映画館
深夜二時。国道沿いのバス停で、カズヤはスマートフォンの画面を睨みつけていた。雨が降っていた。液晶に落ちた水滴が、画面の中の笑顔を歪ませている。
『新しい彼氏と、箱根旅行!幸せすぎ!』
元恋人・マイの投稿だった。別れてまだ一ヶ月も経っていない。それなのに、写真の中の彼女は、俺といた時よりもずっと楽しそうに笑っている。隣に写る男の顔には、可愛らしいスタンプが押されていた。
「……なんだよ、それ」
カズヤは唇を噛んだ。鉄の味がした。三十代半ばの男が、雨に濡れながら元カノのSNSを監視する。惨めだ。わかっている。だが、指が止まらない。スクロールするたびに、彼女が俺の知らない世界で、俺の知らない誰かと幸せになっていく証拠が突きつけられる。
世界は広すぎる。俺がこうして絶望している間にも、地球の裏側では誰かが生まれ、誰かが笑い、マイは新しい男と抱き合っている。そんな情報は知りたくなかった。俺の視界には、俺と、俺を愛してくれていた頃のマイだけがいればいいのに。
「……消えちまえばいい」
邪魔な男も、この広すぎる世界も。スマホを握りしめ、ベンチに突っ伏した時だった。濡れたアスファルトの上に、何かが落ちているのが目に入った。
厚紙の切符だ。古びた硬券。雨に濡れているはずなのに、そこだけ奇妙に乾いて見えた。カズヤは無意識にそれを拾い上げた。行き先の欄には、駅名の代わりにこう印字されていた。
『貸切』
端には鍵の形のハサミが入っている。貸切。その言葉が、今のカズヤの心に甘く響いた。誰にも邪魔されない場所。俺たちだけの空間。カズヤは切符を強く握りしめた。
「どこでもいい。ここじゃない場所へ連れて行ってくれ」
その願いに応えるように、世界がグニャリと歪んだ。雨音が遠ざかる。車の走行音も、湿った風の匂いも、すべてが闇に溶けていった。
気がつくと、カズヤはふかふかの椅子に座っていた。鼻をくすぐるのは、甘いキャラメルポップコーンと、古いベルベットの匂い。そこは、小さな映画館だった。壁には赤い緞帳。正面には手頃なサイズのスクリーン。そして、客席はたったの二席しかなかった。
「……ここは?」
「カズヤくん、始まるよ」
隣から声がした。心臓が跳ねた。恐る恐る横を向くと、そこにはマイがいた。SNSで見た新しい男との写真ではない。俺が好きだった、少し前の髪型の彼女だ。彼女はポップコーンのカップを抱え、愛おしそうに俺を見つめている。
「マイ……?なんで、ここに」
「しっ。いいところなんだから」
彼女が指差したスクリーンに、映像が映し出された。それは、二年前の俺の誕生日だ。狭いアパートで、彼女が下手くそなケーキを作って祝ってくれた日。
『おめでとう!大好きだよ、カズヤくん』
スクリーンの中のマイが笑う。隣に座っているマイも、同じタイミングで俺の手に自分の手を重ねてきた。
「私、この時が一番幸せだったな」
彼女の手は温かかった。柔らかくて、優しい手触り。
カズヤは涙が溢れるのを止められなかった。そうだ。ここは俺の記憶だ。でも、ただの回想じゃない。彼女の体温も、香りも、すべてがリアルに再現されている。ここには、あのスタンプで顔を隠した男はいない。俺を振った冷たい言葉も、既読無視のスマホもない。純度100%の、幸せな時間だけが流れている。
「……ずっと、ここにいてくれるか?」
カズヤが尋ねると、マイは甘えるように彼の肩に頭を乗せた。
「もちろんだよ。ここは私たちだけの世界だもん」
カズヤは深く背もたれに体を預けた。外の世界なんて、もうどうでもよかった。ここが天国だ。この暗闇と、四角いスクリーンと、彼女がいれば、他に何もいらない。
どれくらいの時間が経っただろうか。スクリーンでは、海に行った日、初めてキスした日、喧嘩して仲直りした日が、エンドレスで上映され続けている。カズヤは幸福感に浸りきっていた。だが、ふと違和感を覚えた。
狭い。最初はゆったりとしていた座席が、今は窮屈に感じる。肘掛けが脇腹に食い込んでいるようだ。スクリーンも、さっきより近くなっていないか?最初は劇場の奥にあった画面が、今は手を伸ばせば届きそうな距離にある。
「……マイ、なんか部屋が狭くなってないか?」
「そう?カズヤくんと密着できて嬉しいけど」
彼女は気にしていない様子で、より強く俺にしがみついてくる。
いや、おかしい。天井が低い。圧迫感がある。映画館というより、今は個室ビデオ店くらいの広さしかない。壁が、じりじりと迫ってきているのだ。
「お客様」
不意に、背後から声がした。振り返ると、壁の隙間――かつて通路だった場所――に、制服を着た男が立っていた。帽子のツバが深く、目元は見えない。
「上映時間は、そろそろ終了です」
男の声は事務的だった。
「これ以上滞在されますと、当館は物理的に閉館いたします。……あなたを含めて」
「閉館?どういう意味だ」
「この世界は、あなたの『心地よいもの』だけで構成されています。不要な余白は削除され、空間は純化されていく。最終的には、あなたと彼女の体積ぴったりのサイズになりますよ。……棺桶のように」
男は出口のドアを開けた。その隙間から、冷たい雨の音と、車の走行音が聞こえてきた。現実世界の音だ。
「今ならまだ、あちらに戻れます。……もっとも、あちらの世界では、彼女は他人のものですが」
カズヤはドアの隙間を見た。冷たい雨。孤独なバス停。そして、スマホの中の幸せそうな元カノと知らない男。あそこに戻れば、またあの地獄が始まる。嫉妬に狂い、惨めな思いをして、生きていかなければならない。
視線を戻す。隣には、マイがいる。彼女は心配そうに俺を見上げている。
「カズヤくん?行っちゃうの?」その瞳には、俺だけが映っている。
壁が、ミシミシと音を立てて迫ってきた。もう、座席から立ち上がるスペースもない。スクリーンの光が、目の前数センチで明滅している。
「……戻らない」
カズヤは呻くように言った。
「あんな痛い世界に戻るくらいなら……ここで彼女と潰されたほうがマシだ」
車掌は、口元だけでニヤリと笑ったように見えた。
「承知いたしました。では、ごゆっくり」
バタン、とドアが閉まる音。それが、世界の終わりの合図だった。
グシャリ。壁と天井が、一気に収縮した。空間が、俺たちを包み込むように、あるいは圧殺するように迫ってくる。痛い。骨が軋む。息ができない。でも、腕の中には彼女がいる。
「大好きだよ、カズヤくん」
「俺もだ……ずっと一緒だ」
カズヤは彼女を強く抱きしめた。彼女の体も、俺の体も、この甘い記憶の空間と一体化していく。痛みと、窒息するほどの幸福が、同時に脳髄を焼き尽くした。視界が、幸せなピンク色に染まって、弾けた。
翌朝。国道沿いのバス停には、黄色い規制線が張られていた。通勤客たちが遠巻きに見つめる中、警察官がブルーシートをかけている。
「死因は?」
「今のところ不明です。外傷はありませんが……全身が強く圧迫されたような痕跡があります。まるで、万力で締め上げられたような」
「事故か?それとも事件か」
「わかりません。ただ……」
若い警官は、遺留品の袋に入った、小さな紙屑を見つめた。遺体の手の中に握りしめられていた、古びた切符だ。それは、大人の男の力で握りつぶされたためか、原型を留めないほどクシャクシャに小さく丸まっていた。
「被害者の顔、見ましたか?」
「ああ」
年配の刑事が、気味悪そうに呟いた。
「この冷たい雨の中で死んでるってのに……なんだってあんなに、幸せそうな顔をしてるんだろうな」
ブルーシートの隙間から、男の口元が覗いていた。その唇は、永遠の愛を誓った瞬間の恋人のように、恍惚とした笑みを浮かべていた。




