冷却
トルドーさんは、テオ様に渡された紙片を眺めた。
「一応合法だなあ。痩せ薬の成分はほかの病気のときに使う薬だ。本来の用途と違う目的で多量に摂取すると健康に害があるけど、多分そのエニシャ嬢が自分で飲むんだろ、自己責任だな。こっちの媚薬入りチョコレートは薬ってほどでもないぞ。ヘビ、羊、鹿は精力がつくだけ。あとシナモン、ナツメグ……こんなスパイス、この人参ケーキにも入ってる安全な代物だ」
私はぎょっとして人参ケーキを食べる手を止めた。人参のクセを消すために使われているスパイスが絶妙で、夢中になっていた。シナモンやナツメグ入りのお菓子は食べたことはあるけれど、媚薬効果があるとは知らなかった。
トルドーさんが面白いものを見つけたかのようにニヤリと笑う。
「大丈夫、少しなら血行がよくなるだけだ。媚薬なんてもんは、媚薬だと思って摂取して、好みの相手といい雰囲気にならなきゃ効かないんだ。ほとんど気のせいだな。なんの性的刺激もなしにそんな気分になる薬はまだない」
「いえ、あの、子どもたちの前でそんな話だめですよ」
「うん?お前ら、よくわかんねえよな?」
わかんなーい、と口をモゴモゴさせながら男の子たちは答えた。とりあえずどう答えるべきかはわかっている、賢い子たちみたいだ。
問題ないのなら、あんまり騒ぐことでもないのかなと私は人参ケーキの最後の一切れを口に運んだ。甘くて微かにピリッとして、素晴らしい味わいだ。
頭に血が巡ったのか、つい最近にあった光景がふとよみがえる。エニシャ様がドミヌティア侯爵邸にやって来たときのものだ。持ってきたチョコレートをしきりにイルゼン様に勧めていた。
いつも人にあれしろこれしろと求めてばかりのエニシャ様にしては殊勝な言動だと思ったのだ。
「あの、この間エニシャ嬢がチョコレートを持ってきていましたけれど、あれってまさか」
「イルゼンに媚薬入りのチョコレートを食べさせてるかもって?そんなの面白すぎでしょ」
食べていた口元を手で押さえて、テオ様はクスクス笑う。
「既成事実を作ろうとしてるのかなあ、エニシャ嬢は婚約解消したくないんだっけ」
「笑いごとじゃないですよ」
イルゼン様は、彼女との婚約を解消したがっている。そのために情報を集めて動き回っているし、何か材料を掴んだとも言っていた。
「卑怯な手段で相手の気持ちをねじ曲げて自分の思い通りにしようだなんて、絶対に許せません」
私の声は自分で聞いても怒りに満ちていた。得体の知れない憎しみが胸の内側でふつふつと煮え滾るようだ。
「そうだよね、ごめん」
「いえ、こちらこそごめんなさい。テオ様を責めてるわけじゃないんです。エニシャ様がいけないんです」
私が初めてと言ってもいいくらい怒ったせいか、テオ様はうなだれてしまった。私ったらどうしちゃったんだろう。
ドミヌティア邸に戻ったあとは、逸る気持ちでイルゼン様の執務室へと向かった。エニシャ様が良からぬ企みを持っていると早く伝えたかった。
「ただ今戻りました」
「ああ、ご苦労だったな。何か問題はなかったか?」
イルゼン様は持っていたペンを置き、すごく心配そうに私を見上げた。
「問題ありません。診療所の方たちもとても親切で、思ってた数倍きれいなところでした」
「そうなのか。私もいずれは時間を作って行きたいものだ」
いつもと変わらない風景として、イルゼン様はマホガニーの重厚な机に向かっていた。山積みの書類と、インクの匂い。だけど間違い探しのように、ここにあってはいけないものがある。
「そ、そのチョコレートはどうしたんですか?」
私の指先は、小皿に盛られた丸い形のチョコレートを指していた。普段のイルゼン様は、お仕事をしながら何かつまむようなことはしない人だ。休憩でお菓子を召し上がるならちゃんと席を移動するのに、なぜ。
「ああ、さっきエニシャが来ておいしいからどうしても食べてくれと置いていった。食べ物に罪は無いから少し食べたが、いるか?確かに風味は良かった」
純粋無垢なイルゼン様に私は目眩がした。時間的に、私が診療所にいる間にここに来ることは可能だったのだ。きっともうしばらくしたら、エニシャ様が忘れ物をしたとかで再来するんだ。私は小皿を手に取り、手で仰いでシナモンとナツメグの香りがすることを確かめる。
「このチョコレートは媚薬入りですよ!」
「は?」
「今日、スラムでエニシャ様を見かけたんです!それで、詳しく話すと長くなりますけど、人に頼んで何を買ってるか調べてもらって、媚薬入りチョコレートを買ってると知ったんです。この匂いは絶対そうです」
イルゼン様は涼しげな青い瞳を細め、自分の額に手を当てた。
「くっ……」
どうやら、氷魔法で自分の頭を冷やしている。頭痛がするくらい急激に冷やしているみたいだ。
「大丈夫ですか?」
そういえば媚薬と思えば効くし、思わなければ効かない、みたいなことをトルドーさんが言っていた。言わなきゃ良かったかもしれない。イルゼン様は、さっきまで何ともなかったのに急激に顔を赤くしている。意外と暗示にかかりやすいタイプだったんだ。
「問題ない。だが、ラウラは下がっていてもらえるか」
「でも効いたと思われる頃にエニシャ様がやって来ますよ、危ないです」
「エニシャは別に危なくない」
「あっ、失礼しました」
「そうじゃなくて、エニシャに対しては何を盛られても間違いが起こらない自信があるが……いや、何でもない。とにかく、出ていってくれ」
そう命令されては仕方なく、私はドアに向かいかけた。しかしドアノブに触れる前にそれは動き、エニシャ様が断りもなく入ってくる。婚約者だからって我が物顔で、ドミヌティア邸のどこかに居座っていたのだろう。
「あら、どうして薄汚い女狐がここにいるのかしら。私とイルゼン様は大事なお話があるのだから、今すぐ出ていきなさい」
エニシャ様は、スラムで見かけたときとは打って変わって、胸元が大きく露出したドレスを着ていた。胸を相当寄せて上げて、谷間を作っている。
「あなたに命令される筋合いはありません。それと、イルゼン様に変なものを食べさせないで下さい」
「なっ、何のことかしら」
明らかに動揺し、エニシャ様は赤く塗られた唇を歪めた。
「私、見たんです。エニシャ様が怪しげな薬屋から出てくるところを」
「ふん、あなたこそどうしてそんなところにいたのよ。なぜ知ってるのよ。いやらしいドブネズミみたいに嗅ぎ回って」
「やめろ」
イルゼン様の一喝で、エニシャ様は口を閉ざした。イルゼン様が険しい表情で立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
「いい加減にしてくれないか。エニシャの次の婚約のため、穏便にこの関係を解消しようと提案しているだろう。それとも、あの絵が社交界に出回ってもいいのか?」
「あれは私じゃない。あんなの、捏造よ。絵描きに頼めば何とでもなるでしょう?!」
何の話かいまいちわからないけど、エニシャ様にとって都合の悪い彼女の絵があるらしい。それがイルゼン様の掴んだ婚約解消の材料だろう。
「その絵描きとただならぬ関係にあるそうじゃないか」
「だから何?イルゼン様だって、こんな女を侍らせてるじゃない!」




