約束
アスファルトを叩く雨音が、鼓膜の奥でずっと鳴り響いている。深夜十一時過ぎ。残業帰りの体は鉛のように重く、傘を持つ指先は冷え切っていた。いつもの帰り道、神社の境内の脇を通り抜けようとした時、ふと視界の端に赤い光が滲んだ。
屋台だった。祭りの時期でもないのに、古びた社の軒下で、ぽつりと一軒だけ明かりを灯している。吸い寄せられるように近づくと、店番をしているのは深い皺が刻まれた老婆だった。水槽はない。老婆の前には、雨漏りを受け止めるための大きなタライが置かれているだけだ。
「金魚すくい、ですか?」
私の問いに、老婆は顔も上げずに答えた。
「いいえ。『約束掬い』だよ」「約束?」「あんた、忘れたくないことがあるね」
老婆はようやく顔を上げ、濁った瞳で私を射抜いた。そして懐から、一本のポイを差し出した。縁日でよく見る、あの道具だ。だが、枠に貼られているのは和紙ではないらしい。濡れたような、透き通るような不思議な質感があった。
「これは『忘却紙』でできている。あんたの心の澱みに浸せば、沈んでいる約束が魚の形になって現れる」老婆は、低い声で続けた。「ただし、気をつけな。紙が破れたら、その約束は二度と果たされない。永遠に思い出せなくなることもある。……やるかい?」
狐につままれたような気分だった。だが、私は財布から小銭を取り出し、そのポイを受け取っていた。今の自分には、何か縋るものが必要な気がしていたからだ。
アパートに帰ると、私は洗面台に水を張った。老婆の言葉が本当なら、ここが私の「心の澱み」を映す鏡になるはずだ。静まった水面に、ポイをそっと浸す。波紋が広がり、水底が揺らいだ瞬間だった。
わらわらと、無数の小さな影が湧き出した。メダカのような、雑多な小魚たちだ。それらは水面近くをせわしなく泳ぎ回る。『今度、飲みに行きましょう』『また連絡します』『大丈夫、なんとかするよ』
魚たちの口から気泡のように漏れ出るのは、私が日々吐き出している空虚な言葉たちだった。その場しのぎの社交辞令、守る気のない小さな嘘。それらは簡単にポイですくえそうだったが、眺めているだけで胸焼けがした。私はポイを動かし、群がる小魚たちを散らした。もっと深いところに、何かがあるはずだ。私が本当に探しているものが。
ふと、台所のテーブルに目が止まった。朝、飲みかけのまま放置していったマグカップがある。冷え切ったブラックコーヒー。私はその黒い液体を、洗面台の水の中にゆっくりと流し込んだ。透明な水の中に、琥珀色の雲が広がっていく。コーヒーの苦い香りが、記憶の蓋をこじ開けるように鼻腔をくすぐった。
その時だ。琥珀色の濁りの中から、ゆらりと赤い影が現れた。金魚だ。それも、ひどく弱っている。鱗の艶は失われ、ヒレはボロボロで、今にも横たわってしまいそうだ。それは酸欠に苦しむように、パクパクと口を開閉させている。
――俺は、俺の人生を生きるんだ。
その声が、頭の中に直接響いた。それは、まだ何者でもなかった学生時代の私が、誰に言うでもなく誓った言葉だった。社会の歯車として摩耗し、妥協を重ねるうちに、心の最も深い場所へ沈めてしまった本音。これだ。これを掬わなければならない。
私は震える手で、狙いを定めた。他の小魚たちが邪魔をする。「そんなの無理だ」「現実を見ろ」と、メダカたちが邪魔をするようにポイに突っ込んでくる。私はそれらを無視し、慎重に、赤い金魚の下へポイを滑り込ませた。
重い。水を含んだ紙の上に、鉛の塊が乗ったような重みだった。金魚が暴れる。『今さら遅い』『お前には無理だ』金魚自身が、私を拒絶しているようだった。紙の中心が白く伸び、メリメリと微かな音を立てる。破れる。このままでは破れる。破れれば、私は完全にこの情熱を失う。ただ死んだように生きるだけの抜け殻になる。
額から脂汗が滲む。私は息を止めた。雑念を捨てろ。体裁も、恐怖も。手首のスナップだけで持ち上げるのではない。全身の、魂の重心を使って引き上げるんだ。
「……っ!」
私は叫びにも似た呼気を漏らし、一気に腕を振り上げた。限界を迎えた忘却紙が、悲鳴を上げて裂ける。だが、その寸前。赤い金魚は宙へと跳ね上がっていた。
弾けた水飛沫がスローモーションのように輝き、金魚は私の胸のあたりへ飛び込んでくると、パシャリと音を立てて弾けた。濡れた感触はない。代わりに、心臓の奥に、熱い火種が灯ったような感覚が広がった。
手の中には、紙の破れたポイの枠だけが残されていた。洗面台の水は、ただの薄まったコーヒー水に戻り、小魚たちの幻影も消え失せていた。
翌朝。雨は上がり、空は高く晴れ渡っていた。私はスーツに袖を通し、ネクタイを締める。鏡に映る顔は、昨日までと同じ疲れた中年男のそれだ。劇的に何かが変わったわけではない。けれど、駅へと向かう足取りは確かに違っていた。
ポケットの中には、破れたポイの枠が入っている。プラスチックの頼りない感触を指先で確かめる。胸の奥で、あの赤い金魚がゆっくりと尾ひれを動かした気がした。
「さて」
私は深く息を吸い込み、雑踏の中へと足を踏み出した。かつての約束を果たすための、長い一日の始まりだった。




