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第一三九話 池田恒興(下)

滝川のおっさんが一歩乗り出し口を動かさず器用に耳元で短く囁いた。


(殿、狙われております)


そうして滝川のおっさんは一歩前に出た。


「恒興!うしお殿を共に支えようと誓ったではないか!」


「その名で呼んでくれるな従兄殿。奇妙丸様は織田弾正忠家の、信長様の意思を継ぐ大切なお子ぞ」


困ったな…こういうヤバいのがまだ残ってるとは思わなかった。


「熱田が神兵まで寄越し裏切るなどと…理解出来ませなんだ」

「ですが結果を見れば千秋様は憎き今川に与し尾張を自由にしていなさる」

「今から考えればあの謎の潰走にも何か思惑あっての事だったのでしょう」


どうやらヘイトは俺に向いているようだが全くそんな事無いんだよなぁ…でも全力で戦って負けて殺されそうになって這う這うの体で逃げましたと言ったらそれはそれで格好悪すぎて辛い…そんな益体もない事を考えたがこの沈黙が肯定と取られないよう俺は話を振る。


「時に恒興殿に問う。桶狭間で織田方がどれほど勝利の見込みがあったとお思いか?」


「……」


恒興は口籠る。信長の為にその命をなげうつ気概があったとしても今川六万の大軍と織田は三千の正面衝突。冷静に考えれば無茶が過ぎる。そしてそれを命じられた本人はあの時その命令をどう考えたのだろうか?


「…それで勝利の芽がないからと今川に寝返りましたか」


「それは買いかぶり過ぎというもの、自分は何か思惑があったわけでも潰走を見せかけたのではなく…単に今川の兵に負けて恥ずかしげもなく命惜しさに逃げただけです」


自らの恥を晒す事になるがあの場から逃げて生き延びたのはこの男も同じだ。


「今川に臣従したのは桶狭間で負けた後、熱田神宮の名は今川にも必要とされましたが自分は取るに足らぬ小物と捨て置かれました」


今川への臣従の決定は親父様主導で速やかに成されたが、当時の俺はいっぱいいっぱいで逃げる事しか出来なかった。


「自分はただ敗走したのが早かっただけ…ですが自分は信長様の勝利を微塵も疑っておりませんでした」


これに恒興は驚きそして苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。多勢に無勢の状況を鑑みれば負けは必定、気持ちの上で「勝つぞ」と叫ぶ事はあっても実際に勝てると言い切り妄信するというのは浅慮を越えて愚鈍だろう。


「お、愚かな…」


だが言葉とは裏腹に恒興は戸惑いながらも俺の言葉の真意を計りかね、何かを期待しているようだった。


「桶狭間の戦いは織田が勝利した戦いでした」


「……今川六万に対し織田は三千ですぞ」

「そもそも勝てる戦いでは、無かった」


俺の愚かな返答に対して恒興は観念したように常識的な答えを口にする。『信長の桶狭間での勝利を疑っていた』などと考えても口に出すのは憚られる考えを吐露してしまった。だが俺は今までこの時代で見聞きした話から本来あるべき桶狭間の戦いを紡ぐ。


「桶狭間は生憎の豪雨、視界の悪さと轟く雷鳴から当初は陣を張った義元も何が起こったのか分からず報告は錯綜し兵同士の喧嘩とも思われていた」


俺は恒興の纏まらない考えに付けこみ現実いまと異なる歴史を語る。傍で聞いている滝川のおっさんは心配そうに、しかし言葉を遮ることなく傾聴していた。


「悲鳴も雄叫びもかき消され雷に光る視界が敵味方全ての者の恐怖心を煽る中、少数の兵で一気呵成と敵本陣へと信長は切り込んだ」


恒興は眉間に皺を寄せ訝しむも俺の話に耳を傾けている。頭の中では信長に従軍したあの戦場を思い出しているかのようだった。


「義元の本陣の天幕に突貫した一番槍は服部小平太、だが義元にその槍の突きを惜しくも躱され、だが間髪入れず横から毛利が切りかかった」


「もういい」


何故織田信長が死んだ?何故今川義元が生きている?幾度となく反芻した俺の知っている歴史との齟齬。色々な人にあの時の桶狭間の真実を求めた。だが結局納得出来る答えは得られなかった。

あの戦で信長が死ぬ代わりに不当に生き延びた不届者でもいるのだろうか?


「そして遂に義元の首級を挙げた信長軍は今川に勝利し…天下に広くその勇名を轟かせる事になる」


「何故千秋様は…何故そのような世迷い言を仰られるか」


恒興のその声は震えていた。俺はこの時代に来て誰にも理解されない正しい桶狭間の戦いを語り聞かせたつもりだったが…彼のような忠臣でもそれを『世迷い言』と切り捨て、信長の勝利を信じる事は出来なかったようだ。


「信長様は…今川に負け…身罷られた…!千秋様が仰られるような奇跡は起こらなかった!」


恒興は拳を畳に打ち付けた。


「憎き今川は今なお強大、仇討ちの為にも信長様が残した魂、織田家再興の為にも鉄砲五百丁は絶対に手放せませぬ!」


そう言うや否や二、四、六…八人の刀を構えた男達が横から後ろから部屋に押し入ってきた。


「殿!某の後ろに!」


勢いよく押し入ってきた男共だったが刀を構え硬直している。どうやら滝川のおっさんの顔を見て困惑しているようだった。皆視線をさ迷わせ恒興の顔色を窺ったりしている。

ダメ人間の鑑みたいな男だが妙に人望あるし顔が広いんだよな…


「よい、お通ししろ」


そして恒興からは意外な言葉が掛けられた。


「千秋様には信長様の御霊を祀る社を創建して頂いた事…心より感謝しております」

「ですが、次はありませぬ」


決別の言葉を投げられ、俺達は追手がいないことを確認しながら走った。そうして俺と滝川のおっさんは中一色村から無事に逃げおおせた。

だがハッキリ言って鉄砲四百丁…?だか五百丁?を扱える兵を持っているというだけで熱田ウチじゃどうにもならん。

そして考える。まさか「鉄砲は時すでに遅く全て不穏分子テロリスト共の手に渡ってました」などと義元に報告するワケにもいかない。それこそ処されかねない。俺は内心頭を抱えた。

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