電話ボックス
「……もしもし?お母さん?私だけど」
受話器の向こうは静寂だった。プー、プー、という電子音だけが虚しく響いている。留守番電話だ。またか。
美咲はため息をつき、公衆電話のフックを押し込んだ。十円玉が戻ってくるチャリンという音が、静かすぎる夜の住宅街に響いた。
「どうして出てくれないの……」
美咲は二十二歳。就職活動に失敗し、大学を卒業してから半年が経つ。実家には居づらくて、安いアパートで一人暮らしを始めたけれど、貯金は底をつきかけていた。誰かに話を聞いてほしかった。ただ、「大丈夫?」と言ってほしかった。でも、スマホのアドレス帳に並ぶ名前は、どれも指先一つでタップするのを躊躇わせるものばかりだった。
友人は皆、社会人として忙しそうに働いている。SNSを見れば、「同期と飲み会!」「初任給で親にプレゼント!」といった眩しい投稿が溢れている。そんな中に、「無職で家賃も払えなくて死にそう」なんてメッセージを送れるはずがない。
世界は広すぎる。誰もが自分の人生という名の列車に乗って、猛スピードで走り去っていく。私だけが、何もないプラットホームに取り残されているような孤独感。
「……誰か、私の話を聞いて」
美咲は再び受話器を取り上げようとした。その時、電話機の下の返却口に、何かが光っているのが見えた。十円玉ではない。四角い紙片だ。
指先で摘み上げると、それは古ぼけた切符だった。印字は擦れているが、『片道』という文字と、行き先の欄に『あなただけの通話室』と書かれているのが読めた。端には、受話器の形をした奇妙な切り込みが入っている。
「……何これ」
悪戯だろうか。でも、その切符を手にした瞬間、美咲の胸の奥がじんわりと温かくなった。誰にも邪魔されない場所。誰に気兼ねすることもなく、ただ自分の声を聞いてくれる相手がいる場所。そんな予感がした。
美咲は無意識のうちに、その切符を公衆電話のカード挿入口に差し込んだ。サイズが合うはずがないのに、切符は吸い込まれるように中へと消えていった。
ジリリリリリリリ!!
突然、電話機がけたたましく鳴り響いた。着信だ。公衆電話が鳴るなんて。美咲は驚いて飛び退いたが、ベルの音は鳴り止まない。まるで、美咲が出るのを待っているかのように。恐る恐る受話器を耳に当てた。
「……はい」
『お繋ぎしました。どうぞ、お話しください』
受話器から聞こえてきたのは、穏やかで深みのある男性の声だった。オペレーターだろうか?
「あ、あの……誰ですか?」
『私はただの聞き手です。あなたの言葉を受け止めるための存在。さあ、何を話しても構いませんよ。愚痴でも、泣き言でも、誰にも言えない秘密でも』
その声は、不思議なほど心に染み入った。美咲の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……私、辛いんです」
一度口火を切ると、言葉は堰を切ったように溢れ出した。就活の失敗。親への罪悪感。友人への劣等感。将来への不安。涙で声が詰まりながらも、美咲はずっと話し続けた。
電話ボックスの外の景色が、いつの間にか変わっていた。住宅街の街灯も、アスファルトの道も消え失せ、窓の外は濃密な霧に覆われている。ボックス内は温かいオレンジ色の光に包まれ、まるでここだけが世界から切り離された宇宙船のようだった。
「……私なんて、いないほうがいいのかな」
『そんなことはありません。あなたは一生懸命生きています』
受話器の向こうの相手は、決して否定しなかった。ただひたすらに肯定し、相槌を打ち、美咲の心を解きほぐしてくれる。
心地いい。こんなに安心して話せるのは初めてだ。この狭い電話ボックスの中が、世界で一番安全な場所に思えた。ずっとここにいたい。この優しい声と繋がっていたい。
「もっと、話を聞いてくれますか?」
『ええ、もちろんです。時間はたっぷりありますから』
どれくらい話し続けただろう。美咲の心は軽くなっていた。だが、ふと気づいた。電話ボックスが、さっきよりも狭くなっていないだろうか?
最初は一人が余裕で立てる広さだったのに、今はガラス壁が肩に触れそうなほど迫っている。受話器のコードも短くなっている気がする。
「……ねえ、なんか狭くないですか?」
『おやおや。お気づきになりましたか』
電話の相手の声色が、少しだけ変わった。
『ここは「あなただけの通話室」ですから。あなたの言葉が満ちれば満ちるほど、空間は密度を増し、より親密に、より狭くなっていくのです』
「え……?」
『最終的には、この空間とあなたの体積が完全に一致します。そうすれば、もう受話器を持つ必要もありません。私の声は、あなたの鼓膜ではなく、脳に直接響くようになりますから』
背筋が寒くなった。ガラス壁が、ミシミシと音を立てて迫ってくる。今はもう、身動きが取れないほどだ。
「……やだ。降ろして」
『おや、まだ話し足りないことがあるのでは?あんなに辛い現実に戻るのですか?誰もあなたの話を聞いてくれない、冷たい世界に』
男の声は甘く囁く。確かに、あそこに戻ればまた孤独な日々が待っている。でも。
美咲の視界の端に、ガラスに映った自分の顔が見えた。涙でぐしゃぐしゃだが、その目は以前よりも少しだけ光を取り戻していた。
「……うん。戻る」
美咲は震える声で言った。
「話を聞いてもらって、少しスッキリしたから。……それに、まだ伝えてないことがあるの」
『誰にです?』
「お母さんに。『ごめんね』って。あと、『ありがとう』って」
美咲は受話器を握りしめた。
「だから、ここから出して!」
『……そうですか。残念です』
男の声が低く響いた瞬間、電話ボックスの天井から何かが落ちてきた。銀色に光るハサミだ。それが、受話器のコードをパチンと切断した。
プツン。
世界が暗転した。
「……お客様?大丈夫ですか?」
肩を揺すられて目を開けると、美咲は公衆電話の前でへたり込んでいた。通りがかりのサラリーマンが心配そうに覗き込んでいる。朝になっていた。
「あ、はい……すみません」
美咲は慌てて立ち上がった。手には、あの切符はない。ただ、切断された受話器のコードだけが、ぶらりと垂れ下がっていた。
美咲は深呼吸をした。朝の空気は冷たいが、昨夜よりも美味しく感じられた。スマホを取り出す。母からの着信履歴が一件、入っていた。
「……かけ直さなきゃ」
世界はまだ広くて、冷たくて、怖い場所だ。でも、自分の足で立ち、自分の声で誰かに思いを伝えることはできる。美咲は一歩、踏み出した。
背後で、修理中の札が貼られた公衆電話が、朝日を浴びて静かに佇んでいた。




