01-29
……美味しくない。食が進まない。
護は「山奥に海の幸はない」と言ったが、そんな事はなかった。
そもそも香川県は瀬戸内海に面しており、海産物に恵まれている。膳の上にはお頭付きの刺身盛りや、貝のつぼ焼きまで並んでいる。
うどんばかりかと思いきや畜産にも力を入れているらしく、牛ロースのステーキが良い匂いを奏でている。地元野菜の煮物や天ぷらもあり、どこから手をつけていいのかわからない。
ところがこれほどのご馳走を目の前にして、楠木飛鳥は全くそれを楽しめないでいた。
隣の席の親友は興奮気味にあれこれ勧めてくるが、その声すらも遠くに聞いている。
それもそのはず。彼女は、今目の前で繰り広げられているラブコメのような光景に目を奪われていた。
「護ちゃん、お酌してあげよっか?」
「いらん。俺はまだ未成年だ」
「あらぁ、大丈夫よぉ。こんな所誰も見てないわ。高校生になったんだから、大人みたいなものよ」
食事が始まってからというものの、護の隣にはずっと千代女が鎮座している。
しかも必要以上に距離を詰めて、事あるごとに体を密着させている。
護は彼女を邪険に扱う事はないものの、いつもの淡々とした様子だ。
私がああいう事やったら、絶対気持ち悪いとか言って押し退けるんだろうな……飛鳥は一瞬想像したが、何故そんな事を思ったのか我に返って頭を振った。
永守は呆れ顔で二人の様子を見ていて、物申す気配もない。
烏丸は積極的に千代女にアピールを試みているが、他の仲居を回されて撃沈している。
零の方は食事に夢中で、いつのまにか平らげてしまっていた。
「あー、食べた、食べた。美味しくってつい完食しちゃった。うどんって消化が早いのね……て、飛鳥、全然食べてないじゃない」
「ウ〜〜〜ン……食欲がない」
零は目を丸くして、飛鳥の額に手をあてた。
「ちょっと熱っぽいような感じもするけど……具合悪いなら、お風呂やめとく?」
「うぅン、せっかく温泉に来たんだし、一緒に行こうヨ零ちゃん」
飛鳥は箸を置き、零の手を取って立ち上がった。
「お、女子二人はお風呂ッスか〜。俺も後から行くッスよ」
「あんたは男湯でしょうが。というか烏丸君、隠し撮りなんかしたら、カメラぶっ壊すからね」
「へーい、すいませんっしたー」
烏丸はがっくりとうなだれていた。
「全く、油断も隙もないんだから。それにしても飛鳥、本当に大丈夫?」
「ダイジョブだよー。温泉入って寝たら治るヨー」
食事が楽しめなかった分、温泉を堪能しよう。
ここは源泉かけ流しの湯で、立派な露天風呂があると聞いている。
そう思って、女湯の暖簾をくぐった。
しかし……ド近眼が眼鏡をはずせば、湯けむりにつつまれた風景はますます見え難いものだった。
結局、零が伝えてくれる感想を頼りに想像を巡らせるしかなかった。
その後は抱えられるように部屋に戻り、床に入るなり意識を奪われた。
/*/
不意に、目が覚めた。
いつもの布団と違うという感覚が、まだ山深い温泉宿にいることを知らせた。
隣からは親友の寝息が定期的に聞こえる。
窓のカーテンの隙間から、細く白い光が覗いている。
ゆっくりと上半身を起こしたが、頭が重くて揺さぶられる。
どれくらい眠っていたかわからないが、体調は回復傾向にない。
おかしい。何かがおかしい。
真夏の熱帯夜でもないのに、空気がねっとりと重くまとわりついてくる。
とはいえ、こんな所で冷房をつけては零が風邪をひいてしまう。
飛鳥はなんとか気力を振り絞って、布団から立ち上がった。
部屋を出て、廊下を抜け、縁側に面した庭に出る。
月明かりが、ほんの少し冷気をあててくれる。
ここなら、室内よりは過ごしやすい。
ほっとした所為か、喉の渇きを覚えた。
こんな所に水が飲める場所があるとは思えないが、ふらふらと歩みを進めた。
そして、木陰の向こうから話し声が聞こえる事を完全に失念してしまった。
飛鳥はそのまま足元の草をかき分けて、開けた場所に出た。
庭池の傍ら……岩に腰掛けた男と、それにのしかかる女。
月明かりが降りるその光景は、美しく幻想的で夢を見ているようだ。
次の瞬間、鹿威しの音で覚醒した。
同時に、男の方がこちらに気づいた。
「楠木……?」
まぎれもなく、護の声だった。
途端に、彼に身を寄せる女が千代女である事も思い知らされた。
足元には着物が落ちており、彼女は薄い長襦袢だけをまとっている。
しかも腰紐まで解けており、白い肌が露わになっていた。
これは、直視してはいけないものだ。
咄嗟に判断した飛鳥は、目線を泳がせた。
「……アー、お邪魔だったみたいネー。失礼シマシター」
そのまま、草むらへと引き返していった。
「なんだ?あいつは」
護はぽそりと呟くと、目の前の女に向き直る。
直後、感じるは悪寒。つうーっと、背中に一筋の嫌な汗が流れる。
其処には見た事もない冷たい目をしていた千代女が立っていた。
獲物を狙う蛇のような眼光は、飛鳥の立ち去る背中を凝視している。
「……千代女姉さん、さっきの話の続きだが」
護の声に、千代女は我に返った。
「俺は、道の途中だ。だから、姉さんを受け入れられん」
その言葉に、千代女は哀しげに眉を寄せた。
「どうして……? 私が、護ちゃんの中に修造さんを見ているから?」
「確かに、それも理由にある。それ以前に、俺はクスノハの人間。今は任務が大事だ」
彼女の瞳に、再び冷たい光が宿る。
「あの子が、そんなに大事なの……?」
「いや、全然違う」
護は即答した。
任務だからこそ護衛をしているが、大事な人間だとか、ましてや特別な感情など持ち合わせていない。
「だったら、どうして……」
千代女は涙を浮かばせ、護の浴衣の胸元を握りしめた。
「千代女姉さん、泣かないでくれ。その涙は意味を成さない」
その胸に顔を埋めようとしたが、肩を掴んで避けられてしまった。
「これ以上の湯冷めは危険だ。姉さんも早く戻った方がいい」
護が去って行く気配が消えると、千代女は冷めた表情で呟いた。
「いやなこと……顔は修造さんにそっくりなのに、性格はあの女そっくり」
千代女は忌々しい過去を思い出していた。
それは、私から修造さんを奪った、まるで、あいつのような、女。
一日たりとも忘れた事はない―――否。正しくは“忘れないように毎晩思い続けた記憶”。
何度も何度も紡ぎ続け、まるで刀を幾重にも鍛造するかのような、濃密な呪い。
忘れるものか。絶対に、忘れてやるものか。
この苦しみも、修造さんとの大事な絆なのだから。
清も濁も何もかも、私から零れる事は許さない。
/*/
さて、焦ってあの場を去ったがどうしたものか。
飛鳥は立ち止まって、頭の中を整理した。
熱っぽさにうなされて、庭を徘徊してたら、護と千代女が一緒にいる所に鉢合わせた。
千代女は着物を脱ぎ捨てていて、ほとんど裸に近い状態で、護に覆い被さろうとしていた。
…………
ウーン、これはアレ。アレしかないんじゃナイかな。
いくら未経験の私でも、知ってマスよ。男女のアレ。
ふと、千代女が宿の玄関で言った言葉を思い出した。
「私が護ちゃんを獲っても文句は言わないのねぇ?」
あー……なるほどナルホド。千代女さんは嘉納くんの事が好きなんだ。
いやでも二人は親戚……あ、従姉弟だから法的には問題ないのか。
だったら、私に止める権利なんてないジャーン。
……しかし、なんだ、この、モヤモヤは。
「ていうか! 私べつに嘉納くんの事そういう風に思ってなんかないし!」
静まり返った庭園に自分の声が響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「……あれぇー? その声、飛鳥センパイっスかー?」
しかも反応があるとは思っていなかった為、心臓が飛び出た。
木々の間から現れたのは、頼りない後輩だった。
だのに、その顔を見た途端、涙がこぼれた。
「から、すま、くん……?」
まずい。まずいマズイ。
何故泣いてるのだ自分は。
おかげで烏丸が完全に虚をつかれた顔をしているではないか。
「ちょっ……どうしたんスか?センパイ」
烏丸が一歩迫ってきたのに合わせて、飛鳥は一歩引き下がった。
穴があったら入りたいが、身を隠す場所などない。
そうなると、言い訳の一つでも言わなければ間が持たなかった。
「……み、道に迷ったの!!」
涙でぐちゃぐちゃの顔で、むちゃくちゃな言葉を吐いた。
「……は? ここ、旅館の庭ッスよ。どうやって迷うんスか?」
「すりーでぃーダンジョンは苦手なの!」
なにをいっているのか、さっぱりわかりません。
飛鳥は耐え切れず、その場で膝を落として泣き崩れてしまった。
顔を見られたくない一心で両手で隠していると、烏丸が近づいてくる気配を感じた。
呆れてなじってくるだろうと身構えていると、指先がそっと頭頂部に触れ、優しく撫ぜてきた。
そうだ。このコはいつもおちゃらけてるけど、心底は優しいコなのだ。
「それにしても、嘉納センパイもひどいッスねー」
聞こえたのは、予想だにしない言葉だった。
「護衛とか言っておきながら、飛鳥センパイが泣いてるのに、ちっとも来ないじゃないッスか」
どこか冷たい空気を孕んだ声に、涙が止まった。
「センパイと結婚の約束をしておきながら、本当は千代女さんの方が好きなんスかね。食事の時もイチャイチャしてたし、今頃二人でしっぽりとやっちゃってたりして」
「……烏丸くん、なんの話してるの?」
飛鳥は俯いたまま尋ねた。
「なんの話って、飛鳥センパイと嘉納センパイの話っスよ。二人は許嫁なんでしょ?」
「……違うわよ。そんな約束してない。あいつも否定してたでしょ」
「えー、でもこんな偶然、そうそうあると思えないんスよねー」
烏丸に両肩を掴まれて、飛鳥は顔を上げてしまった。
「飛鳥先輩。本当は、嘉納先輩のこと好きなんじゃないですか?」
全身が、心臓に成り代わったように脈打った。
おかしい。
烏丸くんは、こんな冷たい目をするコじゃない。
人をからかうような事は言っても、こんな傷を抉るような言い方はしない。
何かが、おかしい。
「そんな、わけ……ないじゃ、ない。私が、あんな奴、好きなわけ……」
ああ、そうだ。喉が渇いてたんだ。
水を飲みたかったのに、飲んでないから。
言葉が、喉に張り付く。
烏丸から、歯軋りをする音が聞こえた。
その顔には、見覚えがあった。夕刻に見た時よりも、苛立ちを露わにしていた。
肩を掴まれた手にさらに力がこもり、そのまま地面に押し倒された。
「へぇ……それじゃ、オレがこんな事やっても怒らないんだ?」
オカ研の部室では絶対に見せないような、怖い顔をしている。
抵抗しようにも、ますます体は重くなり、声すら出なくなった。
熱い。あつい。アツイ。
体も喉も、頭の中まで沸騰しそうだ。
やがて、何かが自分の中で首をもたげるのを感じた。
楠木飛鳥は、何処かへ消え去ってしまった。




