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第31話:退屈しのぎ

 なにもしない時間も、私は好きだったりします♪


 それではお気軽にお読みください♪




     ◇



「お客さんのいない時間ですか?」

 御新規さんの質問に私は少しだけ考え込む。

「紅茶を飲んだり、店長の演奏を聴いたりして時間を潰してますね」

 御新規さんの忍び笑いが聞こえて、私は恥ずかしくなったのだった。



     ◇



 三月に入り、ようやく寒さも和らぐ季節になった。


 春の霞みがかかった空から、時折、暖かな日差しが顔を覗かせる。


 ひな祭りも過ぎて、鎌倉の街並みは、卒業シーズン用の着物レンタルなどの幟が目立ち始めていた。


 小町通りを歩く人々の姿は、若い男女も多い。


 別れと出会いの季節が、刻々と迫っていることを思わせる。


 だが、通りに植えられた桜の木は、まだその時期ではないとばかりに寂しげな枝葉の姿を見せていた。


 私は、微かに匂い立つ空気を胸いっぱいに吸い込み、名曲喫茶【ベガ】へと歩を進めていた。


 ちりんちりん、と。

 鈴を鳴らして、店へ入る。


「店長、こんにちは」


「……」


 返事はない。


 あれ? ピアノの側にもいないし、どこへ行ったんだろう。


 と思ったら、バックヤードにいた。


 彼は真剣な表情で、何かを見つめていた。


 それは、サーバーとドリッパーだった。


 あー。なるほど。


 私が用意した喫茶店修行の課題に取り組んでいたのね。


 課題とは、店長がお客さんにコーヒーを出すための条件として用意したものだった。


 今日はドリップコーヒーに取り組んでいるようだった。


 あちゃー。

 豆の量多くない?


 ミルが豆を挽く音が、店内に長々と響く。


 お次はお湯だね。

 待って、待って!

 沸騰しすぎ! 温度高いって!


 えっ!?

 きちんと蒸らしてないよ!

 なんで一気にお湯いれるの!


 少しだけお湯を入れてからって教えたよね!


 コーヒーが、とたんに湯気を上げる。


 あっ!

 最後まで入れちゃだめってあれだけ言ったのに!


 口を挟みたくて仕方ない。


 だが、ぐっと我慢。


 (すばる)さんが終えるまで、私は一言も挟まずに待った。


「お疲れ様です、店長」


 地獄のような光景が一段落したところで、私はもう一度声をかけた。


「あぁ。雪菜(ゆきな)君、来ていたのか。今日は良い出来映えだと思うぞ」


 自信たっぷりに言う店長。


 どの口が言うんだ!


 と、ツッコミたくなるのを堪えて……。


 私は差し出されたコーヒーを飲む。


「百点満点中、十五点です。課題に取り組んだことで十点。豆の美味しさで五点ですね」


 私は笑顔で言い放った。


 とたんに、昴さんの表情が曇る。


「なにがいけなかったのだろうか?」


「豆の量、お湯の温度、蒸らし方、入れ方。全てがダメでしたね、はい」


「むっ。見ていたのか! なぜ言ってくれない!」


「店長が気付かなかったのが悪いんです。それに、いい加減覚えてくださいねー」


 私は強ばる表情をなんとか笑みにして、一つ一つ教え込んでいく。


 まぁ、また出来ないだろうけど。


 出来の悪い教え子を持つ先生の気持ちが、少しわかった気がする。


「今日もお客さんいないんですか?」


「見ての通りだ。最近の常連は、雪菜君がいる時間を把握しているのかもしれん……」


 少々落ち込み気味で、昴さんは呟く。


 まあね。

 あの味のコーヒーを出されるんだったら逃げたくなる気持ちもわかる。


「じゃあ、もう一回やっておきます?」


「いや、ごめんだな。面倒くさい」


 そのいい加減な性格のせいで上達しない、といつになれば理解するのだろう?


 音楽に向ける情熱を少しでも、こちらに割いてくれればいいのにね。


「となると、お客さんが来るまで暇ですね。掃除でもしようかしら」


「来るかもわからんがな」


 といっても、器具はこの前掃除したばっかりだし。


 音楽関係は下手に手を出すと怒られるんだよね。


 困った。本格的にやることがない。


 店に置かれた時計が、ちくたくちくたく音を鳴らす。


 それに、店長の五線譜へ音符を書き込む音が混じる。


 そして、それを黙って聞く私。


 ……。

 ……………。

 …………………。


「店長。暇なんでなんかやってください」


 我慢できなくなった私は、最終手段に出た。


 この際、音楽の高説でもいいから。暇をまぎらわせて欲しかった。


「と言われてもな。俺は宴会芸に秀でている訳ではない」


「新年会シーズンなんて、とっくに過ぎてます。……じゃあ、季節の曲でも演奏してもらえます?」


「良かろう。しかし、桜には少し早いな。かといって、《三月の雨》などは違うだろう……」


 ぶつぶつと考え事を始める昴さん。


 私はその表情を見ながら、思った。


 うーん。


 遠目に見れば、ただのイケメンなのにね。


 これがあるから、変人なんだよなぁ。


 気長に待とうかな、と思ったところで……。


 昴さんがピアノに座った。


「決まりましたか?」


「あぁ。君でも知っている曲をやろう」


 私でも知っている曲?


 なんだろう?


 ポップスなんかは、昴さんが弾くとも思えないんだけど。


 昴さんの呼吸音が聞こえるほどの静寂の後、音楽は奏でられた。






 それは歌曲だった。


 あっ、これ。私も確かに知ってる。


 小学校の頃、歌ったことがある。


 日本の歌だ。

 名前はなんだっけ?


 菜の花ばたけ? いや違うな。


 朗々と歌われる詞。

 美しい高音が伸びやかに延びていく。


 私の疑問は次第に膨れ上がっていく。


 春の淡い風が吹き通る。


 夕日に色づく空に、月がぼんやりと浮かび上がった。


 村の灯りが照らされ、森の木々の緑を眺める。


 田んぼを抜けて、蛙の声、鐘の音を聞く。


 そして空を見れば、美しい月が霞がかった空に、変わらず浮かんでいた。


 そこで、私は思い出した。


 そうだ。《朧月夜》だ!

 つっかえていた疑問が解決されて、私はすっきりとした気分になった。







「確かに、私も知っている曲でした! 《朧月夜》ですね」


「ふむ、曲名も知っていたか。その通り。作詞高野辰之、岡野貞一作曲の《朧月夜》だ」


「小学校の頃、歌ったんで覚えてました!」


「文部科学省唱歌に選ばれているからな。君でも知っているだろうと思ったのだよ」


「日本の昔の光景が思い浮かびました」


「そうだな。見渡す限りの菜の花畠、村の灯り、森の木々。日本の田舎の光景に浮かぶ月が見事に表されている」


 不思議なものだった。


 私はそんな光景を見たこともないのに、哀愁を覚えていた。


 私の中にある日本の血が、なにかを感じ取ったのかも知れなかった。


「いい曲ですね」


 そういった心を呼び覚ましてくれる曲は、名曲だと私は思った。


「うむ。この曲は日本の光景を想起させる。しかし、中国の五行説を隠しているという解釈もあることを知っているかな?」


「中国の五行説、ですか? なんですかそれ?」


「万物は五つの元素、すなわち火木土水金の属性で出来ているという説だ」


「あー。聞いたことはあるかもしれません。それがこの曲となんの関係があるんですか?」


「それは二番の歌詞に隠されている。火影、森、田んぼ、蛙、鐘という歌詞が元素に当たると考えられるのだよ」


「なるほど。……でも、だからなんなんですか?」


「歌詞の最後には『それらが霞んで見える程に美しい月夜』とある。五行説で考えると『万物全てよりも美しい月夜だ』と捉えることが出来るのだ」


 へぇー。強調されているのか。


 もしこの説を考えて作詞されているなら、色々と計算して作っているんだな。


 そんなことを思った。


 そこで……。

 私は小さな発見をする。


「……夕日と月も歌詞に出てきますよね?」


「あぁ、出てくるが。どうかしたのか?」


「そうすると、月火水木金土日で一週間になりません?」


「ほう? 確かにそうだな。となると、あらゆる日にちも含まれているのか。面白いな」


 私の言葉に、昴さんは深く感嘆していた。


 私は少しばかり気恥ずかしくなって付け加えた。


「作詞者がどこまで考えていたのかはわからないですけどね」


「うむ。だが、面白い発見だった」


 すると……。


 ちりんちりん、と。

 鈴が鳴った。


「あっ、お客さんが来たみたいですよ?」


 私は慌てて、向かい入れる準備をする。


 どうやら丁度いい暇潰しになったみたいだった。


「綺麗な声が聴こえたから、思わず立ち寄ってしまったわ。雪菜ちゃんもいたのね?」


 常連客のおばあさん、鈴木(すずき)さんが顔を見せた。


「あっはい! 今、メニューお出ししますね」


「あら、昴さんだけで無くて良かったわ。丁度喉が乾いていたのよ」


 私はメニュー表を取りに、バックヤードへ駆けていった。


「むぅ。俺の扱いが最近雑になっていないか? 鈴木さん」


「いえいえ。音楽担当として、きちんと扱ってますよ」


 おほほ、と微笑む鈴木さんを見て、項垂れる昴さんがいた。



 ――それはある春が近づく日のこと。

 なにもない日常の出来事。

 春の霞が晴れるような時間を過ごした日のことだった。



第31話fin


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