密会
ごく普通の静かな夜。上弦の月は半分ほど黄金色を見せていた。しかし僅かな間に小雨が降り始め、月は暗雲に隠れてしまう。これから先に起こることを予言しているようで、私は重苦しい息を吐く。
ドロテアとの面会から数日後。私とテオは王宮の裏門にいた。正規の訪問ではないので、ドミヌティア家の馬車は近いところで止め、待機させている。
雨に溶けることもない瘴気は空気中をたゆたい、私の黒屍病に冒された指先で意思があるかのように渦を巻く。神殿で治してもらったが、少し強張りがあった。
「こんばんは、通っていい?」
テオは親しげに裏門前に立つ衛兵に話しかけ、彼らは黙って頷いた。信じられないが、既に金銭によって買収済みだという。私とテオは何の検査も受けずに王宮の敷地へと侵入した。
「王宮は人が多すぎて、逆に警備が甘いんじゃないか?」
「ドミヌティア侯爵家も似たようなものだよ。何事も問題が起きなければまあいいかって慣れていくよね」
そういえば、ドロテアも門番と仲良くなってこっそりドミヌティア家に出入りしていると語っていた。何かを盗んだり、傷つける訳でなければそんなものかもしれない。
王宮の内部に入り、木箱などが積まれた雑然とした通路を歩く。床の清掃は十分とは言えなかった。ここに大勢の人々が暮らしているのだから仕方ないが、これでは権威も何もあったものではない。塵ひとつない前庭やホールのある表側と全く違う光景だ。
しかしこれを口にするとテオに何か言われそうだから黙っているしかないが、私はドミヌティア邸の裏口や使用人用の通路を見たことがない。きっと似たようなものだろう。
「テオ様」
歩を進めた先に待っていたのは、ジネットというラウラの侍女だ。伯爵家の三女であり、兼ねてより夜会を通じてテオと親交があったという。私も顔くらいは見たことがあったが、ドレスアップしていたときとは印象が違う。今夜のジネットは侍女らしく丸い額を出して栗色の髪をまとめ、白い襟とカフスを着けていた。
「やあ、雨音が美しい夜だね、ジネット」
「ふふっ」
テオが気取って挨拶すると何がそんなにおかしいのか、ジネットは頬を紅潮させて笑った。どう見てもテオに恋しているようだ。テオに向ける視線の熱量が違う。
「ゆっくりお話したいところですけれど、そんな暇はありませんね。ご案内いたしますわ」
ジネットは黒いスカートを翻し、確かな足取りで歩き始めた。私とテオは黙って彼女のあとに続く。
今さらながら、こんなことをしていいのかと不安になった。私はこれまで、規律や法律を破ったことはない。アカデミー在学中だって、悪友に誘われても全て断った。なのに、王宮に不法侵入しているのだ。前触れも訪問の許可もない。
私はもっと綿密な侵入計画だと思っていたのだが、『ジネットの後ろを堂々と歩いていれば大丈夫』というドロテアの立てた計画に従って、人目を憚ることなく闊歩し続ける。一応、身分の分かりづらい地味な服装にはしてあった。
近衛騎士の制服を着た人物の前を歩くときは密かに冷や汗をかいたが、特に呼び止められることはなかった。
やっと足を止めたのは、白く塗られた両開きのアーチ型扉の前だった。
「殿下、お客様をお連れしました」
ジネットがノックをする。私たちが来るという話は彼女を通してラウラに伝えてあるのだが、少しの沈黙があってから聞き慣れた声がした。
「どうぞ」
中にいたのは室内着のラウラだ。薄桃色の、柔らかそうなドレスがとても似合っている。しかしその横に騎士がいたことが問題だった。
妙に私に似た容貌の男だ。金髪と薄青い瞳、横を短くした髪型まで似ていて気色悪かった。その上許されざることに、先ほどのジネットのように頬を紅潮させている。
何をしていたんだ?
騎士の風上にも置けない男が室内にいることをなぜラウラは許しているのだろう?
「ここでこうして会うなんで不思議な気分ですね。ようこそ、いらっしゃいました」
ラウラは何もなかったかのように優雅に微笑んだ。目の前にいるのに、やはり遠くに感じた。
「あの、私は皆様にお茶をご用意いたしますので……」
ジネットはスカートを軽くつまむ礼をして、部屋を出ていこうとする。確かに、空気が読める良くできた人だ。
「あなたも下がって」
温度のない声音でラウラは騎士に命じる。
「はい、殿下」
彼の眼差しはラウラに向かって切なげに細められ、私とすれ違うときに明確な敵意を持って睨まれた。彼から見ても、やはり容姿が似ているのだろう。
「彼は?」
騎士が扉を閉めてから私は問う。こんなことを聞いても仕方ないとわかっているが、聞かずにはいられなかった。
「私の専属騎士です。少し構ってあげると嬉しそうにするので、面白くてついからかってしまいました」
ラウラは罪悪感の欠片もなさそうに無邪気に笑った。まるで別人に成り代わってしまったかのようだ。短期間でここまで影響を与えたジェラニクが恐ろしくもある。
「ラウラ、僕が言えたことじゃないけど、恋心を弄ぶのはよくないよ」
テオが心配そうに言う。しかし本当によく言えたものだ。
「どうしてですか?」
ラウラまで、素に戻ったかのように金色の瞳を見開いた。
「だってラウラは女性で、彼は腕力のある騎士だ。あんまりからかうのは危険だよ。誰もが僕みたいな紳士じゃないよ」
「ああ、そんなことですか。今の私は無力ではありませんから」
テオの意見は極端だが、ラウラは真面目な様子で答えた。無力ではない、とは本当に人の心を操れるという意味なのか?
「もう私の意志を阻むものは何ひとつありません。自由なんです」
「だが、ラウラはジェラニク陛下に利用されているんだ。わかって欲しい、あの男はラウラの力が欲しいだけなんだ」
今のラウラが自由だなんてあるものか。少なくとも、子ども時代のラウラはもっと自由だった。このままでは父親の駒じゃないか。
「だから?構いません。私は誰にも期待していない」
「どういうことだ?」
「利用価値があるなら利用しようとするのは当然のことでしょう。みんなそうやって、自分のために動いていいんです。それの何が悪いのですか?」




