イルゼンの回想 3
今日は家庭教師は来ないようだが、テオの部屋には多数の教科書や参考書が置かれている。遅ればせながらドミヌティア侯爵家にふさわしい教育が始められていると察しがついていた。
「頼む。ラウラに勉強を教えてやってくれ」
「僕が?何で?」
テオは紫色の目を丸く見開き、訳がわからないとばかりに両手を広げた。病気なんだしという甘えも透けて見えた。
「お前がラウラに恩返しできることなんて、それくらいだからだ。いいか? ラウラはお前のせいで、どこにも行けない身となったんだ。せめてお前がこれから覚えることくらい、彼女にも教えてやるのが人としての道だろう。何に使うのかわからない知識でも、学ことで前進している気になれる。何かの役に立つかもしれないし」
このくらいしか思いつかないのが残念であるが、勉強は寂しさを忘れる手段としてかなりの有効性がある。勉強はいい。新しい知識で頭を疲れさせることで、雑念を捨てられる。現実には何もできなくても、なにか成し遂げた感覚を味わわせてくれるものだ。
ラウラならこの感覚をわかってくれるだろうし、知って欲しいと思っていた。
「でも僕、普段は家庭教師がつきっきりなんだよ。今日は家庭教師のベクターが遅れるらしいけど」
「ベクターか。彼は教え方が上手いから、彼の言うことをよく覚えて、本かノートに書きこんでラウラに渡すんだ。その方がお前の授業効率も上がるだろう」
不満げなテオに対して、私は押し付けるようにぐいぐいと迫った。しばらく睨み合いになるが、結局テオが負けて目を逸らす。
「何だよ、偉そうに兄貴面しちゃって」
「文句はいいから、やるんだな?」
「ラウラのためならやるよ……」
不承不承ながらも、テオはわかってくれた。私に頼まれたことは気に入らなくとも、ラウラに対してきちんと恩義を感じているようだ。
「でもいいの?勉強を教えたりしてたら、僕とラウラはもっと仲良くなるよ。イルゼンのいない間にね!」
にやっと笑ったテオは、言い返してやったと嬉しそうだ。だが、そんなことは既にわかっている。
「仕方ないだろ、私はアカデミーに行かなきゃいけない。それはラウラが仕えるドミヌティア家を安泰にするためなんだ。まあ首席卒業して、ついでに強力なコネを作ってくるけどな」
強がったものの、本当のところは父上に逆らえないだけである。アカデミーに戻りたくないなどと父上に言えばすぐに殴られ、侯爵家の屈強な騎士たちに縄で縛られ、アカデミー行きの馬車に乗せられるだろう。
だから逆らうだけ無駄なのだ。
「ふうん、偉いんだね」
テオはわかってなさそうに、軽い相づちを打った。
「頼んだぞ」
「別に、イルゼンに頼まれてやるんじゃなくてラウラのためにやるだけだからね」
この頃のテオはまだ子どもで、無害な存在だった。可愛げがあると思っていた私が甘かったのだろう。
数年でテオは成長を遂げ、ドミヌティア侯爵邸での暮らしにもすっかり慣れた。
するとテオは勉強の合間を縫っては、メイドにちょっかいを出すようになった。スカートをめくるとか、カエルで驚かすなんてかわいいものではない。
実の母に会えなくて寂しい、お義母さまが冷遇する、などと真実を織り交ぜて巧妙な心理戦を繰り広げたのだ。年端もいかぬ少年と甘く見ていたメイドたちはいつの間にかテオに心を奪われ、自分だけが彼の理解者だと信じてしまう。テオの容貌は庇護欲をそそる色白の美少年であるし、妙な方向に才能があった。
メイドたちは自分こそが最もテオに愛されていると対抗しあい、衝突して、その後なぜか結束した。母上に対してだ。共通の敵として、メイドの約半数が母上に敵意を持つようになった。
雇われの身である彼女たちが何か行動を起こす訳ではないが、悔しくてたまらない。囁き声が聞こえる度、自分の悪口に聞こえるけれど、流石に全部は解雇できない――
そんなことが母上からの手紙に切々と綴られているのだから、私は手紙恐怖症となった。必ず嫌な気持ちになるのであれば、読むのが怖くもなるというものだ。
休暇の際にはドミヌティア侯爵邸に帰り、テオに注意はした。だがテオはどこ吹く風というように聞き流した。
「彼女たちが勝手にやってるだけだよ。僕は優しいお姉さま方に、ほんのちょっと愚痴を言っただけ」
「屋敷の中を引っ掻き回すのはやめろ」
「やだなあ、どうせマラデニア夫人からの手紙を鵜呑みにしてるんでしょ?一方的な視点で人を責めるのはよくないよ」
知識を身につけたテオは、全くかわいくなかった。
「ラウラだって公平な視点で見てくれてるよ。僕は大人の事情に振り回される、かわいそうな男の子なんだから」
「ここでラウラの名を出すな」
「ふん、イルゼンにはわからないよ。生まれつき何でも持ってて、しかも全然屋敷にいないくせに、ラウラの気持ちまで持っていってる人にはさ」
ここで私の口元は簡単にゆるんだらしい。テオは見逃さなかった。
「なに?その勝ち誇った笑み。イルゼンに注意なんてされたくないね、出てってよ」
この言い争いの勝者がどちらだったのかというと、テオだったのかもしれない。彼は思うように会話をコントロールし、私は部屋を出るしかなかった。
その上、廊下ですれ違うラウラに対して声もかけられなかった。意識し過ぎたせいだ。
ラウラは会うたびに美しく成長し、少女期の危うい色気と清らかさを併せ持っていた。微かに甘い香りがするし、頬は色づいている。
やっぱり好きでいてくれるのか?と期待してしまう。本当にどうしようもない。
雑念を振り払うために私は勉強に精を出し、宣言通りアカデミーを首席卒業した。ドミヌティア侯爵邸に戻ったものの、侯爵家の仕事を覚えることに専念したいと言ってエニシャとの結婚は免れた。
結婚したら、ラウラへの気持ちが汚いものになる。世間的には浮気と分類されるのだ。
私が色々なことに努力できたのはラウラがいたからなのに、他人からは許されないと知っていた。
エニシャが、私を装飾品のひとつのように扱ってもだ。アカデミーを首席卒業したことや、それなりに成長した体つきは彼女から執着される要因のひとつとなった。
その頃、テオの黒屍病にある変化があった。
数日おきにラウラによる治療がないといけなかったのに、全く症状が出なくなったのだ。
これはラウラから直接相談されて発覚した。許されざることだが、テオは一年ほど黙っていた。症状がないのにラウラを呼びつけ、だらだらとお喋りに興じていた期間があったということだ。
私はテオの部屋に向かい、彼を問い詰めた。
「なぜ黒屍病が治ったことを黙っていたんだ?」
黒屍病は不治の病とされている。だからこそ、忌避されていて恥であるのだ。テオは地顔からして少し笑っているような口元をしているが、このときは明確に笑った。
「バレちゃったか。ラウラから聞いたの?」
「ああ」
「困ったなあ、二人の秘密にしておきたかったのに」
「家の名誉に関わることだぞ。今まで、お前の黒屍病を隠すためにどれだけ気を使ったことか。ラウラは普通に治療しただけと言っているが、ひとりで何かしたのか?」
「イルゼンは知りたがりだね」
「ふざけるな」
クスクスと不愉快な笑い方をして、ようやくテオはこちらを見据えた。優美な紫色の瞳は、いつも私を幻惑するようで嫌いだった。
「これは秘密なんだけど、ラウラがキスしてくれたから治ったみたい」
「ふざけるな!ラウラはお前と違って真面目なんだ」
治療に同席したことはないが、ラウラから手をかざして光魔法を行使しただけと聞いていた。ラウラがそんなことをするはずない。
彼女は私の願い通りに学問に燃え、その辺の令嬢より余程知的に育った。分別もある。父上に似て、ついにメイドたちと不埒な行為をし始めたテオと、キスなんて絶対にしない。
「信じたくないみたいだけど、本当だよ。真面目だからこそさ。僕の黒屍病を治したいって真に思ってくれたんだ。乙女の真心ってやつが奇跡を起こしたんだね」
「息をするように嘘を吐くな」
「僕とラウラがどれだけ同じ時間を過ごしたと思う?長い間じっくり好意を伝え続けて、僕はラウラの心を射止めたんだよ。イルゼンが婚約者とよろしくやってる間にさ」
「エニシャとは何もない」
「そうかもね。ラウラとも何もないよね、あはは」




