足掻き
エニシャ様が黒屍病を発症して三ヶ月が経つが、相変わらず連絡は来なかった。考えてみると、ほとんど彼女からの来訪によってイルゼン様との関係は成り立っていた。
だからエニシャ様からの動きがなければ、ドミヌティア侯爵邸は静かだった。マラデニア様も案外冷たいもので、お見舞いの手紙のひとつ送ろうとしなかった。まあ双方が黒屍病なのに結婚するのは不吉だと思ったのかもしれない。かなりの確率でその体質は遺伝するから、孫の心配をしなければならなくなる。
平和なひとときの間に、私の光魔法使いとしての評判はとてつもなく上がった。こまめにスラムのトルドー診療所に通い、とても多くの患者さんを治療した成果だ。
神殿の10分の1ほどの治療費なので、スラムの住人ではない平民層も来るようになった。
その中に富豪の大商人がいたため、彼らの投資によって診療所までの道のりは整備された。ついでに道沿いに露店もできた。
そして早いことに、黒屍病を完治させた人が出始めた。驚くことに、そういった人たちは弱いながらも魔法が使えるようになったという。全く貴族の血を引かず、魔法の素養がなかったとか年齢に関わらず、ふと使えるようになったそうだ。
「すごいことだな」
ある日、新聞の一面を私に見せてイルゼン様は私を褒めて下さった。見出しには私のことが書いてある。『奇跡を呼ぶ聖女』とかなんとか恥ずかしくて見るに耐えないけど。
「ごめんなさい、イルゼン様のことは完治させてないのに」
「いや、私は別に焦ってはいないから。それに治った事例が増える程に安心できる」
イルゼン様の口調は柔らかく穏やかなものだった。エニシャ様が来なくなって以降、平和なせいだろう。ただし今日この後の予定に私は緊張している。エニシャ様の父であるシノール侯爵様がやってくるからだ。
エニシャ様とイルゼン様の婚約を解消させる予定になっている。
約束の時間通りにやって来たシノール侯爵様は、冷静そのもので淡々と手続きを進めた。彼はエニシャ様を彷彿とさせるプラチナブロンドの巻き毛と緑の瞳なのだが、やはり年齢と地位に伴った落ち着きがある。
書類にあれこれ記入する手伝いとして同席している私を特に気にする様子もなかった。エニシャ様から、私のことは散々聞かされているはずなのだが責める視線すら見受けられなかった。
そうして双方の侯爵家の当主の合意の下、婚約解消の書類にサインをした。エニシャ様はいなかったが、彼女についての権利はシノール侯爵様が全て持っているから仕方ない。
「ドミヌティア侯爵、あなたに今まで迷惑をかけて済まなかった。エニシャは体調が悪いから、遠くで療養させる」
と帰りがけにシノール侯爵様は仰った。一瞬だけ口元を歪めたが、ただうんざりした様子だった。
「彼女との縁が切れて本当によかった。まさに肩の荷が下りた気分だ」
シノール侯爵が帰ったあと、イルゼン様は執務室の椅子に座って婚約解消の合意書を何かの表彰状のよう掲げた。とても晴れ晴れとした表情だ。私ももちろん嬉しいが、今後のことを考えてしまう。
「イルゼン様なら新しい縁談が殺到するかと思いますが……」
イルゼン様は容姿端麗、頭脳明晰、そしてこの国で王室を除けば最もお金持ちかつ権威あるドミヌティア侯爵家当主だ。結婚したい令嬢はいくらでもいるに決まってる。シノール侯爵様やイルゼン様が周りに言いふらしたりしなくても、使用人などから伝わってこのお話は社交界を駆け巡るだろう。
「私は誰とも結婚しない。後継者は親戚から募るか、テオの子どもを期待するか、だな。その点だけはテオがいてよかった。そもそも私が彼女と婚約する羽目になったのもテオとテオの母親のせいだが」
婚約が解消した途端、イルゼン様はエニシャ様の名を呼ばなくなった。その変化に驚きつつ、婚約のきっかけも気になった。
「そうなんですか?」
「まあ、今となってはどうでもいいことだ」
イルゼン様はちらりと冷めた青い瞳を私に向ける。すぐに合意書に視線を戻し、大事そうにそれを引き出しに入れた。執務机に備え付けの引き出しのうち、一番上の鍵付きの段だ。
「やっと終わった」
終わったというのは婚約の話だろうと、私は大きく頷いた。ところがイルゼン様は立ち上がり、私に向かってつかつかと歩み寄る。
「どうかしましたか?」
広い執務室ながら、私は何となくイルゼン様の席の近くに立っていた。間近になると高身長のイルゼン様を見上げる形になる。首に負担がかかるので後ろに下がろうとする私をイルゼン様は抱きしめた。
「え?」
私は礼儀を忘れて疑問の声を上げた。
婚約者もいなくなったし、これから私とイルゼン様の関係が始まるってこと?
一瞬都合のよい考えが浮かぶ。でも私はイルゼン様の異母兄妹かもしれないから、ダメなんじゃなかった?
好意を寄せるなと遠回しに注意されたんじゃなかったっけ?
これって何のご褒美?
「愛してる」
混乱している間に信じられない言葉がイルゼン様から発せられた。これは夢なのかなあ――
悲しくなった私はすん、と鼻を鳴らす。婚約者がいなくなったことも夢だったんだ。だってイルゼン様が私を抱きしめて愛を告げてくれるなんて夢じゃなきゃあり得ない。夢に決まってる。
「そう書いてあったんだ」
イルゼン様は私の後頭部を撫で、事も無げに続けた。夢にしては素晴らしい感触だ。
「すみません、何のお話でしょうか?」
夢じゃなかったかもしれないけど、やっぱり私に愛を告げてくれた訳じゃなかった。気持ちの乱高下に目眩がするけど、とりあえず質問をした。
「父上から私への手紙の末尾に、愛してると書いてあったんだ。父上が亡くなった後、すぐに見つかるように金庫に仕舞われていた手紙だ」
顔は見えないけれど、イルゼン様の声音は感情が抜け落ちたように平坦だった。
「愛してると、そう言えば全て許されるのか?」
そんなことはないと思うけど私は答えに迷ってしまう。何だかイルゼン様の中で答えは決まっている気配がした。
「あの言葉を見たとき、私の中で父は完全に死んだ。私はあんな父親でも、愛されたい、評価されたいと思っていた。その気持ちが消え去ったんだ」
そのまま間髪を入れずにイルゼン様は続ける。
「そして今日、やっと全部の支配から抜け出せた気がした。だが愛を告げようにも、私はこんなにも自分勝手で、押し付けがましく醜い。結局、父上の記憶は無くならない」
もしかして、もしかすると、愛を告げてくれたのかもしれない。だけどイルゼン様の考えは複雑すぎて、私にはよくわからなかった。
私は腕を伸ばしてイルゼン様の背中を撫でる。私は少しも嫌だと思っていないと表現したつもりだ。
自分勝手で、押し付けがましい醜いものだとイルゼン様が自分を嫌悪しても私は嬉しかった。確かにこれは自分勝手なひどい気持ちだ。私もまた、今までの人生の記憶は消せない呪いのように私の中にある。ちょっとしたことで期待しては失望して、でもまだ好きになってもらいたいと無駄な足掻きをやめない。
扉がノックされる音で、跳ねるように私たちは体を離した。やって来たのは執事のカファロさんだった。薄くなった髪を丁寧に後ろに流し、姿勢よく歩く人だ。
「王室からのお手紙です」
カファロさんは、銀のトレイに載せた手紙を私に差し出した。私にイルゼン様に渡す役目をくれるのかなと、トレイごと受け取ろうとする。しかしカファロさんは首を振った。
「ラウラ、あなた宛てのお手紙です」




