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箱庭  作者: 夕月 悠里
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改札口

渋谷のスクランブル交差点。信号が青に変わり、数千人の群衆が一斉に歩き出す。

私はその波に揉まれながら、ふと、自分が砂粒の一つになったような錯覚を覚えた。巨大なディスプレイが新商品を叫び、スマホは絶え間なく通知を震わせ、すれ違う人々の話し声がノイズとなって鼓膜を叩く。


「……眩暈めまいがする」


三十二歳。システムエンジニア。構築したシステムが誰かの役に立っているのかも知らず、ただ数字の羅列とエラーログを追いかける日々。世界はあまりにも複雑で、巨大で、私の存在など簡単に飲み込んでしまう。


逃げたい。

どこか、私という輪郭が保てる場所へ。

0か1か、白か黒か。そんな単純で、静かで、狭い世界へ。


ポケットに手を入れると、指先に冷たい金属のような感触があった。

取り出すと、それは切符だった。けれど、これまでの人生で見たどんな切符とも違う。漆黒の厚紙に、金色の文字で『終着点』とだけ刻印されている。そして端には、ハサミの形をした切り込みが入っていた。


信号が点滅する。私は渡りきることをやめ、交差点のど真ん中で立ち尽くした。

その切符を握りしめた瞬間、世界の色が反転した。


喧騒が、プツリと途絶えた。

アスファルトが消え、ビルが消え、空が消えた。

気がつくと、私は真っ白なプラットホームに立っていた。線路はない。壁もない。あるのは、目の前に佇む古びた木の改札口と、その横に立つ一人の男だけ。


「ようこそ。お待ちしておりました」


制服を着た男――車掌が、深く帽子を被ったまま一礼した。

その姿に見覚えがあった。いや、記憶にあるのではない。本能が告げている。彼こそが、この「狭い世界」の管理者なのだと。


「ここは?」

「世界の果て、あるいは隙間です。あなたが望んだ『単純な場所』ですよ」


車掌は改札の向こう側を指差した。そこには、小さな部屋があった。六畳一間の、何もない白い部屋。窓も、ドアもない。ただ、私が一番落ち着くと感じる温度と、湿度と、光量で満たされた空間。


「あの中に入れば、もう迷うことはありません。他人も、騒音も、責任もない。あなたはただ、あなたとして存在することだけが許されます。世界はあなたの体積と同じ大きさになり、永遠の安らぎが得られるでしょう」


それは、甘美な誘惑だった。

棺桶のような安らぎ。誰にも脅かされない聖域。

私はフラフラと改札に近づいた。ここを通れば、もうあの頭痛のするような日常に戻らなくて済む。


だが、改札の足元に、何かが散らばっているのが見えた。

破られたスケッチブックの切れ端。クシャクシャに丸められたポップコーンの袋。そして、切断された受話器のコード。


「……これは?」

「ああ、それは」


車掌は無感動に答えた。


「以前、ここを訪れたお客様たちの『遺失物』です。彼らは愚かにも、この完璧な安らぎを拒み、あの痛みに満ちた世界へ帰っていきました」


私の脳裏に、会ったこともない誰かの顔が浮かんだ。

絵を描くことに苦悩していた誰か。

過去の恋に囚われていた誰か。

孤独に震えていた誰か。


彼らは、この「狭い世界」を手に入れたはずだった。それなのに、なぜ捨てた?

拾い上げたスケッチブックの切れ端には、下手くそだが力強い線で、広い空が描かれていた。丸められた切符には、涙の跡が滲んでいた。


「……彼らは、選んだんだな」

私は呟いた。

「狭い安らぎよりも、広くて痛い自由を」


「理解できませんね」

車掌が肩をすくめる。


「あちらの世界はノイズだらけだ。選択肢が多すぎて、人は何を選べばいいのかわからなくなる。だから私が、鋏を入れてあげているのですよ。不要な部分を切り落とし、世界を適切なサイズにトリミングしてあげているのです」


車掌の手には、銀色に光る大きな改札鋏かいさつばさみが握られていた。

チャキ、と鋭い音が鳴る。


「さあ、切符をお出しください。あなたの世界を、完成させて差し上げましょう」


私は漆黒の切符を差し出そうとした。

だが、手が止まった。

目の前の白い部屋を見る。そこは完璧だ。あまりにも完璧すぎて、そこには「明日」が入る隙間がない。


「……あんたは、どうなんだ?」

「はい?」

「あんたは、この狭い世界でずっと一人で、ハサミを鳴らし続けているのか?それは、幸せなのか?」


車掌の動きが止まった。帽子のツバの下で、初めてその瞳が揺らいだように見えた。


「……私は、管理者ですから。個人の感情は不要です」

「嘘だ」


私は一歩踏み出した。


「あんたも、本当は誰かに見つけてほしかったんじゃないのか?だから、迷っている人間をここに呼び込んで、自分の孤独を埋めようとしていたんじゃないのか?」


車掌は答えなかった。ただ、握りしめた鋏が微かに震えている。

この完璧な箱庭の主。彼こそが、最も「狭い世界」に囚われた囚人だったのだ。


「俺は、行かない」


私は切符を握りしめ、その場で真っ二つに破り捨てた。

ビリリ、という音が、白い空間に響き渡る。


「俺はまだ、迷っていたい。ノイズにまみれて、何が正解かわからなくて、傷だらけになっても……誰かの声が聞こえる場所にいたいんだ」


車掌が顔を上げた。その表情は、怒りではなく、どこか憑き物が落ちたような、泣き出しそうな子供の顔だった。


「……そうですか。それは、とても……羨ましいですね」


車掌が鋏を降ろした。

その瞬間、白い部屋に亀裂が入った。

天井が割れ、壁が崩れる。隙間から、強烈な光と、耳をつんざくような轟音が流れ込んでくる。

車のクラクション。人の笑い声。工事現場の音。風の音。


「お帰りください。あなたの世界へ」


車掌が指を鳴らす。

白いプラットホームが崩壊し、私は光の渦へと吸い込まれていく。

最後に見たのは、崩れゆく改札の向こうで、古びた帽子を脱ぎ、静かに一礼する男の姿だった。


「……っ!」


気がつくと、私はスクランブル交差点の真ん中で、クラクションを鳴らされていた。

「危ねえぞ!」

タクシーの運転手が怒鳴っている。信号は赤に変わっていた。

私は慌てて歩道へと駆け出した。


心臓が早鐘を打っている。汗が吹き出る。

うるさい。臭い。人が多い。

巨大ビジョンの光が眩しい。


けれど。


「……あぁ」


私は空を見上げた。ビルの隙間から見える空は、狭いようでいて、どこまでも高く続いている。

ここには、すべてがある。

絶望も、孤独も、理不尽もあるけれど。

焼きたてのパンの匂いも、誰かの描いた絵も、愛する人の声も、ここにある。


私はポケットを探った。あの漆黒の切符はもうない。

代わりに、コンビニのレシートが一枚、くしゃくしゃになって入っていた。


私はそれをゴミ箱に捨てると、深く息を吸い込んだ。

肺いっぱいに、この汚くて美しい世界の空気を満たす。


「次は、どこへ行こうか」


私は雑踏の中へと歩き出した。

目的地は決まっていない。地図もない。

けれど、私の足は、確かに前へと進んでいた。

無限に広がる、このどうしようもない世界へ向かって。

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