イルゼンの回想 1
「なぜ?」
ラウラたちが一家揃って追い出されるかもしれない、と聞いて私は焦った。何がいけないのか、さっぱりわからなかった。
「なぜなら、その娘とお坊ちゃまは結婚できないからです。お坊ちゃまは侯爵家の跡取りですから、御者の娘との結婚など、ご両親がお許しにならないでしょう。そして、結婚できない相手に恋心を持つことは、いけないことです」
「なぜ?」
この頃の私は、家庭教師のベクターに質問してばかりだった。
「神の教えです。それから、ドミヌティア夫人にきつく言い渡されております。お坊ちゃまが侯爵様のように育たぬよう、目を光らせろと」
「確かに、父上の行動はどうかと思う」
父上は母上以外の女性によく鼻の下を伸ばしていて気持ちが悪かった。専属侍女などと呼び、何人もの女性に着替えや入浴を手伝わせている。
私は、いい大人がひとりで着替えや入浴をしない理由がまだ理解できずにいた。私自身はひとりで済ませる方が気楽で良いと思っていた。
「あんなふうにはなりたくない。だからラウラと結婚できたらいいのに」
「うーん、お坊ちゃまが誰よりも賢くお育ちになれば、きっと何か方策が見つかるでしょう」
「そうか!」
「ええ、ですからお勉強をがんばりましょう」
ベクターの都合の良い嘘を私は信じ込み、勉強も熱心になった。ラウラの金色の瞳を思えば、興味が持てない分野も根性でがんばれた。元々勉強は得意だったし、ベクターの教え方は上手かった。
しかし胸に秘めた小さな夢は、突然の婚約話で打ち砕かれた。あるとき父上は、婚約が決まったと私を応接室に呼び出して告げた。
「どうして勝手に決めるのですか?」
「私がお前の父親だからだ」
父上は、微かに酒の匂いをさせて答えた。それから葉巻に火をつけ、吸うでもなくぼんやり紫煙の行方を眺める。
「別に結婚相手など、誰でもいいではないか。跡継ぎを生ませたあとは放って好きな相手と遊べばいい」
「そんな……父上は、母上の気持ちをお考えにならないのですか?」
「はは、イルゼンはあれに毒されたか。男は男らしく遊べばいいんだ」
「男らしさとは何ですか?」
「私を見ればわかるだろう」
もしかすると反面教師のつもりなのか、と私は考えた。傲慢で、身勝手で、だらしがない。そんな父を嫌っていたが、あまり認めたくない感情だった。それでも父なのだ。
もう既に婚約話は決まっていて、シノール侯爵とエニシャ令嬢たちが挨拶にやって来た。
「初めまして、お会いできて光栄ですわ」
エニシャ令嬢はスカートの裾をつまみ優雅に礼をしたが、そんなものが何の役に立つんだと冷めた気持ちでいた。父上はシノール侯爵と話があるからと、彼女を庭園に案内するよう命じた。仕方なく彼女をエスコートする。だがエニシャ令嬢は人の気配がなくなった辺りで私に顔を近付けてじろじろと観察した。
「あなたなら、美しいこの私につり合ってるから合格点をあげますわ。お友達に自慢できそう」
「あなたは普段、何も勉強してないのか?」
なぜわざわざ不快にさせるようなことを言うのか、全く不可解だった。私はエニシャを軽蔑し始めていた。
もっと幼く、家庭教師などいないラウラでさえこんなに愚かな発言はしない。
「嫌ですわ、お勉強はしています。でもマナーは社交の場で使うものでしょう。私たちは結婚して家族になるのですから」
エニシャは得意げに笑うが、その変な考えに同意はできなかった。家族なら何を言ってもいいとは思わない。根本的に、思いやりがなさそうだった。
つまり、彼女は父と同じ種類の人間だった。自分が一番大事で、相手の気持ちを踏みにじって何とも思わない。
腹立ち紛れに何か言ってやりたかったが、彼女と同じレベルになるのも悔しくてできなかった。
応接室に戻ると、父上の前にベルベット貼りの箱が置かれていた。シノール侯爵が贈呈したようだ。彼らが帰った後で父上に確認すると、珍しいピンクダイヤのネックレスだと教えられる。
「これは金を出しても買えない希少なものだ」
「どなたに差し上げるのですか?」
「言ってもわからんだろう」
私はひどい顔をしていたと思うが、父上は機嫌よく笑っていた。私の婚約ぐらいで、愛人に渡すプレゼントが手に入ったのだ。私がどう思うかは父上に関係ないし、世間的に侯爵家同士の婚約は悪い話ではないから、幸せそうだった。
絶対に父のような人間になるまいと思った。
だから、ラウラと親しくする訳にはいかなくなった。乗馬の練習中に、相変わらず私を応援するラウラの姿はあったけれど、話しかけることはなかった。
私は馬と一緒に柵の中にいて、ラウラは外で自由にしている。それだけで良かった。
勉強は嫌なことを忘れるため、必死に続けた。いずれドミヌティア家を継いだとき、ラウラの生活を安泰にさせるためにもそれが良いと考えていた。親しくはできないが、近くにいてもらうつもりでいた。
13歳になると全寮制の王立アカデミーに入ることになった。将来のために必要だと以前から説明されていたが、気乗りしなかった。休暇で帰ったときしかラウラの顔を見られなくなる。
しばしの別れの挨拶をしようかと、私は馬場を訪れた。名目は愛馬ケンネスに別れの挨拶をするとした。
幸運にも厩舎を覗けば、ラウラはそこにいた。バケツを腕にかけ、馬におやつをあげていた。10歳とまだまだ小さいが、馬たちは彼女に懐いていた。
「私にもそれをくれ」
緊張によって私は、よくわからない話しかけ方をした。
「えっ、これですか?!」
私に気づいていなかったラウラは、手に持っていた人参のように顔を赤くした。また妙な感情がざわついた。かわいいのに、頬をつねってやりたくて苛々した。エニシャに対してどれほど腹が立っても紳士でいられるが、ラウラの前ではおかしくなる。
「勘違いするなよ、ケンネスにやるんだ」
「あっ……そうですよね。はい、どうぞ」
バケツを両手で持ち、ラウラは人参を差し出した。馬には手であげるのに、私には触れてもくれないんだとがっかりした。
「私はアカデミーに行くから、しばらくここを離れる。ケンネスを頼んだぞ」
ケンネスに人参をやりながら私は言った。ラウラはさりげなく私の横に立った。間近で見る彼女はやはりかわいくて、金色の瞳は宝石のように輝いている。
「そうなんですか?!」
「そうだ、知らなかったのか」
「はい……寂しくなりますね」
ラウラはケンネスの白い鼻面を撫でながら言う。それが彼女の気持ちなのか、ケンネスの気持ちを代弁してるのかわからなかった。私はハンカチを取り出し、手を拭くふりをした。
「これ、汚れたから捨てておけ」
「はい」
彼女は物珍しそうに、私の白いハンカチを受け取って見つめた。本当に捨てるなよ、と言外に込める。往生際悪く、私の物を持っていてもらいたかったのだ。
「ラウラはハンカチを持っていないのか?その、代わりに」
「ごめんなさい、今は持っていません」
ラウラは恥ずかしそうに俯いた。
「いや、私はたくさん持ってるからいいんだ」
何か彼女のものが欲しかったが、この記憶だけでがんばれそうだった。ラウラは変わらず純粋で、私を好きそうだ。
そうしてアカデミーに出発したが、年の近い同性と暮らす生活は意外と楽しいものだった。みんな親に対して不満を持ち、それぞれ悩みを抱えていた。愚痴を語り合い、友情らしきものを知った。
親からの手紙は不幸の手紙と決めつけ、届くと汚いものかのように親指と人差し指でつまみ、「最悪」と口を曲げるのが流行っていた。
私はそこまでしなかったが、母上からの手紙は実際に嫌な気持ちにさせられた。便せんは父上への悪口で埋まっていたからだ。そしてある日届いた手紙は、まさに最悪だった。
愛人の子どもテオを、ドミヌティア家の次男として屋敷に迎え入れたという内容だった。私は十分に役目を果たしていると思っていたから、裏切られたようで母上の気持ちがわかってしまった。
返事を出せずにいると、テオが黒屍病になったという手紙が追って届いた。そして都合よく御者の娘が光魔法に目覚めた、何かがおかしいと綴られていた。
私は読んでいるだけで目まいを感じた。
ラウラが光魔法を使えるだなんて、あり得ない。何かの間違いではと何度も手紙を読み直した。
私は休暇の申請を出し、この目で事実を確かめに帰った。




