出発
「お父様が愛しているのは私じゃないでしょう」
愛しているのはイリスの幻影じゃない、と僻みのような台詞が喉元まで出かかった。
だって、私とお父様が接するようになってまだ一か月ほどだ。私の存在を知ったのはもっと前らしいけれど、他者から情報を聞くのと実際に会って話をするのとでは情報量に雲泥の差がある。しかもお父様は自分の娘の存在がわかってもすぐに会いに来なかったじゃない。
結局その程度の存在なのだ。いくら娘だからって、会ってすぐの存在に命をかけられるなんて信じられるわけが無い。
「お前も親になればわかる。この気持ちがどれほど確かなものなのか」
お父様はいとも簡単にそう言った。ふと、ゴティエ司教にもこんな風に言われたと思い出す。経験のないことを上から語られても、結局理解できない。
「不満そうだな」
余裕の笑みを浮かべ、お父様は指先で私の頬を撫でた。
「イリスに似ているから、というだけではない。信じてくれ」
そう言われると心の奥底で粉々になったものが刺激された。結局のところ、私もお父様の愛を求めているのだと認めざるを得ない。愛されなくてもいいと決めたのに、父親のような顔をされる度に胸がざわめいてしまう。
私を育ててくれたお父さんとは、血が繋がっていないのでないかとずっと疑っていたから。お母さんとも似ていなかったし、私は寂しさを隠して成長した。私が望むものは、いつも欲しい形で与えられない。目の前にあってもなぜか手が届かなかった苦い経験が、芽を吹き出しそうな欲望を覆い隠す。
「ラウラ、お前は特別な存在だ。私は、長らく子ができぬことから、自身を失敗作だと思っていた。命を賭して生んでくれた母、私を心配したまま亡くなった父に申し訳なく思っていた。絶望の中を生きていたんだ。だがお前がいた。私の生殖能力がなくなったのは、お前ができたからだろう。男性側にも影響あるなんてことは、歴代なかった。きっとお前こそが私たちの最高到達点だ」
「私はそんなの望んでいません」
私が生まれる瞬間に、他人に影響を与えたいなんてどうして思うというのだろう。お父様も苦しかったかもしれないが、私のせいじゃない。
「そうだとも。望まずとも、運命は勝手に訪れるものだ。いずれ私の正しさがわかるだろう」
視界が明滅し、お父様が私の精神を操作して眠りに落とそうとしているのだとわかる。抵抗しかけたが、すぐにやめてしまった。起きていたって、私はお父様を説得する言葉を持っていない。目を閉じて静かな暗闇に身を任せた。
次に意識が浮上したとき、お父様はまだ私を見下ろしていた。部屋は薄暗く、それほど時間が経っていないようだ。夜に活発になる瘴気たちも窓辺から這いよっていた。
「ラウラ宛の手紙を読んでしまった」
お父様は泣いたばかりのように声を掠れさせ、目元は赤く腫れていた。日ごろの壮健な雰囲気がなく、生気が涸れ果てたように深い皺が眉間に寄る。
「構いませんが……」
誰からの手紙が、ここまでお父様の気持ちを揺さぶったのか不思議でならない。夜中に侍女のジネットが持ってくる手紙といえば、テオ卿かドミヌティア侯爵からのものだ。
「読んでごらん」
「はい」
手渡されたのは、色褪せて黄ばんだ古そうな便せんだった。本当に私宛の、昨日届いた手紙かと訝しみながら文頭を読む。
『私の愛しい赤ちゃん ラウラ、またはイザクへ』で始まる手紙の差出人は、イリスとあった。どこから発見されて、ここまで届いたのかとお父様の表情を窺った。
「お前の育ての母、カトリーヌ夫人が隠し持っていたようだ」
「そうなんですね」
私は夢中になって手紙を読み進めた。お母さんが首都を離れる前に渡してくれても良かったのに、どうして今になったのかという疑問も吹き飛ぶくらい、イリスの手紙の内容はひとつひとつが衝撃的で、胸を抉るようだった。
便せんは細かな皺があり、涙の跡もあった。イリスは、私と変わらないか、もっと幼い印象の普通の人だった。実在していたんだ、とイリスの踊るような筆跡から生前の輝きを想像する。なのに、文面は理解を拒みたくなるくらいひどいものだ。
「人はなんと醜いのだろう。全てが憎らしい」
お父様の頬に涙の筋が伝い、私は痛ましくその雫を追った。
「神殿に生き残るやつらの娘も、ドミヌティアの息子たちも、決して許せない」
「どうするのですか?」
お父様があまりに怒りを滾らせるものだから、私は少し冷静になった。この手紙は悲しいものだし、お母さんが隠し続けたのもわかる気がする。けれど、今さら何をやっても取り返しがつかない。
「ラウラ、お前ならこの国を終わりにできるだろう」
「……やったことがないから確信はありませんが」
「行こう、瘴気の源へ」
私はほんの一瞬、考えた。反論したらどうなるものかと。やっぱりすぐに言い返されてしまいそう。
「いいですよ、お父様が秘密を全部話してくれるのなら」
「ああ」
ピクニックでも行くような気軽さで、私はベッドから降り立った。
「着替えます」
「わかった。私も外出の準備をしてこよう」
お父様が部屋を出ると、入れ違いに侍女のジネットが入ってきた。夜更けだというのに、寝ないで部屋の外で待ち構えていてくれたらしい。
「ラウラ殿下、カトリーヌ夫人が返事をお待ちです」
「お母さんからの手紙はまだ読んでいないわ」
「すぐお目通しください」
言われた通りに未開封の封筒を開けると、一枚きりの便せんに『国王陛下が動くのなら教えてほしい』とあった。
「お父様はすぐに動くつもりみたい。どうお母さんに伝えたらいいかしら?」
「伝えて参ります」
ジネットは慌ただしく出ていってしまったので、私は別の侍女を呼んで身支度をした。地割れのある場所は確か山の中腹なので、動きやすい服装とした。
お父様と再び合流し、正門から馬車に乗って出発する。騎士や御者たちは、夜中の呼び出しにも関わらず真面目に働いていた。まさか、国王が自身の治める国を滅亡させようとしているなんて、考えもしていない。
「今の間に、私にまだ話していないことを教えてください。お父様」
「さて。改めて聞かれるとどこから始めたものか」
並んでふかふかの座席に座る私とお父様は、突然の馬車の急停車にがくっと姿勢を崩した。お父様が私を抱いて支える。馬が不満のいななきを上げ、御者が悪態をついた。
「どうしたんでしょう?」
「人が飛び出してきたようだ」
聞き覚えのある声が馬車室の外から耳に届いた。




