第32話:喫茶店の看板メニュー
随分と遅くなりました。
お待たせして申し訳ありません。
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◇
「この店の看板メニューですか?」
御新規さんの問いに私は迷わず答えた。
「最近、季節限定のセットを始めました。フレーバーティーと旬のフルーツを使ったお菓子のセットなんです」
そして、私はそっと一言添える。
「店長が演奏する季節の音楽と、解説も付いてきますよ」
その言葉に、御新規さんは興味が惹かれたようにみえたのだった。
◇
それは三月も終わりに近づく日のことだった。
暖かな日差しがやんわりと差す。
鎌倉の街並みは、開花した桜並木に囲まれていた。
ふんわりと甘酸っぱい香りが、風に乗って漂ってくる。
優しい風が体を撫でて、去っていく。
薄紅色の花びらが、ふわりと舞い散った。
それを見て、私はもう春が来たのだなぁと深々と思うのだった。
こうなると、春のフレーバーティーもたくさん売られる時期だ。
苺やさくらんぼのお菓子に、薫るフレーバーティー。
うちの喫茶店でも、季節感あるメニューを出さないか、昴さんと仕入れ先の洋菓子店に相談してみよう。
そう私は思いつつ、名曲喫茶【ベガ】へ足を踏み入れた。
「店長、こんにちは。相談があるんですけど」
「あっ。雪菜さん。こんにちは」
店長が返事をする前に、一人の少年が私に挨拶をした。
昴さんの教え子でヴァイオリニストの本田陸くんだった。
「あれ、陸くん。来てたんだ」
「はい。部活も休みだったんで遊びに来ちゃいました」
笑顔で言う陸くん。
いやぁ、陸くんって好青年だよね。
昴さんの嫌な部分まで受け継がれなくて良かったよ。
「それで雪菜君。一体、どうしたんだ?」
一方の昴さんは、相変わらず愛想もない調子だった。
陸くんの爪の垢でも煎じて飲んで欲しい。
「この店でも、季節のメニューに挑戦しませんか?」
気を取り直して、私は思いつきを提案する。
「ふむ? というと?」
「せっかく春になったんですから、季節のフルーツを使ったお菓子とフレーバーティーのセットとか出したら、常連さんも喜ぶんじゃないかと思って……」
私はおずおずと言った。
音楽以外だと、面倒臭がりな昴さんのことだ。
一言で拒否される可能性もあった。
「いいですね! 春のセットメニュー! ここのお店って代わり映えしないから、つまんなかったんですよね」
意外な援軍がいた。
でも、そっかぁ。
つまらないと思われてたんだね。
なぜ、喫茶店で期間限定メニューが多い理由が分かった気がした。
「しかしだな。季節のメニューと言われても、俺にはさっぱりわからないぞ」
「そこは江波ちゃんと、春香さんのご夫婦に相談して決めます。私はフレーバーティーについて考えるんで……」
私はここぞとばかりに推していく。
これなら、面倒臭がりな昴さんも賛成してくれるだろう。
「あっ。だったら武蔵野先生が、春に纏わる曲を演奏するとかどうですか? お菓子と紅茶と音楽のセットです!」
あっ、なんかこのお店らしくていいかも。
なんて私は思う。
後は昴さん次第だけれども。
「ふむぅ。春に纏わる音楽か……」
おっ、好感触だ。
ナイス、陸くん。
音楽に絡めたから、昴さんは前向きに検討をしているようだった。
「どうですか? 店長」
「まぁ、よかろう。話がまとまったら俺に報告してくれ」
よっし!
言質は得た!
こうして、名曲喫茶【ベガ】に初めての季節限定メニューが生まれることになった。
「なんだか、季節の話をしていたら、僕も春の曲を演奏したくなってきたなぁ」
すっかり春の気分に浸ったらしい陸くんが、そう漏らした。
彼は桜の花びらが舞い散る景色を、窓越しに眺めている。
「春、春か。ベートーヴェンの《スプリング・ソナタ》、ランゲの《花の歌》。いや、シューマンの交響曲やメンデルスゾーンの……」
昴さんは春の曲をすっかり考え込んでいた。
ぶつぶつと呪文を唱えている。
乗り気になってくれたようで、良かった。
「あのぅ、武蔵野先生。せっかくだから、今一緒に演奏しません? 春の曲」
「ほう。確かに演奏することでなにかを掴めるかもしれんな。凝り固まった頭に良いかもしれん」
「そうだなぁ。じゃあ、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲《四季》なんてどうです?」
「それならば、雪菜君も知っているだろうな。《春》の第一楽章で良いか?」
「ええ。ちょっと弾きたくなっただけなんで、短くていいです!」
二人は嬉しそうに話し合いを始めた。
私もなんだか、嬉しくなる。
思いつきだったけれども、こうやって楽しそうに話を膨らませているんだから。
言っておいて良かったな。
「ヴァイオリン、借りますね。伴奏は適当にお願いします」
「うむ。ヴィヴァルディか。雪菜君、日本とは違う春を味わえるぞ。楽しみにするといい」
日本と違う春?
私は昴さんの言葉に疑問を覚える。
しかし、口には出さないことにした。
音楽を聴けば、もしかしたらわかるかもしれない。
その謎は、聴く時のお楽しみにしておこう。
……そんなことを考えていると、二人の準備が済んだようだった。
息を合わせて、二人は演奏を始めた。
それは明るい日差しのような音色から始まった。
まばゆい光の下で、小鳥たちが春の訪れを祝う。
ちゅんちゅんと。
賑やかに笑いながら。
ほんのりと暖かい風が、街を駆け抜けていった。
冬の凍りついていた泉が、溶けて流れていく。
人々はその様子を見て、活気付いて喜ぶ。
だが、とたんに雰囲気が変わった。
あれ? これは雷の音?
雷鳴が轟き、雨が降り注ぐ。
街の様子は一変し、落ち着きを取り戻していた。
嵐が去ると、再び小鳥たちが合唱を始めたのだった。
……確かに、日本とは違う春の様子が描かれていた。
日本の春はもっと穏やかな印象だった。
「これ、本当に春なんですか?」
私は少し困惑して尋ねた。
「えへへ。驚きました? これでも春なんです!」
「でも、雷とか鳴っていたような……」
「うむ、その通りだ。雪菜君、どこの春かわかるかな?」
「わからないです。どこの春なんですか?」
「芸術と水の都、ヴェネチアだよ」
ヴェネチア?
ヴェネチアって、イタリアの綺麗な街のことだよね。
行ったことはないけど、テレビや写真とかで見たことはある。
「ヴェネチアの春ってこんな感じなんですか?」
「そうだな。ヴェネチアも日本と同じく四季の移り変わりが豊かな国だ。だが、日本の春とは違い、ヴェネチアの春は、雨の日が多いのだよ」
「だから雷の音がしていたんですね」
「そうなんです。小鳥が鳴いていたり、雨が降ったり……。とっても楽しい曲ですよね」
陸くんが嬉しそうに言った。
「実はな。今でこそ有名な曲だが、この曲は長い間、忘れ去られていたのだよ」
「え? そうなんですか!」
昴さんの一言に驚いたのは、陸くんだった。
「以前の音楽は、使い捨てであったことは既に話したな。ヴィヴァルディもその例に漏れず、再評価されたのは20世紀に入ってからなのだ」
「それまで、演奏されなかったってことですか」
「そうなのだよ。こんな名曲も完全に歴史の彼方へ追いやられていたのだ。だが、この曲は当時の時代背景を色濃く残している名曲だった」
「時代背景ってなんですか?」
食いつくように、陸くんが尋ねる。
本当にスポンジみたいに、色んなことを吸収する子だなぁ。
「普通に聴けば、春の様子を描いた作品だ。だが、そもそもそのような音楽自体が当時ではありえないことなのだ」
「えっ? でも季節を表現することなんて芸術だと、よくあることじゃないんですか?」
私も思わず聞いてしまう。
「当時の音楽はな、宗教や神と密接に関係したものや、英雄に纏わるものが多かった。……すなわち、風景を描写するということ自体が新しい試みなのだよ」
「あー。なるほど! 確かに歴史の教科書とか見ても、昔って宗教画とか多いですもんね!」
陸くんが思い出すように言った。
「この曲は、自然を描写した詞に基づいて作られている。それ自体が、神の力から脱却を試みた啓蒙的思想を反映した作品であったと言うことが出来るのだ」
風景を描くこと自体が、時代を象徴しているのか。
なんだか難しい話になったけれども……。
音楽って、時代の流れを感じさせるものでもあるんだなぁ。
「僕、演奏していたけれどもそんなこと、ちっとも知りませんでした」
「そうか……。音楽と歴史は繋がっている。その時に生きた人々の心を反映させているのだよ。それを今後は肝に命じなさい」
昴さんは言い聞かせるように、そう諭した。
そうだ! 季節のセットに昴さんの楽曲解説も付けるっていうのはどうだろう?
話したがり屋の昴さんにとって、丁度いいかもしれない。
今からお茶の勉強をするより、よっぽど役に立つと思う!
「店長? 一つ相談なんですけど」
「ん? どうしたのかね」
「季節の曲に合わせて、解説を付けてくれませんか?」
「あ! それいいです! 武蔵野先生の話って面白いですから」
「俺は別に構わんが。いいのかね?」
「もちろん、長くなりすぎず、季節に関係した解説にしてくださいね?」
一応、念を押しておく。
あまり専門的な話になると、お客さんも退屈になってしまうかもしれないから。
「ふむ? 子どもに教えるように話せば良いのか?」
「まぁ、そんなところですね」
名前はどうしようかしら?
『季節のティーセット ~旬の音楽を添えて~』
……みたいな。
いいじゃない。
お洒落な喫茶店っぽくて。
私は、二人が音楽について話し合う中で、一人想像を膨らませていくのだった。
――それはある春の日のこと。
知らない街の春に触れた日の出来事。
喫茶店に新たなメニューが生まれた日のことだった。
第32話fin
難産というか、何度も書き直しをしたせいで大変遅くなりました。




