えていたのだ。
この家に来てから、理恵子はずっと厄介者の相手ばかりさせられている。しかも、誰も彼女に感謝していない。
「明日から、しばらく店に来てなよ。やることはないけどさ、とりあえず誠司と一緒にいるよりはいいでしょ」
そこで、ようやく理恵子はこちらを向いた。
「誠司くんを、ひとりにしていいの?」
「大丈夫だよ。家には現金もないしね。あんな奴、ほっといていいから。もし何かあったら、俺と誠司がパクられてくるからさ」
そう言って、浩市は笑った。一応は冗談のつもりだったが、理恵子はにこりともしない。
浩市は目を逸らし、真面目な顔で話を続ける。
「理恵子さんの言う通りだ。親父と同じで、誠司も一生変わらないだろう。だから、あいつのことはほっといていいよ」
「わかったよ。ところでさ……」
そこで、彼女は言葉を止める。すっと近づき、浩市の胸を指でつついた。
「ウチの厄介事ってさ、他にもあるんじゃないの? まだ、あたしの知らないことがさ」
ギクリとなった。またしても、痛いところを突かれたのだ。どうやら、全て見抜かれていたらしい。
「何かあるなら、今のうちに言っておいてもらいたいんだよ。後で急に言われても困るしね。まさか、ここまで来てあんたは信用できない……とか言わないよね?」
なおも聞いてくる理恵子に、浩市は圧倒され何も言えないでいた。正直、彼女を巻き込みたくはない。
だが、それは無理だった。理恵子もまた、既に片足を突っ込んでしまっている。
「一応、あたしは浩市より少し長く生きてる。その間、いろんな人間を見てきたし接してきた。その経験が、少しは役立つかもしれないよ。ひとりで悩むよりはマシになるんじゃない?」
確かに、彼女の言う通りだ。自分ひとりで抱え込むには、あまりにも大きすぎる。
浩市ほ、ここ数日の間に起きたことを、順を追って語り出した。




