先日、妹が逝きまして
「……嫌い。もう来ないで」
妹の最期の言葉が、睨む目が、病室に漂う得体の知れないニオイが、僕の脳内に蘇る。
少しだけ開けたカーテンの隙間から見える、夏の空。
積乱雲? 入道雲? どっちでもいい。
あの日、大量の雨を降らせた梅雨前線はどこに行った。
仏壇にあげた線香の煙が揺れていた。
まだ妹の機嫌は悪いらしい。本当にそうかは知らないけれど。
怠い体を起こして、仏間になったリビングのカーテンを閉めて、また仏壇の前に戻る。
大学にも行かず、僕はずっと夏実の仏壇を眺めている。真ん中に収められている白木の位牌は、まだ夏実が現世にいる証しだ。
僕は、夏実を看取れなかった。だから、僕は毎日此処に座って夏実の傍にいる。
閉まりきっていないカーテンの隙間から、無神経に日が射してくる。
いらないよ、夏なんて。
「友也、ご飯は?」
「……いい」
よく普通に飯が食えるな。妹が死んだんだぞ。まだ高校生二年生だったんだ。
──天国に、味なんてあるのかな。
「……友也」
「いらないって言ってる」
睨み返す気力もなく、ただつっけんどんなだけの、弱い反抗。
「夏実のお友達、来てるんだけど」
成る程、邪魔ってことか。夏実の友達が来たなら、ここにいちゃ無粋ってものだ。
「──わかったよ。僕は部屋に行くから」
這いずるように、仏壇の前に据えられた座布団から身をずらす。
また来るからな、夏実。
久しぶりに戻った、二階にある自分の部屋。ドアを開けると、小さくモーター音が鳴っていた。この一ヶ月、ずっと仏間で寝ていたから忘れていたけど、パソコンがスリープ状態だったらしい。
このパソコンは、僕と妹の夏実が共同で使っていた物だ。
といっても、妹との思い出はあまり残ってはいない。買ってもらって数ヶ月で、妹は入院してしまったから。
汗が首筋を流れる。逃げ場のない、溜め込まれた熱気を今更に感じた。
ふと窓を見る。まだカーテンが冬物のまんまじゃないか。どうりで暑い訳だ。
「……あの」
服の袖でパソコンデスクの埃を適当に払う。
「あのっ」
突如、ぐいっと腕を引っ張られた。
振り向くと、そこには女の子がいた。妹が着ていたのと同じ高校の制服。切り揃えられた前髪に、首元から見え隠れするポニーテール。
誰だっけ。さっき来た夏実の友達なんだろうけれど、こんな子は知らない。
その知らない顔は、ずかずかと部屋に入り込んで、窓へと向かう。
「……っ!」
眩しい。
厚いカーテンも、窓も、開けられた。急に室内に光が満ちる。思わず手をかざして強烈な日光から目を隠すが、やはり少し痛かった。
「……何すんだよ」
「お久しぶりです、お兄さん。真由です」
僕の弱い抗議を完全にスルーした女の子は、光溢れる窓を背に、ぺこりと頭を下げた。
真由? 誰だよ。
働かない頭で記憶を手繰る。やはり見覚えは無い。
首を横に数回振ると、窓を開け放った少女は一瞬目を伏せて、大きな目を開いて僕に向けた。
思わず息を呑む。
陽が足に当たり、風が頬を撫ぜてゆく。
逆光で立つ少女のその向こう、外の庭には青や桃色を散りばめた紫陽花の花が、少女の結った髪の後れ毛が、夏の日を浴びてきらめいていた。それは、僕にとって久しぶりの「色」だった。
その光景が、僕の壊れた時計を揺さぶる。
「え、あ、あの……ごめん」
どうにか吐き出したのは、みっともない謝罪。なのに、目の前の少女は、笑いかけるのだ。
「覚えてませんよね」
柔らかい笑顔が夏の陽射しを巻き込んで、その輪郭をあやふやにする。
「ほら、五年くらい前までそこの角にあった駄菓子屋で」
あ、ああ。確かにその駄菓子屋には小さな夏実に連れられて、よく行っていた。
あの頃の夏実、あんず飴ばっかり食べてたなぁ。
この子は、昔あったその駄菓子屋の娘さんなのだろう。
マンションが建つとかで店は畳んだようだが、その先は知らない。
しかし、その駄菓子屋の娘さんが何の用なんだろう。
「ずっと、閉じこもっているんですか?」
「か、関係ないだろ」
「そうですね、関係ありません」
挑発的な物言いに思わず言い返す。が、ふと気づく。
苛立ったのなんて、何日振りだろう。
「だったら帰ってくれ。ここは、僕と……夏実の部屋だ」
苛立ったものの、少女を睨む目に力が入らない。このところ食事をろくにしていなかった影響、なのか。
「私は夏実の友人です。だから、夏実の部屋に遊びに来たんです」
一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。
「いけないですか?」
「いや、いけないも何も。もう夏実は、夏実は……」
そのあとの一言が言えない。代わりに、右目からぽろぽろと水が落ちた。
「……夏実は、もう、いないんだよ、どこにも、どこにもっ」
感情が溢れ出る。今まで頑なに口に出さなかった言葉。
夏実は、死んでしまった。
その言葉を言ったら、事実として認めたことになる。
だから僕は、言わなかった。言えなかった。
認めないこと。それが、僕にとって唯一の救いだった。
認めない。まだ認めない。
なのに、涙は零れ続ける。
歯を食いしばる。泣くな、
もう泣くな。誰も失ってはいない。
誰も、いなくなっては、いないんだ。
「ここに来た理由は……もうひとつあるんです」
逆光の少女が大きくなる。近づいているんだ。泣いてしまった僕に。
この子は、僕にどんな言葉をかける気なのだろう。
「夏実からの伝言をお兄さんへ届けに──」
すっと差し出されたスマートフォンを見る。
"大好きなお兄ちゃんへ"
涙が文字を遮る。ぐしっと乱暴に手の甲で拭って、再びスマートフォンに目をやる。
"ごめんなさい、辛く当たってごめんなさい"
そこから先は、溢れた涙で読めなかった。
逆光の少女は、さらに近づく。
流れる涙を止めようと目を瞑り、身を強張らせる。けれど、言葉は聞こえない。
代わりに、頬に柔らかいものが触れた。驚いて目を開けると、そこには真由さんの左手があって、涙を、拭っていた。
人の体温が、心地よい。
思った瞬間、決壊した。
どの位経ったのだろう。一分かもしれない。一時間かもしれない。
僕は、少女の腕の中で泣いた。
洗っていない脂まみれの髪を撫でる手が、ほのかな線香の残り香が、優しい。
ぽんぽん、と、頭を軽く押さえられて、温もりが遠ざかる。
「お兄さん、これを見てください」
「これ、ってさっきのスマホ……え?」
見せられたのは、またしてもスマートフォンの画面だった。
が、そこには無機質な数字やアルファベットが並んでいた。
「夏実のメールボックスのパスワード、だそうです」
逆光の少女──真由さんは経緯を話し始めた。
今年の春、突然妹からメールが来たという。普段はSNSばかり使っているのに、何故メールだったのだろう。が、今はそれは置いておく。
それよりも、このパスワードをこの真由さんに託した理由である。
何故、家族では無かったのか。
何故──俺じゃ無かったのか。
確かにこの春、俺は妹に拒絶された。理由なんて分からない。
だって、そうだろ。
いきなり「もう来ないで」って言われたんだ。
頭にきた僕は、それきり見舞いに行かなかった。帰ってきたら文句を言ってやるつもりだった。
それも、叶わなかったけれど。
パソコンのモニターにログイン画面が現れた。
「g13m16……」
ランダムに組み合わされたであろう英数字を打ち込んでエンターキーを叩く。
と、耳元で呼吸音が聞こえた。
真由さんだ。真由さんの顔が、俺のすぐ横にあった。
最近の子は距離が近いのかな。それとも、この子が特別なのか。
メールボックスのウインドウがポップした。
この中に妹の、夏実のメールが届いているのか。
マウスのダイアルを回して、今年の三月のメールまで飛ばす。
早く。早く読みたい。
夏実が伝えたかった事を知りたい。
「落ち着いてください、お兄さん。メールは逃げませんから」
逸る気持ちを隠したつもりが、すぐ横の真由さんには見透かされていた。
いや、万が一の事もある。突然ハードディスクが壊れることもあり得るのだ。
ぐりぐりとダイアルを回す俺の手に、何か柔らかい物体が触れた。
真由さんの、手だ。
男のそれよりも若干小さな左手が、俺の手の甲に重ねられている。
「落ち着いて。深呼吸しましょう、はい。すー、はー」
甘い吐息が肩を掠めて、鼻孔をくすぐる。
忘れてた。女の子って、こんな感じだったんだな。
「──ありましたよ、これです」
件名に、お兄ちゃんと真由へ、と書かれた、電子メール。
そこへカーソルを重ねて、マウスをクリックする。
どんな事が書かれているのだろう。このメールを送信した当時は喧嘩の真っ最中だった筈。なら、俺への文句かな。
だけど、文句であっても妹の言葉だ。大切に受け止めよう。
不安と期待を半々に、メールに目を通す。が、その期待も不安も、無意味と化した。
「なんだこれ」
そこに記されていたのは、知らない住所だった。
さらにメールは続く。
「あたしの代わりに、お兄ちゃんと真由で行ってきて」
全く意味が分からなかった。




