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箱庭  作者: 夕月 悠里
3/4

電話ボックス

「……もしもし?お母さん?私だけど」


受話器の向こうは静寂だった。プー、プー、という電子音だけが虚しく響いている。留守番電話だ。またか。

美咲はため息をつき、公衆電話のフックを押し込んだ。十円玉が戻ってくるチャリンという音が、静かすぎる夜の住宅街に響いた。


「どうして出てくれないの……」


美咲は二十二歳。就職活動に失敗し、大学を卒業してから半年が経つ。実家には居づらくて、安いアパートで一人暮らしを始めたけれど、貯金は底をつきかけていた。誰かに話を聞いてほしかった。ただ、「大丈夫?」と言ってほしかった。でも、スマホのアドレス帳に並ぶ名前は、どれも指先一つでタップするのを躊躇ためらわせるものばかりだった。


友人は皆、社会人として忙しそうに働いている。SNSを見れば、「同期と飲み会!」「初任給で親にプレゼント!」といった眩しい投稿が溢れている。そんな中に、「無職で家賃も払えなくて死にそう」なんてメッセージを送れるはずがない。


世界は広すぎる。誰もが自分の人生という名の列車に乗って、猛スピードで走り去っていく。私だけが、何もないプラットホームに取り残されているような孤独感。


「……誰か、私の話を聞いて」


美咲は再び受話器を取り上げようとした。その時、電話機の下の返却口に、何かが光っているのが見えた。十円玉ではない。四角い紙片だ。


指先で摘み上げると、それは古ぼけた切符だった。印字は擦れているが、『片道』という文字と、行き先の欄に『あなただけの通話室』と書かれているのが読めた。端には、受話器の形をした奇妙な切り込みが入っている。


「……何これ」


悪戯いたずらだろうか。でも、その切符を手にした瞬間、美咲の胸の奥がじんわりと温かくなった。誰にも邪魔されない場所。誰に気兼ねすることもなく、ただ自分の声を聞いてくれる相手がいる場所。そんな予感がした。


美咲は無意識のうちに、その切符を公衆電話のカード挿入口に差し込んだ。サイズが合うはずがないのに、切符は吸い込まれるように中へと消えていった。


ジリリリリリリリ!!


突然、電話機がけたたましく鳴り響いた。着信だ。公衆電話が鳴るなんて。美咲は驚いて飛び退いたが、ベルの音は鳴り止まない。まるで、美咲が出るのを待っているかのように。恐る恐る受話器を耳に当てた。


「……はい」

『お繋ぎしました。どうぞ、お話しください』


受話器から聞こえてきたのは、穏やかで深みのある男性の声だった。オペレーターだろうか?


「あ、あの……誰ですか?」

『私はただの聞き手です。あなたの言葉を受け止めるための存在。さあ、何を話しても構いませんよ。愚痴でも、泣き言でも、誰にも言えない秘密でも』


その声は、不思議なほど心に染み入った。美咲の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


「……私、辛いんです」


一度口火を切ると、言葉はせきを切ったように溢れ出した。就活の失敗。親への罪悪感。友人への劣等感。将来への不安。涙で声が詰まりながらも、美咲はずっと話し続けた。


電話ボックスの外の景色が、いつの間にか変わっていた。住宅街の街灯も、アスファルトの道も消え失せ、窓の外は濃密な霧に覆われている。ボックス内は温かいオレンジ色の光に包まれ、まるでここだけが世界から切り離された宇宙船のようだった。


「……私なんて、いないほうがいいのかな」

『そんなことはありません。あなたは一生懸命生きています』


受話器の向こうの相手は、決して否定しなかった。ただひたすらに肯定し、相槌を打ち、美咲の心を解きほぐしてくれる。


心地いい。こんなに安心して話せるのは初めてだ。この狭い電話ボックスの中が、世界で一番安全な場所に思えた。ずっとここにいたい。この優しい声と繋がっていたい。


「もっと、話を聞いてくれますか?」

『ええ、もちろんです。時間はたっぷりありますから』


どれくらい話し続けただろう。美咲の心は軽くなっていた。だが、ふと気づいた。電話ボックスが、さっきよりも狭くなっていないだろうか?


最初は一人が余裕で立てる広さだったのに、今はガラス壁が肩に触れそうなほど迫っている。受話器のコードも短くなっている気がする。


「……ねえ、なんか狭くないですか?」

『おやおや。お気づきになりましたか』


電話の相手の声色が、少しだけ変わった。


『ここは「あなただけの通話室」ですから。あなたの言葉が満ちれば満ちるほど、空間は密度を増し、より親密に、より狭くなっていくのです』


「え……?」

『最終的には、この空間とあなたの体積が完全に一致します。そうすれば、もう受話器を持つ必要もありません。私の声は、あなたの鼓膜ではなく、脳に直接響くようになりますから』


背筋が寒くなった。ガラス壁が、ミシミシと音を立てて迫ってくる。今はもう、身動きが取れないほどだ。


「……やだ。降ろして」

『おや、まだ話し足りないことがあるのでは?あんなに辛い現実に戻るのですか?誰もあなたの話を聞いてくれない、冷たい世界に』


男の声は甘く囁く。確かに、あそこに戻ればまた孤独な日々が待っている。でも。


美咲の視界の端に、ガラスに映った自分の顔が見えた。涙でぐしゃぐしゃだが、その目は以前よりも少しだけ光を取り戻していた。


「……うん。戻る」

美咲は震える声で言った。

「話を聞いてもらって、少しスッキリしたから。……それに、まだ伝えてないことがあるの」

『誰にです?』

「お母さんに。『ごめんね』って。あと、『ありがとう』って」


美咲は受話器を握りしめた。

「だから、ここから出して!」


『……そうですか。残念です』


男の声が低く響いた瞬間、電話ボックスの天井から何かが落ちてきた。銀色に光るハサミだ。それが、受話器のコードをパチンと切断した。


プツン。


世界が暗転した。


「……お客様?大丈夫ですか?」


肩を揺すられて目を開けると、美咲は公衆電話の前でへたり込んでいた。通りがかりのサラリーマンが心配そうに覗き込んでいる。朝になっていた。


「あ、はい……すみません」


美咲は慌てて立ち上がった。手には、あの切符はない。ただ、切断された受話器のコードだけが、ぶらりと垂れ下がっていた。


美咲は深呼吸をした。朝の空気は冷たいが、昨夜よりも美味しく感じられた。スマホを取り出す。母からの着信履歴が一件、入っていた。


「……かけ直さなきゃ」


世界はまだ広くて、冷たくて、怖い場所だ。でも、自分の足で立ち、自分の声で誰かに思いを伝えることはできる。美咲は一歩、踏み出した。


背後で、修理中の札が貼られた公衆電話が、朝日を浴びて静かに佇んでいた。

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