13.ダンスの先生は王太子殿下でした
「私が教えるから、君の言うところの先生は私だ」
思いもよらなかったアレンの言葉に、エルフィリアは言葉を失った。
ーーーむりむり無理! お母様が亡くなってから一度も踊ったことがないのに、いきなり殿下と踊れっていうの!?
リオネッタの顔を見ると、彼女はジャガイモの浄化に夢中だった。
真剣な顔で、泥だらけのジャガイモを見つめている。
「エルフィリア?」
呼びかけられて振り向けば、先ほどよりも近いところにアレンの顔があって、驚きで心臓が跳ねた。
「でん―――アレン」
殿下、と言いかけて、先ほどの言葉を思い出し、なんとか名前をひねり出した。
アレンは、そんなエルフィリアを見て、口元だけで小さく笑みを作る。
「まだ練習が必要だな」
「名前よりも、問題はダンスです! 私はもう何年も踊ってませんし、でーーーアレンの足を踏みでもしたら……」
「気にするな。問題ない」
「痛いですよ?」
「魔物の爪に引っかかれるほうが痛いさ」
リアルに想像して、エルフィリアは空想の中の痛みに身を震わせた。
そんなのと比較されれば、さすがにエルフィリアが足を踏んだ痛さはマシとは言えるだろう。
「……魔物と比較するぐらい、痛そうと思っていますか?」
「さあ、どうだろう?」
アレンはどこか楽しそうに言った。
初めの印象と違い、冷たさもだいぶ緩和されている。
「では、行くか」
「え?」
「ここで踊ってもいいが、ジャカイモ洗浄……いや、浄化会場になりつつあるからな……」
言われて見回せば、浄化の練習に余念がないのはリオネッタだけではなかった。
ミーナはジャガイモの身を削りすぎないように練習したのか、他の人よりも小さめのジャガイモを山にしているし、セルヴィンは目を輝かせて芽をとる練習をしている。
この調子では、ミーナがカゴいっぱいに持ってきたジャガイモは、全て浄化されてしまいそうだ。
エルフィリアがそんなことを考えていると、隣でアレンが小さく息をついた。
そして、ジャガイモの浄化に勤しんでいたリオネッタに声をかけた。
「リオネッタ。ここはしばらく任せる。ダンスの練習後は、エルフィリアは部屋まで直接送り届ける」
「承知いたしました。こちらの片付けと、練習に使ったジャガイモは、厨房に届けておきます」
綺麗に剥かれたジャガイモが山になっている。城全体での消費量を考えれば、このぐらいの量のジャガイモの皮が剥かれても問題にはならないはずだ。
多分。
……ささやかながら消費を手伝えるように、ポテトパイを作ってもらうのもいいかもしれない。
「セルヴィンはどうする?」
両手にジャガイモを抱えていたセルヴィンは、目を輝かせて言った。
「この魔法は練習のしがいがあるので、もう少しここで練習させてください!」
「好きにしろ。片付けは手伝え」
「承知しました」
ミーナも腕まくりしてジャガイモを見ていて、もはやこちらの会話など耳に入ってない様子だ。
そんな中、魔法の練習をしていたメンバーで唯一、ジャガイモの浄化に熱を上げていない人物がいた。
マルナだ。
彼女は綺麗にしたジャガイモを籠に入れると、エルフィリアの隣に立った。
「ダンスの練習でしたら、私もお供いたします。ピアノで伴奏ぐらいでしたらご協力できるかと」
マルナは多才なようだ。
「曲があるのはありがたいけど……本当に、今から?」
「今日やらなくて、いつやる? お披露目まで時間が無限にあるというわけでもないのに」
マルナの代わりにアレンがぴしゃりと答えた。
どうやらアレンとのダンスレッスンは逃れられないらしい。
「では、マルナとセリア、それからシグルドはついてこい」
「承知いたしました」
壁際にいたセリアと、アレンの護衛騎士である長身の男性が静かに近づいた。
名前は初めて聞いたが間違いなく彼がシグルドだろう。
「では、いくぞ」
「お見送りいたします」
「いってらっしゃいませ!」
リオネッタとミーナの見送りを背に、アレンについて歩き出した。
イヤリングを渡しておいたおかげで、エスコートされている最中も、アレンに触れている手は冷たくない。
ただし、廊下はやはり寒く、ひんやりとした空気が肌を刺した。
窓の外には、北の澄んだ空と、白化粧された山並みが見える。やはり北国の秋は寒い。
アレンは早足というほどでもないが、迷いのない足取りで先を歩く。
エルフィリアの少し後ろには、セリアとマルナ、そのさらに斜め後方にはシグルドが、音もなく距離を保って続いた。
道順の記憶があやふやになった程度には歩いたところで、ようやくアレンが立ち止まる。
見覚えのある扉だ。
「ここだ」
開かれた扉の向こうには、以前ドレス選びをした大部屋が広がっていた。自分の顔が映るほど磨き上げられた大理石の床、壁際には今は使われていない椅子と、小さな楽団が入れるほどのスペース。
ーーーここで、踊るのね。
喉がひゅっと鳴る。エルフィリアの緊張をよそに、アレンはさっさと部屋の中央まで進むと、くるりと振り返った。
「マルナは伴奏を。2人は壁際で待機。何かあれば対応を」
「畏まりました」
「何か、とは?」
マルナが首を傾げると、アレンは淡々と答えた。
「転んだり、怪我をしたり?」
「怪我!? 足を踏んで怪我させると? それは足は踏むかもしれませんが……」
エルフィリアは思わず声を上げてしまった。
「……私が、という意味ではない」
「アレンでないのであれば、私が怪我をするほど派手に転倒すると?」
抗議すると、アレンは少しだけ目元を緩めた。
「想定はする。そういうことも含めての護衛だ」
「そもそも私が怪我をしたとして、護衛が関係ありますか?」
エルフィリアが問うと、アレンがすっと視線を逸らした。
セリアは小さく咳払いすると、真面目な顔でエルフィリアに向き直る。
「ご安心ください、エルフィリア様。お怪我されそうになれば、全力でお支えします」
「怪我はしないわ!」
エルフィリアが反射的に答えると、シグルドが笑いを誤魔化すように空咳をした。
アレンはもはや、笑いを噛み殺してもない。
「では、始めようか。最初は曲は無しで」
緩んだ口元のまま、差し出された右手。
エルフィリアは、ほんの一瞬だけその手を見つめてから、そっと自分の左手を重ねた。
彼の耳元でルビーのイヤリングが揺れる。
「まずは姿勢からだ」
アレンの左手が、エルフィリアの背中――腰の少し上あたりに添えられる。くすぐったさと、そこからじんわりと広がる熱に、エルフィリアは肩をすくめてしまった。
「力みすぎだ。肩を下ろせ」
「む、むりです……!」
「呼吸をしろ」
「してます!」
「浅い」
静かな指摘に、ぐうの音も出ない。言われてみれば、胸のあたりで呼吸が止まりそうになっている。
深く息を吸って、吐く。
それを二度繰り返すと、少しだけ視界が広がった気がした。
「もう片方の手はここだ」
アレンはエルフィリアの右手を取ると、自分の肩のあたりへと導く。その動きは慣れていて、迷いがない。
「レオナール式と大きくは変わらないはずだ。違うのは、歩幅と回転のタイミングくらいだな」
「……詳しいんですね」
「王族は、大体の国の形式は一通り習う。君の国の踊りも、基礎は叩き込まれた」
そういえば、とエルフィリアは思い出す。
幼い頃、母の手を取って踊ったとき。
南部の柔らかな風が吹き込むバルコニーで、母が笑いながら言っていた。
『将来、どこの国の夜会に出ても恥ずかしくないように、ね』
その声と笑顔を思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
母の死後は、王女らしい教育を受けてきていない。今思えば、ダンスぐらいは言えば習わせてくれたかもしれないが、踊る機会がそう訪れるとは思えなかった。
「……顔が強張っているな」
アレンの声が現実に引き戻す。
「母の死後、踊ったことがなかったもので」
一瞬、アレンの青い瞳が揺れたような気がした。
しかしアレンは何も言わない。ただ、少しだけ手のひらに力を込めただけだ。
「前を見ろ。足元ではなく」
「でも、踏んだら……」
「踏まれても、文句は言わない。約束しよう」
「本当ですか?」
「魔物の爪よりは、ずっとましだ」
「比較対象がおかしいんですよ!」
思わず声が上ずると、壁際で見ていたマルナが袖で口元を隠しているのが見えた。どうやら笑いを堪えているらしい。
アレンがリードしながら、無音の部屋でリズムを取れるように小さく数を取った。
「一、二、三……一、二、三……」
それに合わせて、エルフィリアもそろそろと足を動かす。
右足を引いて、左足を出して――頭ではわかっているのに、身体がぎこちない。
最初の数歩は、ただアレンに引きずられているだけのようなもので、何度も裾を踏みそうになった。
「重心が後ろに逃げている。前に預けろ」
「これ以上前に行ったら、ぶつかりますよ?」
「ぶつかってもいい。私が受け止める」
「そんなこと言われても……」
しかし、言葉とは裏腹に、一歩、また一歩と踏み出すたび、アレンの腕が支えになっているのがわかる。
足元への不安が少しずつ薄れていくと、エルフィリアは恐る恐る視線を上げた。
そこには、穏やかな表情をしたアレンがいた。凪いだ様子だけ見たら、彼が氷の王太子と噂されているとは信じられないほどだ。
「……踊りの教師は、レオナール出身の教師だったか?」
「母です。母は祖母に習ったと」
「そうか」
今のエルフィリアには、問いの意味を考えている暇はなかった。
アレンのリードについていくのに必死だった。
足を踏まないようにと考えていたのもある。
しかし、時間が経つにつれて、徐々に動きに慣れてくる。
刻まれる拍は一定で、アレンのリードは揺るがない。
それにつられて、エルフィリアの呼吸も次第に整っていく。
何周か部屋の中央を回ったところで、アレンが動きを止めた。
「そろそろ曲と合わせよう」
「え! もうですか?」
「曲のない舞踏会など存在しないからな」
アレンが合図すると、マルナはこの大部屋の隅に置かれていたピアノの前に座った。
そして、マルナが一呼吸置いた後に、演奏を始めた。
先ほどまで無音だった部屋に流れたのは、聞き覚えのある音楽だった。
これは、母が持っていたオルゴールのーーー
「ーーー踊るぞ」
エルフィリアの思考がまとまる前に、アレンに体を抱き寄せられた。
彼にリードされるままに、必死に足を動かす。
アレンが拍子をカウントしてくれていたのと違い、滑らかな生演奏に合わせて踊るのは、考えることが多い。
何度目かの回転で、ついにエルフィリアの足が、アレンの靴の先を踏んでしまった。
「っ、ごめんなさい!」
慌てて足を引く。
しかしアレンは眉一つ動かさなかった。
「言っただろう。文句は言わない」
「痛くないんですか?」
「魔物の爪に引っかかれたときよりは」
「だから比較対象がおかしいって言ってるんです!」
そう言いながら、アレンはほんの僅かに、踏まれた足の上に氷の魔力を流した。冷気で痛覚を鈍らせたらしい。
「痛み止めだ。治癒魔法は得意ではないのでな」
「やっぱり、痛いんじゃないですか」
半ば呆れながらも、やはり彼は彼なりに気を遣ってくれているのだと分かる。
エルフィリアはお詫びに治癒魔法をかけると、アレンが目を見開き、ふっと口元を緩めた。
その後、何度もステップと回転を繰り返しているうちに、足の運びは自然と体に染み込んでいった。
息は上がっているが、苦しくはない。むしろ、冷たかった体の芯に、じんわりとした熱が灯っていくようだった。
「――今日はここまでだな」
どれくらい時間が経っただろうか。
アレンが足を止めると、エルフィリアも同じ場所でぴたりと止まった。
「あの……ありがとうございました」
それだけ言うと、アレンはエルフィリアの手をそっと離した。
「明日、もう一度確認する」
「明日も、教えてくれるんですか?」
「誰がやめると言った」
「いえ……その……」
エルフィリアが言いよどむと、アレンは少しだけ視線をそらした。
「……私のためでもある」
「え?」
「夜会で、パートナーが踊れないと私のリードのせいになる」
公式の場でそういう見方をされるのだとしても、エルフィリアが踊れないのはアレンのせいではない。アレンのリードはむしろ上手だった。
ーーー踊れるようにならないとまずいわね。
そんな2人のやりとりを聞いていたのか、シグルドがスッと近寄ってきた。
「殿下。明日のご予定に、訓練場の視察が入っておりますが、時間調整をいたしましょうか」
「ああ、後ろに回せ。ダンスの確認を優先する」
「承知しました」
淡々としたやり取りだが、アレンがエルフィリアを優先してくれたのだと分かって意外な思いだった。
「エルフィリア殿下。本日のご様子であれば、夜会で殿下の隣に立たれること、何ら問題はないと存じます」
「あ、ありがとう……?」
褒められているのかどうか一瞬判断に困ったが、少なくとも否定ではないらしい。
「では明日だな。明日に限らずしばらくは、練習することになるだろうが」
アレンはその言葉の通り、お披露目までの間、時間を作ってはエルフィリアのダンスの練習に付き合ってくれたのだった。




