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発症

 イルゼン様は小さくため息を吐いた。その気持ちは大いに理解できる。ちゃんとイルゼン様を見ていれば私たちの本当の関係に気づきそうなのに、エニシャ様の目は真実を見ず、曇ってばかりだ。


 大体イルゼン様は高潔な方なのだ。女性にだらしない先代侯爵様をどうひいき目に見ても嫌っていた。侯爵の座は受け継いでも女遊びまで踏襲するわけないと、長年の付き合いがあってどうしてわからないんだろう。


「異性を連れて歩いていたらそういうことになるのか?ではエニシャ、君の連れている護衛の騎士との関係も疑うべきなのか?」

「あら、ふふ、やっと気づいたの?」

「それは聞きたくなかった」


 イルゼン様は頭が痛そうに顔をしかめる。私も聞きたくなかったな、と血の気の引く思いがした。エニシャ様の倫理観が乱れすぎていていっそ怖くなった。


「どうしてそんな顔をするの?男と寝たくらいで私の価値は減らないわ。だって私はシノール侯爵令嬢ですもの。何をしたって、そこの平民女より高貴なのよ」


 胸元を飾る大きなサファイアのネックレスを見せびらかすように、エニシャ様は胸を張った。


「君の感覚とは一生相容れないだろう。もう本当に心から婚約を解消したいんだが」

「感覚なんてそのときだけのものよ。それよりも身分や外見という確かなものが大事じゃなくて?」

「我がドミヌティア侯爵家は、確かな地位を持っている。別にシノール家との繋がりは必要ないんだ」


 ただ疲労を覚えるだけなのに、イルゼン様は以前も言ったことを真面目に言い返す。いつまでも紳士的に説得を試みるイルゼン様の根性に尊敬の念を新たにした。私にはとても無理。


「ふふ、でも一度成立した婚約は、よほどのことがなければ解消されないの」

「エニシャの行動は淑女としてどうかと思うが」

「じゃあ私の男遊びについても広めたければ広めるといいわ。イルゼン様が情けない男として笑われるだけと思うけれど?あなたはそんなふしだらな女を妻に迎えるのよ」


 ただ聞いているだけの私のほうが腹が立ち、手に力が入った。本当に許しがたい。というか絶対に許せない。


 一番許せないのはイルゼン様の気持ちをないがしろにする点だ。歩み寄りとか譲歩の姿勢すらないじゃない。この人はただひたすら、自分だけが大事な人なんだ。最早、人の皮を被った別の生き物に見えてきてしまった。


「いい加減にしてください!」

「まあ、卑しい女が何よ。いい加減にして欲しいのはこちらよ、いつまでここにいるの」


 我慢しきれず割り込んだ私に対し、エニシャ様はいつもの蔑んだ目線と口調になった。それでも私はどうしても言いたかった。


「あなたはイルゼン様にあまりに失礼すぎます、自分がされたら嫌なことをあなたはしてるじゃないですか!」

「ラウラ、いいから」


 止めようとするイルゼン様が私の前に立つが、すり抜けてエニシャ様に迫った。


「あなたは一度だってイルゼン様の気持ちを考えたことがないですよね?そのくせ他人からの称賛だけはいちいち気にしてるのはおかしいです。エニシャ様には自己顕示欲しかないんですか?」


 クッと喉を鳴らし、エニシャ様は大口を開けて笑い出した。濃く塗った口紅が歯に少し付いていて、気味が悪い。やがて発作のような笑いを収めたエニシャ様だが、片側の口を吊り上げた。


「知ったような顔でいい子ぶらないでちょうだい。それとも、称賛を知らない卑賤な生まれには、褒められて羨まれる快楽がわからないのかしら?誰もが憧れるような美しい花嫁になって、ドミヌティア夫人として社交界に君臨したいと思って何が悪いの?」


 下瞼を持ち上げて目を細めたエニシャ様が、眼前に近づいた。濃い化粧の下にうっすらニキビ跡が見えた。


「ああ、気に入らない。自分の方がきれいだと思ってるんでしょう」


 鋭い痛みが頬に走り、私は自分の顔を押さえた。至近距離で睨み合っていたためエニシャ様の手が見えていなかったが、ぶたれたようだ。私は信じられなかった、あまりに幼稚で暴力的な行為すぎる。


「エニシャ!何てことするんだ」


 再び私とエニシャ様の間に入ったイルゼン様は、今度こそ止めようとしてるのだろう。かなり低い声で威嚇する。


「あ……ああっ?!」


 イルゼン様の背中越しに、床にへたり込むエニシャ様が見えた。豪華なドレスの裾が床に広がり、布の海となる。エニシャ様の声は後悔の悲鳴なのかと思ったが、様子がおかしい。


「私の手が黒く……い、痛い!」


 息を呑むイルゼン様の横に立つと、黒く染まり始めた右手を押さえるエニシャ様の姿があった。この見慣れた症状は、紛れもなく黒屍病だ。私もまた、息を呑んで呆然とするしかなかった。こんなに突然?


「化け物!私に呪いをかけたの?!」

「私は何もしてません……」


 恐れに見開かれた瞳を向け、エニシャ様は私のせいだと糾弾する。でも私には何の心当たりもなかった。私をぶったその右手が、急に黒屍病を発症したとしても、私にそんなつもりはなかった。


「化け物!化け物だわ!」


 エニシャ様はこんな部屋にいられないとばかりに飛び出していき、廊下でも泣きわめく。メイドたちや使用人が駆け付け、心配する声が遠くから響いてくる。だけど私とイルゼン様は、ぼんやりと立ち尽くしていた。


「ラウラ、いくつか聞きたいんだが」

「は、はい」


 イルゼン様に小声で話しかけられ、私はどうにか返事をする。


「エニシャが君に触れたのは今が初めてか?」

「そういえば、扇でつつかれたりはしてましたが、直接触れるのは初めてでした」


 彼女はいつも、私になど触れるのも汚らわしいと、扇でつついたり、水をかけたりしてきていた。あとはエニシャ様の取り巻きの令嬢が私を押さえていた。


「すまない、疑っているわけじゃないんだ。君のご両親は?君に触れることは当然あったな?」

「撫でたり、抱きしめたりしてくれましたよ」

「そうだな、カトリーヌ夫人と別れの挨拶を交わすときもそうだったな」

「私は触ったら黒屍病になる危険人物じゃないです、今のエニシャ様の発症は偶然ですよ」


 イルゼン様が何を考えているかわかり、私は身の潔白を主張する。偶然にしては出来過ぎているけど、私は知らないもの。イルゼン様は僅かに眉を険しくした。


「エニシャを憎んでいるか?」

「正直、嫌いではあります」


 憎むほどではないけど、嫌いではある。だって憎むというのは、その対象が目の前にいなくても頭から離れないくらいの感情だと思う。私はエニシャ様のことを普段そんなに考えない。


「では、私を憎んでいるか?」

「まさか。どうしてイルゼン様を憎むんですか?私はずっと……」


 ずっと好きだったし、これからも好きでいるだろう。どうにもならない関係だとしても、イルゼン様を好きでいてこそ私とまで思っている。


 イルゼン様の青く透き通った瞳が、何か言いたそうに逡巡していた。私は質問の意味を考え、イルゼン様が黒屍病を発症した前後を思い出した。


 そうえば黒屍病になる前の晩、イルゼン様は泣いている私を抱きしめてくれた。

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