第22話:背中合わせの共闘
泣きすぎて水分を失ったアルのために水を取りに行こうと、一階へと降りたフィードだったが、一階には既に先客がいた。
「あれ? お前リーネの所の……」
見ると暗闇の中、立ちすくむリーネの部下、エリオードの姿があった。しかし、その身体には打撲や剣による切り傷もあり、フィードはすぐに何かがあったのだと悟る。
「おい、一体……」
何があったと続けようとしたが、その言葉は抜刀し、フィードに襲いかかってきたエリオードによって途切れさせられた。
「おい、お前! なんなんだいきなり!?」
とっさに剣を避けたフィードだが、エリオードが自分を襲う理由が分からず混乱していた。そんなフィードの考えなど知った事ではないと言わんばかりにエリオードは何度もフィードに剣を振り続ける。障害物のある室内、なにより自分の他に人のいるこの場所で戦うわけにいかないと判断したフィードは屋外へと出て人気のない場所へと移動した。
エリオードもまた、外へ出たフィードに導かれるようにその背を追いかけていった。走り続け、人気の少ない路地にまで来たフィードはようやくエリオードに対峙する。
「いきなり斬りつけてきやがって! どういうつもりだ、リーネはこの事を知ってるのか?」
まさかリオーネが部下を使って自分に恨みを晴らそうとするとは思えないフィードはエリオードに問いかける。しかし、それにエリオードは怒声で答えた。
「うるさい、うるさい、うるさい! リーネ、リーネ? 気軽にあの人の名を呼ぶな! あの人の傍にいるのはお前じゃなくて、僕なんだ!
いや、そんなことはどうでもいいんだ。今の僕はエンリカ様のために……。そう、あの人のために僕はお前を殺す!」
そう言って再び襲いかかるエリオード。彼の攻撃をかわすフィードだが、相手と違い武器のない状態だった。
(くそ、急に襲ってきやがったから手元に剣がない。迂闊に飛び込むわけにも行かないし、剣を避けながら隙を見つけるしかないか)
上段から下段の切り上げ、そして切り上げた勢いを使っての回し蹴りと、コンビネーションのあるエリオードの連撃を必死に避けるフィード。気を抜いてしまえば命に関わる攻撃だが、やがてその連撃の隙を見つけた。
鎧を着ているせいか、回し蹴りの後、剣を構えるまでにタイムラグがある。その隙をついて強烈な前蹴りを繰り出し、エリオードを吹き飛ばし、互いの間に距離を作る。
(————今だっ!)
フィードは作り出した時間で詠唱を開始する。
「速さを。効率を求め、より単純、より俊敏に――インプロスピード――」
身体強化の術によってフィードの速度が上昇する。勢い良く駆けて来るエリオードにフィードは両手を構え、
「襲ってきたのはそっちなんだ。痛い思いをしても恨むなよ」
と、口にしてエリオードが剣を振り下ろした瞬間、ギリギリまで剣を引きつけた後それを避け、がら空きの鳩尾に拳を勢い良く突く。後ろに倒れそうになるエリオードに強化魔術で早さの上がったフィードは背後へと回り、中段へ蹴りを入れ、最後に足を絡めとり体勢を崩したエリオードの手から剣を奪い取るとそれを倒れたエリオードへと突きつける。
「さて、俺を襲った理由を話してもらおうか」
しかし、エリオードから返事はない。不思議に思ったフィードが剣を突きつけたままエリオードの顔を覗き込むと、エリオードは白目を剥いて気絶していた。
「しまった。武器がない状態だったから加減ができなかったか。これじゃあ、理由を聞き出す事もできやしない」
自分でやった事とはいえ、話を聞き出す事ができなくなってしまい、困ってしまったフィードだったが、周りに現れた新しい気配に気づき、安心する。
「なるほど、他のやつに話を聞けってことか」
漂う殺気の数々。奪い取った剣を構え、辺りを警戒する。そして、路地裏の一角から、一つの人影が姿を現した。その姿を見てフィードは思わず硬直する。
「リ、リーネ?」
暗闇から現れたのはまだ乾ききっていない血で服を染め、虚ろな瞳でフィードを見つめるリオーネだった。片手に剣を持ち、もう片方の手をだらりと力なく降ろしている。みると、所々に擦り傷や打撲の跡が見受けられ、つい先程まで何者かと交戦していたことが分かる。
「おい、一体何が起こってるんだ? お前の部下はいきなり俺を襲いだすし、お前のところで何かあったのか?」
フィードの問いかけにリオーネは答えず、ただその場に立ちすくむ。
「……リーネ?」
返事のないリオーネを心配し、フィードが近づこうとした時、先程のエリオードと同じようにリオーネがフィードに襲いかかった。
「————ちくしょう! お前もかよ!」
ぶつかり合う剣と剣。かつての戦いの焼き直しのようにフィードはリオーネと戦う事になった。だが、フィード自身はリオーネと戦いたくないと思っているため、力の乗っていないリオーネの剣を弾くと、距離を取って対話を続けた。
「どうしたんだよ、リーネ! なんで急にこんなこと……」
突然の事に戸惑うフィード。そんな彼にリオーネは答える。
「あなたが、あなたが私を裏切るから! 私のことを置いて行くから!」
悲痛な叫びは天に響き、振り下ろされる剣はでたらめなものだった。虚ろな瞳からは一滴だけ涙が流れ出ている。それを見て、フィードはリオーネが戦いを望んでいないのだと悟る。それならば何故こうまでフィードを襲うのか、そう思ったとき、まっさきにリオーネや先程フィードを襲ったエリオードが誰かに操られているのだという結論に至った。
(フィクフォメーションで相手の魔術を誤魔化そうにも、向こうの魔術がどんなものか分からないんじゃ対応のしようがない。それに、下手に解呪魔術を使ってリーネに反動が来たらマズい。これじゃあ、手の出しようがないぞ)
応戦しながら、この事態を打破しようと必死に考えを巡らすフィード。そんなとき、ふいにリオーネの動きが止まった。
「……勝手なことをっ。私は、私の意識は私自身のものだ! お前なんかに、好きにさせてたまるか……」
虚ろだった瞳に僅かに光が戻り、必死に何者かの魔術に対抗しているリオーネ。しかし、どこかから聞こえて来る敵の声によってそれは阻まれる。
「しぶといわね。まだ抵抗するなんて。いいわ、そんなにいたぶられるのが大好きなら、何度でもその意識を私が支配してあげる」
声の在処を探ろうと、フィードが周りを見回すが、何故か誰の姿も見当たらない。
(どういうことだ……。敵は認識障害が出るような魔術を使っているってことか? 気配はするのに姿が見えない)
結論を出す間も与えず、少女の声が辺りに響く。
「瞳に映るのは偽りの景色。男を騙し、女を誘惑する。黒く塗りつぶされた世界を支配するのは我が意識。
その手足を我に捧げ、全ての行動に疑問を抱かず是とせよ――メズマライズ――」
魔術の詠唱が聞こえたと思ったら、先程理性を取り戻しかけていたリオーネの瞳が再び虚ろに戻っていた。今度は先程までとは違い、手負いながらも鋭い攻撃をフィードに繰り出していく。
「リーネ! ……チィッ! 完全に操られてやがる」
迫り来るリオーネの攻撃を避けながら、フィードは必死に対抗策を取る。
(少なくとも、リーネを操っている奴は俺たちの戦いを見る事のできる位置にはいるってことか。それに、声色からして相手は女。魔術は操作か幻惑系。しかもかなりの高位呪文だ。
相手の意識を完全に奪って操るくらいだ。相当にやっかいな魔術だろう。だが、対抗策がないわけじゃない。それにヒントは既に得た!)
フィードは両手に持っていた剣を片手に持ち替え、振り下ろしてきたリーネの剣筋に己の剣を重ね合わせ、斬撃を受け流した。そして、空いた片手でリオーネの顔を覆い、詠唱をする。
「正しきもの、その存在を認めない。偽りをもって事をなし、偽りをもって騙し、救おう。
この世界はかくあるべし。虚構こそが真実。真実こそが虚構。偽りの生成、その実を我に与えたまえ。
――フィクフォメーション――」
掌から溢れ出る魔力。そして、形作られた魔術は光となってリオーネの身体へと入りこんだ。そのまま意識を失い、剣を地面に落として、フィードに倒れ込むリオーネ。フィードは咄嗟に身体で受け止め、リオーネを抱きしめる。
「へえ、意外とやるのね」
安心したのも束の間、リオーネと同じように暗闇から和装の少女が姿を現した。
「お前がリーネやエリオードを操っていた張本人か。よくもこんなふざけたことを……」
怒りをあらわにするフィードだが、少女は気にした様子もなく答える。
「ふざけたこと? あたしはこの人たちの望んだ事をさせたまでよ。それなのにどうして怒られなければいけないの?」
「望んだ事だと?」
「ええ、そう。普段表面に出ない、心の底にある本音を引き出してあげただけなのに。あたしがした事なんてそれと、ほんの少しこの人たちを唆しただけよ。
まあ、言う事聞かないようなお馬鹿さんは意識を奪わせてもらったけどね」
「なにが、ほんの少しだ! 相手の意識を奪うのがいいことだとでも?」
「ええ、このあたしの言う事を聞かないやつなんて、無理矢理言う事を聞かせてやればいいのよ。この、十二支徒エンリカに逆らおうなんて無謀な相手は特に、ね。そうでしょ、愚かな反逆者の『復讐鬼』さん?」
少女、エンリカの名乗りにフィードは視線を鋭くし、それまでとは雰囲気を変える。冷たく、暗い感情にフィードは支配される。
「あら? 手傷を負ってるのにやる気満々ね。まあ、いいわ。あたしは手を出すつもりはないから、この子たちと遊んでいてちょうだい」
パチンとエンリカが指を鳴らすと、周りの路地からエンリカによって操られた三人の騎士が現れた。敵の増援にフィードは思わず舌打ちする。
(ちくしょう、ただでさえ厄介な状況が余計に酷くなりやがった。リーネの奴はまだ意識が戻らないし、このままじゃ一方的に嬲り殺しにされるだけだ)
フィードはリオーネを抱えながら、先程負傷した左横腹を押さえる。リオーネに魔術を掛ける際、片手で斬撃を受け流したため、勢いが最後まで乗らず、最後の最後で押し込まれた剣先がフィードの横腹に突き刺さったのだ。
そこまで深く突き刺さらなかったものの、切られた痛みと流れ出る血に意識を取られてしまう。こんな手負いでましてやリオーネを抱えた状態ではまともに戦えるはずもない。逃げの一手を考えるフィードだったが、周りを騎士に囲まれ、退路を塞がれる。
(くそっ! どうにかやり過ごして隙を見つけて逃げるしかない)
十二支徒相手に逃げるというのはフィードにとって屈辱にも勝る、自分自身が掲げる意思に対する裏切りである。本来なら逃げずにこの場で命を懸けても十二支徒を仕留めたいという思いがある。
しかし、宿でフィードを待っているアルや、イオ、グリン。そして下町のレオードやクルス。なにより今フィードの腕にある温もりが命を捨てる事を躊躇わせた。
(俺は、いつの間にか、こんなに弱くなったのか?)
軽々と命を投げ捨てる事ができなくなったことに驚き、戸惑う。だが、同時にそれは昔の自分とは違うということをフィードに実感させた。
「どうにかするしかないってことか。帰りを待ってくれている奴らのためにも」
リオーネを強く抱きしめ、片手で剣を構えるフィード。そんな彼に向かって騎士たちは一斉に襲いかかった。
身体が揺れている。暗闇の中でリオーネはまずそう感じた。次に意識が捕らえたのは、甲高く鳴り響く金属音。聞き慣れた剣と剣がぶつかり合う音がすぐ近くから聞こえる。温かく、力強い何かに自分の身体が覆われているという事に気づく。それに気がついて、閉じていた目をリオーネは開けた。
開いた目がまず捕らえたのは、頬から血の混じった汗を流すフィードの顔。切迫しているのか、その表情に余裕はなく、リオーネが意識を取り戻した事にも気がついていない。次にリオーネが気づいたのは、自分がフィードに抱きしめられているという事。どうしてそうなったのか、訳が分からず、過去の記憶を思い返そうとするが、頭痛がして回想することを邪魔した。痛む頭を抑えようと手を動かしたとき、ぬるっとした生暖かいものがリオーネの手に触れた。
それは、フィードの横腹から流れる血だった。そして、それを見たリオーネは、自分が一体何をしていたのかを思い出した。
(そうだ、私はエンリカとの戦いの最中に隙を突かれて、そのまま魔術によって操られてた。それから、この人と戦って……。この傷は、私が付けた傷だ)
フィードに傷を負わせたことを後悔するリオーネ。そんなとき、ようやくリオーネの意識が戻った事に気がついたのか、フィードが相手の斬撃を避けながら声をかける。
「リーネ、目が覚めたのか!」
「あの、わたし、わたし……」
自分のした事を謝ろうとするリオーネにフィードは余裕がない声色で答える。
「話は後にしろ! 俺を責めるのも恨むのもいい。でも今だけは力を貸してくれ。俺一人じゃこいつらの相手はできない。
お前の力が必要なんだ、リーネ!」
その言葉だけでリオーネは十分だった。今まで胸の奥に溜まっていた黒く、醜い感情の塊。それらが全て消え失せ、晴れやかな気持ちになっていくのを感じる。
たとえ一時でも、フィードが自分の力を必要とし、頼ってくれた。その事実にリオーネの胸の内は歓喜で溢れかえる。
「了解です、フィード。私の力はあなたのために!」
フィードの腕から離れ、リオーネはフィードの背後に周り、背中合わせになる。
「背中、任せるぞ。リーネ」
「はい。もうこれ以上あなたに手出しはさせません」
フィードは剣を構え、リオーネは拳を構える。そんな二人に容赦なく襲いかかる三人の騎士。騎士たちの攻撃に対処するべく、二人は同時に詠唱を紡ぎだす。
「大気を漂う数多の液体。その欠片を集め、固め、作り上げた鋭い刃は敵を突き刺す。
その冷気で我に仇なす者を罰せよ――フロストエッジ――」
騎士たちがまさにフィードとリオーネに剣を振り下ろそうとした瞬間、リオーネの魔術が発動し、三人の騎士の手足を凍らせた。そして近距離まで近づき、リオーネによって隙だらけにさせられた三人の騎士に、フィードが追い打ちを掛ける。
「血よ、身体から流れ出た我が一部よ、その身を凝固し、敵を貫け!――ブラッディーニードル――」
切り刻まれた身体から流れた血が騎士に向かって鋭く伸びる。まだ凍っていない手足の部分に血の槍は突き刺さり、一瞬にして騎士たちを行動不能にする。
一年近く離れていたとは思えないほどのコンビネーションを見せ、二人は一瞬で敵を撃退する。
「やるな、リーネ」
「まだまだ、あなたには及びませんよ、フィード」
そんな二人を見て、エンリカは歯ぎしりをする。
「ハァ? 調子に乗らないでよ。何笑顔浮かべて和解してんだよ! ふざけんな! 殺し合え、憎み合えよ!」
地団駄を踏み、怒りをぶつけるエンリカ。そんな彼女にリオーネは答える。
「私は、まだフィードを完全に許したわけではないです。後でもう一度話をしてもらうつもりです。でも、今はこの人が私の力を必要として頼ってくれている。なら、私はその期待に応えるだけ。
そして、あなたはこれから私とフィードが話をするのに邪魔なんです。とっとと消えてもらえますか?」
リオーネの遠慮の欠片もない言葉にエンリケの怒りが頂点に達した。
「ふざ、けんな。ついさっきあたしに負けた格下が吠えてんなよ。あんたみたいな雑魚相手にするのに駒なんていらねえ。身の程知らずにはあたしが直接敗北を刻んでやるよ!」
鉄扇を広げ、フィードとリーネに向かって駆け出すエンリカ。迫り来る敵に対抗すべく、フィードはリオーネに声をかける。
「あいつの相手は俺がする。サポートまかせるぞ、リーネ」
「はい! わかりました」
剣を振りかざしたフィードに広げた鉄扇で防ぎ、斬撃を受け流し、そのまま空いた隙を突くエンリカ。負傷した脇腹に即座に畳んだ鉄扇を叩き付けようとするエンリカに、リオーネが対処する。
「させません!」
エンリカの死角から蹴りを入れるリオーネ。エンリカは咄嗟に腕を出し、リオーネの蹴りを防ぐ。エンリカは受けた蹴りの勢いに身を任せ、衝撃を受け流してその場から距離を取った。
「雑魚が! 群れやがって気持ち悪いんだよ! 大人しく操られておけばいいのに……」
「その雑魚相手に追いつめられてるのはどこのどいつだ?」
「うるさいわね。手負いの雑魚は黙ってな!」
再びフィードたちとの距離を詰め、先程より、より早く連続の攻撃を繰り出すエンリカ。
「気をつけてください! 人を操るだけと思っていましたが、腕の方も立ちます」
フィードを庇うようにして攻撃を防ぐリオーネ。そんな彼女にエンリカは怒濤の連撃を叩き込む。右上段蹴りから振り上げた足の勢いを利用して鉄扇を横腹に叩き込む。鉄扇を素手で防ぐリオーネだが、負傷した左腕は力が入らず、鈍い音が響く。
「――――ッぁ」
苦悶の表情を浮かべるリオーネにエンリカは満足したように薄ら笑いを浮かべ、攻撃を続ける。今度は鉄扇を開き、鋭い刃と化したそれを垂れ下がるリオーネの左腕に向けて振り抜く。しかし、それはフィードの剣によって阻まれた。
「大丈夫か、リーネ!?」
「ええ、大丈夫です。片腕が動かなくなるくらいどうってことありません」
負傷した腕を庇いながら、リーネは先程より戦意を高める。そんなリオーネにフィードが耳打ちする。
「いいか、リーネ。今度は俺が隙を作る。だから、お前はその隙を突いてあいつを切れ」
「でも、私には武器がありません」
「なければ作るだけだ。お前の一番得意な魔術でな」
それだけ伝えてフィードは隙を作るためにエンリカに向かって行った。その顔は既に青くなり始め、長期戦は持たないとリオーネに理解させる。
(武器を作る? 私の一番得意な魔術……そうか!)
フィードの言葉の意味するところを理解したリオーネは隙を作ると言ったフィードを信用し、少し遅れてエンリカの元へと駆けた。
「なにこそこそと話し合ってるのよ! 今更何か企んでも無駄ってことがわからないの!? 大人しく死になさいよ!」
エンリカの猛攻をフィードは防ぎながら、背後から迫って来るリオーネの気配を感じていた。そして、そのリオーネのためにフィードは一瞬の隙を作り出す。
「大気を漂う数多の液体。その欠片を集め、我に与えたまえ――アクア――」
詠唱と共に、いくつもの水球がフィードの周りに漂い始める。それを一斉にエンリカに向けて解き放つ。解き放たれた水球は勢いよくエンリカに向かうが、超人的な身体能力を活かしたエンリカにそれらは全て避けられてしまい、地面を濡らすだけになってしまう。
「ハッ! この程度であたしを殺ろうだなんて甘いんだよ!」
「いいや、俺の役割はあくまでもお前の隙を作る事だけさ」
フィードがそう告げると、地面を濡らした水がエンリカの足下に集まり、鞭のようにして足に絡み付く。
「チッ! 離せこの屑! こんなもので……」
広げた鉄扇で水の鞭を切り離そうとするが、形のない水は切られてもすぐにその姿を元のものへと戻す。
「くそっ! くそっ!」
逃げる事のできないエンリカに迫るリオーネ。その手には何も持っていないはずの彼女は、それでも剣を握りしめる時と同じ形を作り、詠唱する。
「大気を漂う数多の液体。その欠片を集め、固め、作り上げた鋭い刃は敵を突き刺す。
その冷気で我に仇なす者を罰せよ――フロストエッジ――」
そして作り出されるは氷でできた長剣。柄を力一杯握りしめ、身動きの取れないエンリカに向けて最大級の力で振り下ろす。
「はあああああああぁぁぁ!」
エンリカは広げた鉄扇でリオーネの氷の剣を防いだ。ぶつかり合う鉄と氷。その結末は氷の剣先が折れた事によって終わりを告げた。
「はっ、はははっ。あははははははは。終わりだ、あんたたちはこれでもう終わりだ!」
勝利を確信したエンリカが甲高い声で叫ぶ。見ればいつの間にかフィードの魔術が解けて、その足は自由になっていた。フィード自身も顔を真っ青に染めている。とうとう限界が来たのだ。リオーネもこれ以上動く余裕がなく、体力の限界が来ていた。勝利に酔いしれるエンリカだったが、ふいにその笑い声が止まった。
何事か、とフィードとリオーネがエンリカを見ると、その顔に一筋の赤い線が浮かんでいた
「あれ? これ、なに? どうして、あたしの顔からこんな、赤い……」
自分の顔に手を当てて、何が起こっているのかを確認するエンリカ。そして、顔に当てた掌は真っ赤に、彼女自身の血によって染まっていた。
「なによこれええええええぇぇぇ。血!? あたし、あたしの顔に傷が……。どうしよう、どうしよう、どうしよう!? ああ、傷が残ったら取り返しがつかない!」
そう言ってこの場を離れようとするエンリカ。それを睨む事しかできないフィードの代わりにリオーネが問いかける。
「逃げるのか、エンリカ!」
その問いかけに一瞬だけエンリカの足が止まり、憎悪に満ちた瞳で二人を睨みつけ、答える。
「逃げる……? ふざけんじゃないわよ。見逃してやってんのよ、あんたたち二人とも。いい? あたしの顔に傷をつけた事、絶対に許さないわ。あんたたちは今日、この時よりあたしの『敵』だ!
この傷の代価を払わせるために、ボロぞうきんのようにして、その後ぐちゃぐちゃの肉塊にしてやる!
それまで少しでも生きていられる事に感謝して、あたしへの恐怖で怯えながら残りの人生を過ごしていなさい!」
そう二人に宣言し、エンリカはその姿を消した。残されたフィードとリオーネはただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
「終わり……ましたね」
「ああ……終わったな」
力なく地面に腰を降ろして、張りつめていた緊張を解く二人。そして、互いにボロボロの姿を見て、どちらともなく笑い出す。
「お前、ズタボロじゃないかリーネ」
「そういうあなたこそ。そんなにボロボロになった姿を見るのは久しぶりです」
ひとしきり笑った後、静寂が訪れる。
「あの……」
「いや、わかってる。話をするんだろ? ひとまずそれは後日にしてもらってもいいか? 気絶してる騎士たちのこともあるし、事後処理だとかもあるだろうからな。
ただ、今一番マズいのは、俺の意識がもう途切れそうなんだってことだ」
フィードの言葉にリオーネは驚き、焦った。
「えっ! ええっ! ちょっと、待ってください。今人を呼んできます。気絶するのはいいですけど、絶対に死なないでくださいよ! 勝手に死んだら泣きますからね!」
「わかった……。だから、早く人を呼んでくれ……」
今にも意識を失いそうなフィードに、あたふたとしながらも、リオーネは助けを求めるために他の騎士たちが就寝している宿へ向けて走り出した。




