第10話(Re):天然毒舌の常連さん
とても寒い日が続きますね。
みなさん、体調にお気をつけて。
それでは。
お気軽にお読みください♪
◇
「どんなお客さんが来るか、ですか?」
御新規さんの質問に、私は即答した。
「常連さんが多いですね」
うんうん、と首を縦に振る御新規さん。
「……例えば、天然毒舌のお婆さんとかいますよ」
そう言うと、御新規さんはくくく、と笑い声をあげたのだった。
◇
今日は風の強い日だった。
風のせいか休日の鎌倉にしては、人が少なめだ。
秋の色づいた街路樹が強い風に枝を揺らしている。
道に溜まった落ち葉も、風が吹けば舞い上がっていた。
人々はそんな道を背景に、上着や帽子を押さえながら、足早に歩いていた。
私も少し厚手のカーディガンを羽織り、髪を押さえながら、名曲喫茶【ベガ】へ足早に向かっていた。
店前に辿り着けば、看板も倒れており、私はそれを慌てて立て直してからお店に入った。
「すごい風ですね、店長。看板も倒れてましたよ」
「そうか。また倒れなければいいが」
さして興味なさげに答える昴さん。
本日の彼はピアノ椅子に座り、店内のもう一人の人物に体を向けていた。
「あっ、鈴木さん。こんにちは」
「こんにちは、雪菜ちゃん。大丈夫だったかしら? 風に飛ばされなかった?」
「飛ばされはしなかったですけど。髪の毛がばさーってなりましたね」
「あらあら。雪菜ちゃんは長いから大変ねぇ」
今日もおっとりとした様子で、鈴木さんは語りかけてくれた。
「鈴木さん、何か暖かいものでも飲みますか? 店長のだと胃が消化不良起こしちゃいますもんね」
「ぬぅ。少しはマシになったと思うのだが」
「いえいえ。今日も相変わらずでしたよ。雪菜ちゃん、ホットココア頼めるかしら」
「あっ、分かりました」
鈴木さんの声に撃沈する店長。
こう見えて天然な毒舌家なんだよなぁ、鈴木さん。
いい気味だ。
いつも馬鹿にする昴さんの不幸を私は喜んだ。
「こう風が強いと、お店から出たくもなくなるわねぇ」
「そうですね。鎌倉駅の前なんて落ち葉が凄いことになってましたよ」
「あら。来た時よりも強くなっているのかしら。困ったわねぇ」
窓から外の風景を見ながら、何ともない雑談に、私と鈴木さんは興じていた。
「昴ちゃん。雪菜ちゃんも来たことだし、今日も一曲頼めるかしら」
ホットココアをお出ししたところで、鈴木さんは昴さんに言った。
どうやら、鈴木さんは私と会うために、店で待っていてくれたらしい。
こういう常連さんのお気遣いに嬉しくなる私がいた。
「構わないが。何の曲をご所望かな」
「そうね。秋風も吹いていることですし、ショパンのエチュードから頼めるかしら?」
「ふむ、となるとあのエチュードだな」
私は二人の会話にはついていけないけれども、どこかで彼の演奏を楽しみにしていた。
我ながら、ずいぶん変わったものだと思う。
ついこの間まで、クラシックなんて聴いたら、ぐっすり眠っていたからね。
私は昴さんがピアノと真剣に向き合うところを見ながら思った。
そして、彼の儀式が始まる。
手をゆっくりと鍵盤に乗せてから、彼は息を吸った。
とても物悲しい単音のメロディーが奏でられる。
その旋律に音たちがまた加わり、私の耳に届けられた。
ゆっくりした寂しい曲なのかな?
そう思って、耳を澄ましていた私に、突如として荒々しい音の奔流が雪崩れ込んできた。
まるで吹きすさぶ嵐のように、駆け降りていく音。
その間も、低い音で物悲しいメロディーは響き続けていた。
風が、とても強い風が吹き続けている。
昴さんの手は、まるで風に吹かれて葉が舞い落ちていくように見えた。
風は時に明るさを帯ながらも、一貫して強く吹き続けた。
そしてあっという間に駆け抜け、最後にはあの物悲しいメロディーだけが残されていた。
まさに秋風を感じさせる曲だった。
「ありがとう、昴ちゃん。とても難しい曲なのに、軽々弾きこなしていて。やっぱり、凄いわねぇ」
「いえいえ。確かに難しい曲だろう。だが彼の曲は、必ず指が次の音に向かうように出来ているんですよ。ピアノの詩人は、やはり素晴らしい」
「本当に強い風が鍵盤に吹き荒れているような曲ですね。何て曲なんですか?」
もうお決まりになった私の問いに、彼もすぐに答えた。
「フレデリック・ショパンの練習曲集の十一番、通称《木枯らし》だよ」
「《木枯らし》ですか! ぴったりな名前ですね」
「うむ。ゆっくりとした主題の提示から、突如として襲いかかってくる右手の六連符によるパッセージは、木枯らしの風が荒れ狂うようだ」
「物悲しい旋律も、とーても味わい深いわ。何かを思い出しているようにも聴こえるのよ」
「でも、練習曲って名前なのに、すごくちゃんとした曲なんですね」
私は疑問に思って聞いた。
何だか練習って聞くと、例えばスポーツだったら、ひたすら走ったり、筋トレしたりというイメージだったんだけど。
音楽の世界では違うのかな?
「いかにも。これはショパンの練習曲の特徴なのだ。それまでの機械的で無機質な練習曲と違い、芸術的な側面も合わせ持っている。これは彼の画期的な業績の一つなのだよ」
「当時の貴婦人や学生には大好評だったらしいわ。それもそうよね。練習曲を勉強したら、お披露目まで出来るんですもの。一石二鳥でしょう?」
うふふ、と鈴木さんが言った。
確かに。
筋トレとかは、お披露目するわけにはいかないもんね。
「彼はピアノの指導者としても優れていた。弟子を取れば、きちんと面倒を見ている。練習は長過ぎてはいけない。自分を信じて、心の音を奏でるように、など単に技術的なことだけでなく、メンタル面もケアしていたのだ」
「なんだか昴さんみたいですね」
面倒見が良いところがあることは知っていたので、思わず口に出していた。
言ってしまってから、後悔する。
だって、恥ずかしいもん。
「あらあら。雪菜ちゃんも彼のことが分かってきたみたいね」
「むぅ。天才作曲家と一緒にされることは光栄だが、それはショパンに失礼だろう」
昴さんは少し嬉しそうな、それでいて困った表情をしていた。
それから、鈴木さんが帰った後も、私たちはどこかぎこちなく、顔を合わせずに過ごしたのだった。
――それはある秋の日のこと。
ちょっとだけ気まずい雰囲気になった日の出来事。
私にとって、吹き荒れる木枯らしを感じる時間だった。
第10話fin
この曲の旋律、何とも心に響くんですよね。
この曲を聞くと、目が覚めるような思いになります。




