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箱庭  作者: 夕月 悠里
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列車

スマートフォンの中で、誰かがまた幸せを叫んでいる。指先一つでスクロールすれば、今度は誰かが誰かを呪っている。地下鉄の車内は、見えない情報の泥で満たされていた。私はつり革に捕まりながら、溺れないように必死で顔を上げている。二十八歳。イラストレーターという肩書きはあるが、最近は「いいね」の数ばかり気にして、何を描きたいのかもわからなくなっていた。


「広すぎるんだよ、世界は」


誰に聞かせるでもなく呟いた。選択肢は無限、可能性は無限。それは私のような持たざる者にとって、自由ではなく拷問に近い。ポケットに手を入れると、指先に硬い感触が触れた。いつ買ったのかも覚えていない、分厚い紙の切符だ。印字が擦れて読めないが、改札を通った記憶もないのに、なぜか端にはハサミが入っていた。鍵穴のような、奇妙な形の切り込み。


――どこか、狭い場所へ行きたい。――私しかいない、誰の声も届かない、安全な場所へ。


そう願って、切符を強く握りしめた瞬間だった。ガタン、と車体が大きく揺れた。瞬きをする間に、車内の空気が一変していた。


隣にいたサラリーマンも、向かいの席で化粧をしていた女性も、全員消えていた。広告も、路線図もない。ただ、柔らかなクリーム色の座席だけが続く、静謐な空間。電車の走行音さえ、遠い海の波音のように優しく聞こえる。『次は、あなたの世界。あなたの世界です』アナウンスが響き、ドアが開いた。


ホームに降り立つと、そこは私の理想の「箱庭」だった。空には優しい曇り空が広がり、足元には石畳。建っているのは、私のお気に入りの画材屋と、美味しいスコーンを焼くカフェ、そして小さな図書館だけ。それ以外は何もない。道の先は白い霧に覆われていて、行き止まりになっている。半径百メートルほどの、完璧に閉じた世界。


「最高じゃない」


私はカフェの二階にある、アトリエのような部屋に入った。Wi-Fiは飛んでいない。テレビもない。ここには「他人」というノイズが存在しないのだ。私はキャンバスに向かった。筆が走る。迷いがない。誰かと比べられる恐怖がないだけで、色はこんなにも素直に伸びるのか。描いて、描いて、描きまくった。お腹が空けば下のカフェから焼きたての香りが漂ってくる。眠くなれば、誰にも邪魔されずに眠る。ここは天国だ。私が王様で、私が住人で、私が神様の世界。


どれくらいの時間が経っただろう。私は最高傑作を描き上げた。満足感に浸りながら、窓の外を見る。「……あれ?」違和感があった。昨日よりも、向かいの画材屋が近くないか?いや、違う。霧の壁が、迫ってきているのだ。最初は百メートルあった世界が、今は五十メートルほどに縮まっている。


「お気づきになりましたか」背後から声がした。振り返ると、制服を着た車掌が立っていた。帽子のツバが深く、目元は見えない。「ここは『狭い世界』ですから。あなたが満足すればするほど、不要な隙間は削ぎ落とされ、より純粋に、より狭くなっていくのです」車掌は穏やかに告げた。「最終的には、この部屋とあなたの体積が同じになります。完璧なフィット感ですよ。棺桶のようにね」


ゾクリ、と背筋が凍った。窓の外を見る。霧はもう、建物のすぐそこまで来ている。このままここにいれば、私は誰にも傷つけられない。比較もされない。けれど、この「傑作」も、誰の目にも触れることなく、私と共に押し潰されて消えるのだ。


他人がいない世界。それはつまり、私が存在していることを観測してくれる人がいない世界だ。それは安らぎではなく、虚無だった。


「……帰ります」私は立ち上がった。「おや、残念ですね。あんなに広い世界は、痛いことばかりでしょうに」「ええ。痛いし、うるさいし、最悪です」私は描き上げたばかりのキャンバスをひっ掴んだ。「でも、これを見せびらかしてやりたい相手が、あっちにしかいないんです」


車掌は口元だけでニヤリと笑うと、ハサミを取り出した。「では、運賃を」私が差し出したのは、硬券ではなく、描き上げたばかりの絵だった。車掌は迷わず、そのキャンバスのど真ん中に、パチンとハサミを入れた。ああっ、と声を上げそうになった瞬間、視界が白く弾けた。


「……日比谷線、直通……」


無機質なアナウンスが現実に引き戻す。私は満員電車の中で、人に押しつぶされそうになっていた。隣の男のイヤホンの音漏れがうるさい。誰かの香水の匂いがきつい。スマホを見れば、また誰かが炎上している。不快で、雑多で、吐き気がするほど広大で無秩序な世界。


けれど、私は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに、この泥のような空気を吸い込む。


手の中には、もうあの切符はない。その代わり、カバンに入っていたスケッチブックには、真ん中に穴の空いた絵が残っていた。私は苦笑して、そのページを破り捨てた。また描けばいい。ここは広すぎるけれど、キャンバスを置く場所くらいは、きっと見つけられるはずだから。


私はスマホをポケットにしまい、流れる車窓の景色を睨みつけた。

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