9.教師の敵意がとまりません
謁見からアレンとの昼食会、そして王妃とのお茶会と慌ただしい日程をこなしたエルフィリアは、その日は風呂を済ませた後、精神的な疲労からか、ソファで泥のように眠った。
お腹がいっぱいすぎたのもあるかもしれない。
そして迎えた次の日は、早速、王太子妃としての教育が始まるとのことで、朝食後に教師がやってきた。
教師はエルフィリアの母と同じぐらいの年齢に見える。やや白髪交じりの濃紺の髪を綺麗に結い上げ、黒縁のメガネをかけていた。そのメガネの奥に見える瞳が冷たい。
「初めまして、エルフィリア王女殿下。私はミラ・フェルステンと申します」
直感的に、彼女に嫌われているな、とエルフィリアは感じた。
これは、レオナールで人の顔色を伺いながら生きてきた経験を元にする勘で、ほぼ外さない自信があった。
「初めまして、ミラ。よろしくね」
エルフィリアは答えながら、彼女の目がかすかにほそめられ、口元がひきつったのを見た。
彼女の想定していたより気安い態度だったからだろう。
しかし最初から過度にへりくだると、相手に付け入る隙を与えやすい。相手が自分のことを嫌っているならなおさらだ。
リオネッタとミーナの手前、ミラは直接的には何も言うことはない。
彼女は持ってきた本をいくつか机に積み上げた。
「エルフィリア殿下には、まずは帝国史を覚えていただきます。今日は建国の歴史からです」
積み上げられた本は全6巻の分厚い歴史書だ。
一応、母が存命のときにヴァルデンの歴史については一通り教わったが、おそらく知識は足りないだろう。しかし母に教わったベースがあるので、何も知らないよりはついていけるはずだ。
彼女は一冊の最初のページを開いた。
見開きの左側にはページいっぱいに黒い煙にまかれる1人の女性とひれ伏す人々の絵が書かれている。右側には文字が書かれていて、これが建国神話だとすぐにわかった。
「かつて、天の乙女ルミエラが、天から降りてきて人々の自由をうばい、【恐れ】で人々を支配しました。しかしその支配に抗うべく、勇者ヴァルドが立ち上がり、銀狼の化身として乙女に挑んで、乙女を南へと追いやりました。ヴァルドは乙女に支配された土地にヴァルデン帝国を建設し、追い出された乙女ルミエラは南部にレオナール王国を建設したのです」
エルフィリアはヴァルデン側のこの話を、母から聞いていて知っているが、レオナール側では、乙女ルミエラこそ正義で、侵略者ヴァルドを追い返してルミエラが建設したとされている。
正直なところ、建国神話などどちらも正しくないだろうと思っているエルフィリアにとっては、主張の矛盾などはどうでもよいことだ。
しかし、ミラがこちらを盗み見るということは、おそらくエルフィリアが怒ると踏んでこの題材を選んでいるらしい。
「ヴァルデンとレオナールで建国神話が異なるのは、子どもの頃に習ったわ。同じ乙女ルミエラが出てくるのに、違う物語になるのは面白いわよね」
すっとぼけてそう返してみれば、ミラの表情が固くなる。彼女の地味な嫌がらせは、エルフィリアがヴァルデン側の歴史に無知であることを前提にしている。
それがくつがえったのだから、面白くはないだろう。
「レオナールでも、ヴァルデン側の歴史を教わったのですね」
「ええ。でも、足りていないことは多いと思うから、あなたの話はとても楽しみにしているの」
「エルフィリア殿下は噂と違って、勉強熱心なのですね」
無気力姫のあだ名は隣国でも轟いているようだ。
基本的にはその路線を踏襲しようと思っていたが、やる気がないと思われるのはともかくとして、馬鹿だと思われるのは心外である。
「王族にとって噂は利用するものよ。実態と違えど、不利益がなければ訂正することもない。真偽を見極める目があれば、振り回されることもないわ」
エルフィリアの言わんとすることが伝わったのか、ミラは唇を噛み締めた。
おそらくだが、ミラの目的はエルフィリアを怒らせることだ。リオネッタとミーナの前で穏やかに、しかし着実にエルフィリアの癪に触ることを言って、訳もなく激怒した王女に仕立て上げたいのだ。
相手のやりたいことがわかれば、それを回避するのは造作もない。
「さて、続きをお願いするわ」
「……承知いたしました」
その後もミラが分厚い歴史書1冊分の話をかいつまみながら教えてくれた。
彼女は明らかにレオナール側と相違がありそうな歴史ばかりを取りあげているようだが、どれも母から聞いていたのと相違がなかった。
ーーーお母様はどうしてヴァルデンの歴史にあんなに精通していたのかしら?
母は国内貴族のわりに、ヴァルデンに詳しかった。好奇心旺盛で勤勉だからだと思っていたが、母から聞いた歴史の精度が思っていたよりも高い。
レオナール王国で調べられるヴァルデンの歴史には限界があるし、レオナール都合で歪められているものも多いはずだが、ミラが説明してくれる歴史はエルフィリアにとって馴染み深いものばかりだった。
しかし、母は間違いなく国内貴族だった。それに生活魔法の研究者だったのだ。
母がヴァルデンにゆかりがあるなら、ヴァルデンで生活魔法が浸透していないのはおかしい。しかし、母の知識量はレオナールの1貴族としては多すぎた気もする。
「本日はここまでとさせていただきます。次の歴史の授業でテストをしますので、今日お話ししたこの1巻は読み直しておいてください。残りについても、次までに一通り目を通しておいていだけますと幸いです」
「わかったわ」
ミラは持ってきた歴史書全6巻をすべて置いて、部屋を出て行った。
昼休みを挟んだとはいえ、午前中から夕方まで授業だったので、体が凝ってしまった。エルフィリアは立ち上がると、首を左右に倒して伸ばす。腕も回したいところだが、侍女の前でやるのは良くないだろう。
「お疲れ様でした。初日なのに、すごい長いんですね。王族の方ってすごいです」
ミーナが無邪気に感想を言った。リオネッタは何かを考え込んでいる様子だ。
「まあ、この分厚い本1巻分を説明したらこのぐらいかかるわね。むしろ、よく要約して説明したなと感心したぐらいよ」
「あんなに一気に話されて、エルフィリア様は混乱しませんか?」
「何も知らないことなら混乱したと思うわ。でも、ほとんど知ってる話だから。大したことはないの」
渡された白紙の紙はメモをとって良いと言われたのだが、すでにエルフィリアが記憶していることがほとんどで、メモをとるまででもなかった。
すでに知っている話とはいえ、忘れかけていたところもあるので、授業を聞いて鮮明に思い出せたのはよかったが、新しい情報はなかったので、退屈そうな顔をしてしまっていたかもしれない。
「レオナール側の歴史とは相違がないのですか?」
「相違だらけよ。歴史書なんて、所詮、自国と勝者の都合のよいようにしか書かれない」
リオネッタの疑問に反射的に答えてから、彼女が聞きたかったのはそういう意味ではないと思い当たった。
「……あ、私はヴァルデン側で伝承されているヴァルデンの歴史も習ったの」
「どなたに習ったのですか?」
「母よ。母はヴァルデンのことに詳しかったの。……そういえば、母自身も母から、つまり私の祖母から習ったと言っていたわね」
リオネッタは何度か瞬きして、何かを考えるように目を閉じた。そして、再び目を開けると、さらに質問を続けた。
「ヴァルデンの王侯貴族の食事に関する風習も、お母上から?」
「そうね。一通り習ったわ。母があれだけ詳しかったのだから、祖母はヴァルデンとゆかりがあったのかしら」
エルフィリアはふと、ずっと左腕につけている腕輪を思い出した。母から譲り受けたもので、もともとは祖母のものらしい。
ただ、この腕輪は強い隠蔽の魔法がかかっていて、所有者と認めたものか、祖母の一族のものでないと見えないのだとか。
「ねえ、ヴァルデンには特定の一族だけが扱える腕輪ってあるの?」
左腕にしている腕輪を撫でながら、リオネッタに尋ねた。リオネッタは腕輪は見えていないので、エルフィリアが腕をさすっているだけに見えるだろう。
「ございます。ヴォルクリード侯爵家の精霊の腕輪が代表的ですね。直系一族が生まれると、精霊が腕輪を贈ってくれるそうです」
「精霊の腕輪……綺麗なのかしら?」
「残念ながら一族のもの以外は見ることも叶わないのだとか。例外は正当なる所有者が意思を持って譲った時だけ、次の所有者も腕輪を見ることができるようになるそうです」
エルフィリアは自身の左腕に輝く腕輪をみた。
この腕輪の存在は今まで誰にも指摘されたこともなく、リオネッタとミーナもこの腕輪だけは入浴時に取ろうとしなかった。おそらく見えていないからだろう。
だからこそ、母ゆかりのものはほぼ全て取り上げられたあとも、この腕輪だけは残り続けた。
ーーー祖母はヴォルクリード家から正式に腕輪を譲られた人だったのかしら。
こんな会話をしている間に、ミーナがお茶を入れてくれた。ふわりとした果実の甘い香りが、湯気とともに立ち上がっている。
エルフィリアはその香りを楽しみながら、紅茶に口をつける。暖かな紅茶が喉を通り、体内に入っていくと、体のうちから温まる気がした。
「エルフィリア様のお母様とお祖母様は、どんな方だったんですか?」
隣にいたミーナが、お茶を継ぎ足してくれながら、尋ねてきた。
「母はとても博識な人だったわ。生活魔法の研究者でもあった。祖母は、幼い頃に1度会ったことがあるらしいのだけれど、実はよく覚えていないの。祖母は体が弱くて、外出もあまりできなかったとか……」
母の顔は良く覚えているのだが、祖母の顔は良く覚えていない。それに、祖母はほとんど外出をしないのだと母から聞かされたことがあった気がする。
ただ、祖母についての話は記憶が曖昧だ。それに、考えれば考えるほど、霧がかったように思考がまとまらなくなる。
ーーー昔から、お祖母様のことを考えると、ぼーっとしちゃうのよね……。
「お二人もエルフィリア様のように見事な黒髪だったのですか?」
ミーナの言葉に思考が現実に引き戻される。先ほどまでかかっていた靄が少し晴れたようだ。
「え? ええ。そうね。私は母と祖母の若い頃に生き写しだとか」
「お美しい髪はお母様譲りなのですね。ヴァルデンでは銀髪は王族の証ですが、濃い髪の色は貴族の証とも言われ、中でも黒い髪は高位貴族の証ですから、エルフィリア様の黒髪は羨ましいです」
確かに言われてみれば、謁見の間にいた貴族は髪色が濃い人が多かった。王妃も黒髪だ。
ふと、積まれた本を整理しているリオネッタが目についた。
リオネッタも黒髪だ。ただ、どことなく侍女としての役割に徹している彼女に、あなたも高位貴族なのかとは聞けなかった。
ミラの授業から2日後、再び授業があるということで、彼女の訪問を待っていた。
何も予定がない間に、6巻をパラパラとめくって中身を確認して見たが、基本的にエルフィリアの知っている歴史がつらつらと書かれていて、歴史書が改竄された様子などはない。
ミラは敵意がありそうに見えたのだが、わかりやすく下品な嫌がらせをしてくるタイプではないのだろう。
小テストで恥を書かせるために適当なことを書いた本を渡してきたのではと疑っていたのだが、そうでもなかったようだ。
「おはようございます。エルフィリア様。今日はまずテストを受けてもらいます」
部屋にやってきたミラは、着くなり6枚の紙をを手渡してきた。これが問題のようだ。
そして、回答を記入する紙もその後に差し出された。
「では、始めてください」
テストを始めると、1枚目はミラが授業で説明してくれた1巻の内容だった。これはミラのおかげで復習もできたので、問題ない。
2枚目は、なんと習っていない2巻の内容だった。
一瞬、間違いなのではと思い顔をあげてミラの表情をみると、彼女は勝ち誇ったような表情を見せた。つまりこれは、わざとだ。
前回彼女は次までに一通り読んでおいてと指示したので、読み方が足りないだの、自習意欲がないだの難癖をつける気なのだ。
ーーー残念だけど、私は噂と違って記憶力はいいのよ。
立場の弱い王女など、部屋にこもっていれば読書か勉強ぐらいしかすることはない。エルフィリアは家事もしていたが、全てを担っていた訳ではない。
暇な時間はたくさんあり、知識を溜め込むには十分すぎる時間だった。
エルフィリアは2枚目以降も、ペンを止めなかった。母から教わった記憶と、本を読んだ記憶なので、授業をしてもらった1巻ほどの自信ではないが、まったく書けないというものでもない。
3枚目が3巻の内容であることで、嫌がらせであることは間違いなくなったが、エルフィリアは一度は全て学んでいる身だったので、ひとまず全ての問題の回答を書いた。
「終わったわ」
「お疲れ様でした。採点しますので少々お待ちください」
ミラは回答用紙を回収すると、まずは1枚目を採点した。1枚目は教わったところでもあるので、点数が良くても気にならないだろう。彼女も表情は変えなかった。
しかし2枚目、3枚目とめくって採点して行くに連れて、彼女の表情が徐々に変わって行く。
彼女は最初は目を丸くして、そのあとは険しい表情になった。
信じられない気持ちだったのか、何度か紙をめくって凝視したが、最終的には何かを諦めたようにペンと紙を置いた。
「1枚目から3枚目までは満点です。4枚目から6枚目は1つずつ間違いがありますが、全体としては……素晴らしい出来栄えです」
彼女はかなり不本意そうに見えたが、表面上はエルフィリアのことを褒めた。褒めざるを得ない成績だったからだろう。彼女はリオネッタとミーナには敵意を隠している。
だから、表立って敵意をぶつけることはできないのだ。
「ヴァルデンの教育はレベルが高くて驚いたわ。まさか、6枚中5枚が前回習っていない範囲から出題されるとは。本を読み込んでおいて良かったわね」
エルフィリアはできるだけにこやかな笑顔を意識して言った。
すると、ミラはあからさまに体を震わせた。テストの内容はリオネッタやミーナには見えないだろうが、エルフィリアがわざわざ出題範囲を述べたので、ミラの嫌がらせが露呈してしまった。
「王太子妃の教育となれば当然です。自力での学習にも励んでいただかなくては、膨大な量を終わらせることはできません」
ミラはそれっぽいことを言って取り繕っているが、リオネッタとミーナがかすかに首を傾げているのが目に入った。彼女たちも、不審に思い始めたのだろう。
「確かに本で学べるところも大きいものね。それで、私は3冊目まで満点だけれど、あなたはどこから授業をしてくれるの?」
言外にあなたの授業が必要があるのかという意味を込めていうと、ミラは今度こそ苛立った様子を見せた。
「テストで全ての範囲を網羅している訳ではありませんから、2巻から続きを行います」
「あら、良いの? 自習でカバーできるのであれば自習したほうが良いのではなくて? あなたに教わることはたくさんあるでしょうから、他の講義に入ってくれてもいいのよ?」
「私の授業方針を拒否されるのですか?」
その場の空気がピリついた。それも当然のことと言える。ミラは今や明らかに苛立ちを隠し切れていなかった。
それもそうだろう。
本当は恥をかかせるつもりで作った難易度の高い問題が、逆にエルフィリアにほとんど正解されて、自分の授業の存在意義を問い返されてしまったのだから。
「まさか。あなたが良いなら、当然、2巻から続けてちょうだい」
エルフィリアはにっこりと笑ってそう言った。
目には目を、歯には歯を。
相手が敵意を隠して振る舞うなら、エルフィリアだってそれをお返しするまでだ。




