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イリスの手紙

 久しぶりに会ったカトリーヌ夫人はすっかり痩せていた。ドミヌティア家の使用人たちの視線を浴びて縮こまる彼女を、とりあえず執務室の簡易的な応接セットに案内した。


「どうぞ」

「恐れ入ります」


 そろそろと腰を下ろす彼女と向き合って座り、改めてその姿を眺める。丸く張っていた頬には頬骨の影が浮き、体つきはひとまわりほど小さくなったようだ。


 カトリーヌ夫人といえばふくよかな印象が強かったため、静養してもらおうと手配した遠くの領地の暮らしが合わなかったのかと申し訳ない気持ちになる。領主代行の夫妻に、よく面倒を見るよう頼んでいたのだがそうではなかったのだろうか。


「侯爵様、そんな顔をなさらないでください」


 カトリーヌ夫人が苦笑すると、以前はなかった皺が目立った。


「領主代行夫妻にしっかりともてなすように指示したつもりだが、そうではなかったのだな?」

「いいえ、彼らは私に本当に良くしてくださいました。ですけれど私など、本当に何もしていないので恐れ多く……」


 かなり含みのある言い方だ。


「あなたはラウラを育てたじゃありませんか」

「私はラウラに何も教えてやれませんでした」


 これもまた含みがある。


「そろそろ、あなたが知っていることを全て教えてくれませんか?」


 否定するように首を振るカトリーヌ夫人。


「ご覧になったでしょう?イリスの手紙を」

「ああ」


 イリスの手紙を私に読ませたのは、彼女にも迷いがあるからだろう。ここを立ち去るときでさえラウラにあの手紙を渡せなかった理由は、読めば明らかだった。


 あれは、悲劇的なものだ。涙のあとは文面にいくつもあり、インクを滲ませ、便せんに濡れた跡を残していた。それがイリスのものかカトリーヌ夫人かエルネストかは定かではない。


 私は、イリスを知る誰もが彼女に心酔していたことから、聖母か女神のような人物像を思い描いていた。だが実際のイリスが書いた手紙の文章からはひどく幼い内面が読み取れた。


 幼さはある意味では純粋無垢だが、私は胸が詰まった。イリスが閉鎖的な神殿の奥で何も知らされずに育ったか如実に表れていたからだ。彼女は今のラウラと同い年であったはずだが、聡明なラウラとはまるで違う。


 ラウラはきちんとした教育を受けたわけでもないのに、テオからのちょっとした教えや借りた教科書で人並み以上の知識を蓄えた。だから元々賢い人なのだろう。

 難しいはずの外貨を増やす仕事だって簡単なことのようにこなせただけの、論理的な思考力がある。ラウラのそういった点をよく知っているからこそ悲しかった。イリスも環境が違えばあのようにならなかったはずだ。


「あの手紙はラウラの元に届いたでしょうか?」

「いや、まだ私が保管している」


 私は立ち上がり、執務机の引き出しから膨らんだ封筒を取り出した。


「そうですか。もっと早くにラウラに見せるべきだったと思いますか?」

「わからない」

「そうですよね……申し訳ございません、私よりずっと年若い侯爵様にこんな質問をして……」


 慰めを求めるようなカトリーヌ夫人に対し、私は若干の苛立ちを感じながらも応じた。


「悩むのも当然の内容だ。カトリーヌ夫人はよくやってくれた」

「恐れ入ります」


 カトリーヌ夫人はハンカチを取り出し、目尻に押し当てる。私と彼女の間に置かれたテーブルには、イリスの手紙があった。


 その手紙は、一度読んだだけで強烈に私の記憶に刻まれ、視界にあるだけでその筆跡がまざまざと思い出される。


『私の愛しい赤ちゃん ラウラ、またはイザクへ


 あなたは何歳でこの手紙を読んでいるのでしょうか?男の子?それとも女の子?女の子だったらラウラ、男の子だったらイザクと名付けてと頼んであるの。この目で成長を見られたらいいけど、そんなこと考えたら悲しくなっちゃうわね。


 この手紙は大好きなエルネストとカトリーヌに預けるから、大人になったあなたが読んでいるのね。あなたは素晴らしい二人に育てられて、きっと素晴らしく心優しい人になっているでしょう。ここは広くて、お馬さんもかわいくて、いいところよね?私はこんな暮らしがあるって全然知らなかったから、神殿を飛び出して良かったと思っているの。


 私が言いたいのは、もし何かでドミヌティア侯爵のしたことを知ってしまっても、恨まないで欲しいってこと。

 もちろんひどく最低なことだし、私はあなたがお腹の中にいるって知っていたから、薬を飲まされたことも含めて、裏切られたと思ったし怖くて悲しかった。


 でも私があんまりにも無知だったのよ。世の中にはそういう人がいるって知らなかったの。


 エルネストとカトリーヌは、私に落ち度はないとか悪くないって何度も言ってくれたけど、なかなかそうは思えなかった。ずっと一緒に暮らしてた神殿の女の子たちは、あの日泣いて帰った私になんて言ったと思う?


「いい気味」って言ったの。私がドミヌティア侯爵にしつこく誘われて困ってるって相談したら、こっそり抜け出せるように手伝ってくれた女の子たちよ。

 友達だと思ってたのに。


「王太子といい仲になって調子に乗ってるから」「汚れた体の、バカなあなたが王妃になれる訳ない」とも言われた。

 そのときに「そもそもあなたは子どもを産んだら死ぬんだから」って初めて聞かされたの。驚いてすぐお父様に確認したら動揺してたから本当みたい。

 なんで同じように育ったあの子たちが知ってて、私は知らなかったのかな?


 自分のバカさ加減に本当に嫌になっちゃったの。もう神殿で彼女たちと過ごすことが耐えられなくて、だから私を神殿に送り帰すときに親切な言葉をかけてくれたエルネストのところに行こうと思ったの。もう一度神殿を抜け出したいと言ったら、あの子たちが親切そうに手伝ってくれた。


 私がもっとひどい目に遭って、また泣きながら帰ってくることを期待してたのでしょうね。

 これだけはざまあみろって感じ。私が帰らないから、きっと罰を受けたわ。


 そして私はエルネストとカトリーヌにとっても良くしてもらったし、ドロテアという新しい友達もできたの。


 こんないいところを見つけた私は、やっと自分を少し褒めてあげられたわ。あなたはここですくすく育ったのよね?

 あなたに最高の環境を用意してあげられたことだけは誇りに思う。


 私はちゃんと天国から見守っているわ。でもジェラニクというお父さんを奪ってしまったことはごめんなさい。私はジェラニクを愛していたし、彼も多分愛してくれていた。


 だけど神殿であなたを産んでいたら、私と同じようなつまんない人生を送ることになってしまうから、こうするしかなかったの。


 あなたは私とは違って、やりたいことをやっているはずよね?私は正直、自分のやりたいことすらわからなかったけど、あなたを愛しているわ。

 あなたがいたから、私は最後に本当の幸せを知った。生まれてくれてありがとう。

 イリス』


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