第30話:動き出す悪意
フィードとアルがトリアを訪れて既に数日が経とうとしていた。アルの烙印を消すために来たフィードたちだったが、烙印を解除するために必要なクローディアの暇が中々取れず、それぞれにできることをしてクローディアの時間が空くのを待っていた。変わったことといえば、今まで自分から行動を起こすことの少なかったアルが魔術を教えて欲しいと願ったことくらいで、それ以外はトリアは平穏な日々が過ぎていた。
今日もまた、そんな何もない日々を過ごすため、フィードに見送られてクラリスは魔術の勉学に励もうと気合を入れて、学院の門を通って校舎へと向かう。
もう何年も通っているこの魔術学院。クラリスの家で唯一の働き手の兄によってこの学院に通うことができている。もちろん、クラリス自身も勉学を怠ることなく努力を続けて、特待生としてある程度の学費を免除してもらっている。だが、そうして学費を免除してもらえる理由の多くが自分の功績ではなく兄の評価によるものが大きいということもまたクラリスは自覚していた。
(家では頼りないような兄さんだけど、稀代の天才の一人なんて言われてるもんね)
学院が排出した卒業生の中に在学中からその才能を一際輝かせ、すばらしい功績を立てたものがこの数年の間に二人いる。それも同期に。
一人は言うまでもなく、クラリスの兄であるクローディア。こちらは魔術を扱う才に長け、自身の才能を存分に用いて通常では一度に一つしか発動できない魔術を同時に併用できるということを実証した。ただし、これは自身の才があってできるものであるため、万人に対しての普及がなると言われると否である。しかし、それでもなお魔術の新しい可能性を生み出したとしてその名声は魔術に精通するものなら名を知らないものが少ない。
そして、もう一人の天才はかつてクローディアの彼女でもあり、クラリスとも幼馴染であった女性、シア。こちらはクローディアと違い、魔術の才能がなく、自身で魔術を使用することはかなわかったが、彼女が提案する魔術の構築論やその応用法に既定の魔術概念は覆され、魔術を用いない天才としてクローディアと肩を並べるほどの名声を得ていた。
そんな二人との関わりが深いとなれば、学院側がクラリスに賭ける期待は多大なものだ。彼らに続く成果を出してくれるようならば学費の免除など痛くもないのだろう。だが、当のクラリスはというと確かに優秀ではあるもののその才は努力によって補われているところが多く、天才と呼ぶよりは秀才と呼ぶべきで部類である。多大な功績を残した兄やシアに比べるとどうしても見劣りしてしまう。
それを分かっているクラリスは自身の肩にかかる期待のプレッシャーに押しつぶされないようにするので今までは精一杯だった。ここ最近の兄に対する反発はシアの件だけではなく、このことも理由の一つにあった。しかし、この数日間で彼女にある変化が訪れていた。
クローディアのことを知っていても昔と変わらず素の自分を見て接してくれるフィードと、クラリスの過去を知らず、自身を頼ってくれるアル。そんな二人と関わっているうちに少しずつその背にあった重石が軽くなっていくのをクラリスは感じた。
校舎に入り、今日の講義がある講義室へと入る。室内には既に多くの生徒が着席しており、空いている席をクラリスが探していると、部屋の奥にいる眼鏡をかけた少女がクラリスの元へと来た。
「おはよう、クラリス。今日はいつもより遅いんだね」
「おはよう、ジーナ。そっちこそ今日は遅刻ギリギリじゃないなんて珍しいね」
「まあ、いつもギリギリって言うのもどうかと思って……」
「ふ~ん。どういう心境の変化なのかな。三日持ったらまぐれじゃないって思ってあげるよ」
「言ったね。じゃあ、三日持ったら帰りにお菓子を奢ってもらうからね」
そんな風に楽しく二人が雑談を交わしていると、少し離れた位置にいる数名の男子生徒が話す噂話がクラリスの耳に聞こえてきた。
「おい、聞いたか? また出たらしいぞ犠牲者。これで四人目だぞ、一体魔術師団はどうしてるんだよ」
「殺されたのは昨晩らしいな。前回と同じく痕跡が一切ないみたいだ」
「俺の知り合いで現場を見たやつがいたんだけど、酷いもんだったらしいぜ。首と胴体が綺麗に分かれてたみたいだ。辺りは血まみれ、見た瞬間に吐いたって言ってた」
「犠牲者はまた研究員だったんだろ? どうも他国がこの国の優秀な研究員を狙った暗殺って噂も流れてるみたいだぜ」
「そうなのか? だとするとクローディア先生とか危ないんじゃないか? あの人なんてこの国の象徴的研究者の一人だし」
そこまで聞いてクラリスは自分の背に悪寒が走るのを感じた。今までは犠牲者が出ていても、それが身近に感じなかったからどうとも思っていなかった事件だが、こうも立て続けに事件が起こり、魔術研究員が殺されているとなると、兄であるクローディアの身も危なくないとは言えないのだ。
「クラリス? おーい、どうしたの?」
目の前にいるジーナに声をかけられてクラリスはハッとする。ボーっとしているクラリスをジーナは不思議そうに眺めていた。
「ううん。なんでもないよ、それよりもうすぐ講義始まるから席に着かないと」
己の胸中を悟られないように、別の話題を出して誤魔化すクラリス。しばらくして学院にある大鐘が鳴り響き、講義の始まりを告げる。
しばらくすると、クラリスにとって今日最初の講義を担当する講師である壮年の男性、ジョゼが講義室の扉を開けて中へと入ってきた。年老いて衰えを見せ始める身体をピンと張り、見ようによっては尊大な態度で教卓に着くジョゼ。教本を開き、出席を確認することもなく早速講義を始めようとする。
「ねえねえ、クラリス。クローディアさんって、あのジョゼの弟子だったってホント?」
教本で顔を隠し、小さな声でクラリスに尋ねるジーナ。
「ジーナ、ジョゼ“先生”でしょ? 駄目だよ、講師を呼び捨てにしちゃ」
「だって、あの偏屈爺堅物だし必要最低限の授業しかしないじゃない。生徒とも最低限しか接しようとしないしさ。昔は天才だとか呼ばれていたらしいけど、今となってはただのうっとおしい爺なだけよ。それで、どうなの? 本当に弟子だったの?」
仮にも今講義を受けている身であるジーナが講師の悪口を言うことにクラリスは呆れてため息をつく。しかし、自分の持つ印象と他人の持つ印象が違うということは当然だとクラリスは思っているので、せめて悪口を言わないよう注意することしかできなかった。それから、ジーナから尋ねられた質問に対して返答する。
「兄さんがジョゼ先生の弟子だったって言うことなら本当だよ。元々学院生だったときにシアさんと兄さんが一緒にジョゼ先生の講義を取っていて、二人のほうから色々と魔術についての教えを請うてたみたい。それで、ジョゼ先生も二人の熱意に応じるように熱心に教えてたみたいだよ」
「へ~。そんなことがあるものなのね。今あたしたちの前にいる爺と同一人物だとは到底思えないわ」
「う~ん。でもジーナの言うことも一理あるかも。兄さんたちに講義をしていたころのジョゼ先生は今に比べてもっと明るかったみたいだし、もう少し物腰が柔らかかったみたいだよ。どうして今みたいになっちゃったのかは分からないけれど……」
「それってやっぱりあれじゃない? 自分が教えていた生徒が自分以上の功績を出しちゃったから嫉妬してるんじゃないの?」
「そ、そんなことはないと……」
「だってさ、最近あの爺さんとクローディアさんが一緒にいるところ見た? 見てないでしょ? 噂じゃ二人の仲はかなり悪いらしいよ。どうも学院を卒業する際に爺が自分の研究グループにクローディアさんを誘ったけど断られたことが原因みたい」
「そういえば、兄さんジョゼ先生の研究グループに誘われたって話を前にしてたっけ。確かシアさんはそっちに行ったみたいだけれど」
「でしょ? だからさ……」
話の途中でジーナが突然押し黙った。どうしたのだろうと思っていると、教卓越しにクラリスたちをじっと見つめるジョゼの姿があった。ジーナは先ほどよりも更に教本に顔を隠し、
「マズイマズイ。絶対無駄口叩いてたの気づかれた。どうしよう、あたしレポートまともに出してないから今期の評価最低にされるよ」
と、ガタガタと身を震わせて嘆いていた。そんな友人の姿に自業自得だと内心で呟き、無駄口をこれ以上叩かないように講義に集中する。未だにジョゼはクラリスの方をじっと見つめていた。思わず視線を合わせてしまうクラリス。離れているはずなのに、その瞳を見つめていると引き込まれてしまいそうな感覚に陥る。暗く、深い何かがクラリスの意識を引っ張っていく。
「クラリス君。この講義が終わったら話があるから私の研究室に来たまえ」
そうジョゼが言うと、室内にいる生徒の視線が一斉にクラリスの元へと集まる。その殆どが同情の眼差しであった。それをクラリスは感じ、ぼんやりとしていた意識がはっきりとする。隣では話を始めたジーナが申し訳なさそうにしている。
「はぁ、しょうがないな」
ため息と共にそう呟き、クラリスは講義の続きを聞くのだった。
「単刀直入に言おう。クラリス君、わたしの研究を手伝う気はないかね」
講義後、学院にあるジョゼの研究室を訪れたクラリスは開口一番にそう伝えられる。
「それってつまり、研究グループへの所属の件ですか?」
「まあ、そういうことになる。どうかな? もちろん、君に意思があればだが」
そう問いかけられてクラリスは戸惑う。てっきり先ほどの講義での雑談について叱咤されると思っていたため、この展開はあまりにも予想外だったからだ。
そもそも、ジョゼの言う研究の手伝いというのは学院を卒業後、彼の持つ研究グループに所属し、そこでより高い魔術に関する研究を続けるというものだ。もちろん、それは優秀な学院生であれば学院に所属しているときから研究グループに誘いがかけられる。クローディアやシアも当時はそのようにしてジョゼの研究グループに所属していた。
「その、一つ聞いてもよろしいですか?」
「うむ、なんだね?」
「私を研究へ誘っていただいたのは非常にありがたいですし、光栄に思います。しかし、先生が私を兄のような天才だと思っているようでしたら話は変わります。私には兄ほど魔術を扱う才も、シアさんのように魔術に関する深い論文を書けるわけでもありません。自分で言うのもなんですが、他の生徒よりもほんの少し勉学ができるという点しか特筆すべき物はありません。正直今の段階で研究へと誘っていただける理由が思い当たらないのですが……」
自分で言うようにクラリスは兄であるクローディアに比べれば見劣りする。既に学院を卒業した生徒であれば、まだ学習途中である自分よりも優秀な生徒は幾らでもいるはずなのだ。それなのに、自分を誘うという理由が分からず、クラリスは困っていた。
そんな彼女を見て、ジョゼはあごを擦りながら答える。
「ふむ、つまりこういうことかな? 自分には何の才能もないと。君を見込んでこの提案をしたわたしは間違っていると?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
「わたしはね、クラリス君。何も君のお兄さんの件があるから君を誘っているわけではないのだよ」
「――えっ?」
「確かにわたしは君のお兄さん、クローディアを弟子として研究グループに所属させ、彼が今に至るまでの過程をずっと見続けてきた。当時から彼は多大な才能をその身に秘めていたが、何も最初からその名が響くほどの人間だったわけではないのだよ。彼の才能と、ひたむきに魔術に費やした時間が今の彼を作ったんだ。それこそ、君と同じくらいの年のころは彼だって人よりちょっと魔術が得意なだけの少年に過ぎなかったよ。
将来その人間がどう代わるかなんて分からないものさ。それこそ、当人でもね。わたしは君に彼のようになってほしいとは言わない。だが、君自身が望んで成果を挙げたいと思えばその可能性は幾らでもあるんだよ? 今わたしが提案しているのはその可能性の一つだと思ってくれればいい」
クラリスはいつの間にか熱心に語るジョゼの話に耳を傾けていた。兄の成長、そしてその功績を挙げていくさまを身近で見続けた人物が、兄とは関係なしに自分を必要としている。その事実に胸が弾んだ。しかし、そう簡単に決断ができるほどクラリスは単純ではなかった。
「……すみません。その申し出はとてもありがたいのですが、やはり突然のことなので考える時間がほしいです。簡単に決めるにはかなり重要なお話ですので」
そう返すクラリスに、ジョゼは特に気分を害した様子もなく答える。
「ああ、そうだね。じっくりと考えてくれるといいよ。期限とかは特に考えていないからね。気持ちが決まったら返事をくれるといい。わたしとしてはいい返事を期待しているよ」
その後、出されたお茶とお菓子を貰い、クラリスはジョゼの研究室を後にした。自分が研究グループに誘ってもらえたことや、色眼鏡なしで自分を評価してもらえたことが嬉しかったのか、その足取りは軽かった。家に帰ったらフィードやアル、それから兄であるクローディアに今回の件について報告しよう。そう思い、クラリスは次の講義のある教室へと向かっていく。
そんな彼女の背を見つめる一つの影があった。ギュッと手を握り締め、鋭い視線でクラリスが今出てきた研究室を睨みつける。すると、その視線に答えるかのように研究室からジョゼが現れる。自分を睨みつける影に気がつき、そちらへと向かっていく。
「やあ、久しぶりだねクローディア。君がわたしの研究室に来るなんて珍しい」
おどけたように問いかけるジョゼに、鋭い視線を崩すことなくクローディアは尋ねる。
「どういうつもりですか、先生。あなたがクラリスに用があるとは思えないのですが」
「おや? わたしが優秀な生徒に唾をつけるのは行けないのかね?」
「失礼ですが僕はクラリスが優秀であるとは思えません。確かにあの子は勉学を頑張っていますがよくて秀才止まりです。先生が唾をつける理由がありません」
「おやおや、君は身内に厳しいね。まあ、確かに彼女は天才ではないかもしれないが、それでも十分優秀だ。最近“何故か”わたしの研究グループに所属している研究員が殺されていてね。このままだと誰もわたしの研究グループからいなくなってしまうのではないかと心配してるんだよ。君はわたしの研究グループへ所属する誘いを断ったんだ。君の代わりはいるとは思えないが、いなくなった研究員の補充はいくらいたとしても足りないくらいだよ」
そう答えるジョゼにクラリスはギュッと唇を強くかみ締める。
「それは先生が密かに進められている“実験”とやらが関係しているのではないのですか? あなたの研究グループの研究員が殺されるているのにも何か思い当たる節があるのではないのですか?」
「さあ、なんのことやら?」
クローディアの詰問にさえどこ吹く風という態度で受け流すジョゼ。これ以上相手をするのは無駄だと悟ったのか、クローディアはその場を後にしようとする。
「先生、最近トリアの街は物騒です。夜は一人で出歩かないほうがいいと思いますよ」
「それを言うなら君もだよ、クローディア。生徒たちの噂じゃ他国からの暗殺者がこの国の力を削ぐために研究員を殺しているという。君なんてこの国の象徴の一人なんだ、気をつけておいて損はない」
「ご忠告ありがとうございます。夜道には気をつけておきます。……それから最後に一つだけ」
「なんだね?」
「もしあなたがクラリスに手を出すようなら、僕は全力でそれを阻止する。それでもなお諦めないなら、僕はお前を殺す」
そう言い残し、立ち去るクローディア。その背が見えなくなるまでその場に立ち尽くしたジョゼもまた、いなくなったクローディアに対して呟く。
「さて、どこから情報が漏れたのやら。早いうちに手を打っておいても問題はないだろう。クローディア、君は非常に優秀な生徒だったのに、こんな決断を下すことになってしまって、わたしはとても残念だよ」
そう言ってどこかへと向けてジョゼは歩き出す。目には見えない悪意が静かに動き出そうとしていた。




