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夕ヒ丘青春心中

※この作品はフィクションです。自殺を助長推奨する表現がありますが、必ずしも作者自身の思想と一致するものではありません。





階段を上っていくにつれて緑の掲示灯が見えてくる。

職員室で盗んだシリンダーキーで冷たく重たい鉄製のドアを開けると、そこは校舎の屋上。

僕にとって唯一、現実からの緊急避難経路だ。


まだ夜明け前、五時。

風がすこし強いせいか七月上旬にしても肌寒かった。

眼下の誰もいないまだ暗い校庭が、次第に明るくなっていくのが見える。

遠くに輝く夕陽丘の町が一望できたけど正直、何の感慨も湧かない。


フェンスをよじ登り、向こう側へと降り立った。

辛うじて両足を置くことで生存が許される三十センチ程のコンクリの上――ここが、この世とあの世の境界線だ。


踵を踏むようにしてスニーカーを脱いだ。

長年何故、靴を脱ぐのかという疑問を抱いていたが、転落死と区別をつける為の意思表示だと思い至る。


「成る程、実践してみないと分からない事は多いな……おおっと」


ポケットから便箋を取り出そうとして、うっかり風で飛ばされそうになった。

靴の下に挟んでみたが風が強すぎて上手く重しにならない。

小説やドラマだとすんなりいっているのに実際にやってみると不都合があるのだなと気づかされながら、便箋を戻そうとしてーー結局風に拐われる。


「……まあ良いか」


蝶のように舞い上がっていく便箋をぼんやり見送っていると、正直どうでもいい気分になってくる。

放っておこう、どうせ全て無に還る。

悔いだとか後悔だとか、そういった面倒臭い感情は後数十秒で消滅してくれる。


「ねえ死ぬの?」


出し抜けに声がした。

見るとフェンスの向こう側――屋上のドアの前に人影が見えた。

最初に浮かんだのは、野球部の朝練すらまだ始まっていない時間帯に何故、人がいるのかという疑問。


よく見るとヘッドホンをした女子生徒だった。

スカートが風でばっさばっさとはためいているのも気にもせず近づくと、睨みつけるくらい強い視線で、彼女は問うてくる。


「そこから飛び降りて自殺するんでしょう?」


「……そんわけないだろ」


「じゃあ何?」


「見て分からないかな。……ほら、生徒会に頼まれてフェンスの修理をしてるんだ」


裸足で、夜明け前に壊れてもいないフェンスを外側から直す人間が何処にいるだろう。不自然この上ない言い訳だったが強気で押し通して何とかするしかない。


「これ、さっき飛んできたけど?」


彼女の手には見覚えのあるものが握られていた。先程風に煽られて飛ばされたはずの便箋で、僕が死ぬ理由について綴った手紙ーー遺書だ。


「……」


沈黙を肯定と受け取ったようで、少女はニヤリと嘲笑(わら)った。

野犬のように鋭い眼差しと、皮肉めいた唇の笑みのせいで近寄りがたい雰囲気を感じさせる。


彼女の足元を見ると青い線の入った上履きを履いていた。我が校は上履きの色で学年を判別できるようになっているのだが彼女は三年のようだ。

だが顔も名前の知らない生徒だ。


「おまえ……誰だよ?」


「三年A組、松原憂鬱ゆううつだよ」


進学クラスか。

顔をのぞかせそうになる劣等感に全力で蓋をし押さえつけたから表情には出なかったと思う。もうどうでも良い事だだろと己自身に言い聞かせた。


「僕はーー」


「興味ない」


「は?」


「貴方の名前とか、これから死ぬ理由だとか、そういうプロフィールは心底どうでもいい」


「どうでもいいって……」


「そんな事より教えてよ、体重は幾つ?」


脈略のない言葉に虚を突かれた。

欠片も予想していなかった質問を頭に入れ、咀嚼する為に数秒を要した。


「五十……四だけど……」


「ではここで問題です」


少女が人差し指を立てる。

何のだよ。


「ある日、体重五十四kgのA君が飛び降り自殺を試みました。校舎の屋上から二十メートル先の地面に激突する際、その衝撃度は如何程でしょう。尚、空気抵抗は加味しないものとする」


少女は問題集でも読み上げるように諳んじると、今度は人差し指をこちらに突きつけてくる。


「……」


黙っていると「求めなさい」と睨まれた。


妙な迫力に気圧され、僕は仕方なく暗算する。

確か重力は9.8m/sだ。これに体重と高さをかければ衝撃度は出るはずなので難しい計算ではない。

でも何故、学校の屋上で数学の問題なんかこなさなきゃならないのか。


「えっと……10584n?」


「正解。つまりそういう事だよ」


「どういうことだよ……?」


全く以て出題の意図がわからない。


「AISという指標があってね。これはアメリカの医師会が定めた災害者の重傷度と治療の緊急度の判断トリアージに使用されるもので六段階あるの。1が軽傷で、6までいくと即死」


「一体、何の話をしてるんだ……?」


何故、彼女は海外の医療について語っているのだろう。

更に明後日の方向に向かっている。


「10kn相当の衝撃度で負う怪我のリスクは2から3に該当するの。つまり即死ではない。瀕死、重篤の更に下、重傷から中傷程度。内蔵破裂や骨折等の重大な損傷を受ける可能性・・・があるレベル・・・・・・でしかない・・・・・の」


「……」


沈黙を続けていると、彼女はつまらなそうにふんと鼻を鳴らした。

「まだ分からない? 机上の計算は得意でも、現実への応用力は壊滅的みたいね」ディスってくる。


「はっきり言ってしまうと、貴方はここから落ちてもトマトみたいにぐちゃぐちゃにはなれない。要は死ねないの」


「……」


「確率は三割程度だね」


「死ぬことが……できない……?」


彼女の回りくどい説明によって知らされたその事実に、僕は思いの外、絶望していた。


自殺とはようやく見つけた非常口の扉だ。

すべてに嫌気が差して、早く楽になりたくて、逃げ場を求めてたどり着いた唯一の答えなのだ。


「それなのに……逃げることすら許されないなんて……」


「残念だったね。頑張って遺書を書いて、鍵を盗んで、早起きして、決心をしてここにきたけど、全ては大いなる無駄だったね」


彼女はあははと嗤う。


結局、この世界に馴染むどころか、慣れることすらできなかった。

この社会に、この町に、いやこの高校にすら。

誰かと共有して笑うことも、空気を読んで笑い続けることもできなかった。


そうやって嗤われたほうがまだマシだと思えるくらいに他人との生活が息苦しく、苦痛で仕方がなかったのだ。


だから僕は、


「そうだ……肉塊になる必要なんてない……道はまたある……死ねればそれでいいんだ……」


「何を言ってーー」


「要するにこうすればいいんだろ」


僕はフェンスに背を向け、正面に向きなおった。

できる限りその場に屈み、遙か眼下に広がる校庭に狙いを付け、ひと呼吸してから金網から両手を離す。そしてコンクリの縁を蹴りつけ、ハイダイビングの選手のごとく飛び降りた。


飛び降りるだけでは死ねないというのなら頭から墜落すればいい。頭蓋骨さえ砕けてしまえば、脳みそだけでも確実に潰せれば、ことは済む。誰にも邪魔されず、静かな終わりを満喫できるのだ。


「……」


だが視界は広がることなくいつまでもその場に留まり続けていた。赤く染まったコンクリも、飛び散った脳漿も、幼少期からの回想も、花畑も目の前に現れない。


何かが邪魔をして落下できずにいたせいだ。振り返るとズボンのベルトをフェンスの向こう側から掴む小さな手があった。


「素晴らしい。今ので五割まで上昇したね」


彼女は嬉しそうに微笑わらっていた。


「でも惜しいかな正解じゃない。それでもまだ半分の確率で、君は重い障害を負い、病院に拘束され、自殺すらできない生涯を送る羽目になるだろう」


「何を……してる……んだ」


「親切の押し売りだよ。どうせ自殺を試みるなら百%確実な方法をお勧めしたいんだ。……私ならもっと効率的かつ確実なプランニングができる」


「プラン……ニング……?」


「そうだよ何がいい? 薬はどうかな? 手に入れるのは手間だけど良い入手先がある。他には高圧電流とかベタなところだと練炭かな。入水は大変だけどロマンチックだよね。首吊りはお勧めしないけど好みは尊重するよ」


彼女の口調はとても弾んでいた。

まるで休み時間にお勧めの音楽や映画を紹介するように楽しそうで嬉しそうだった。


「何れにしろ私なら用意ができる」


「……何を?」


「敗北者としての死じゃない。世間様が同情して悲しんでくれる。個人的にも満足できる。そういう幸福な結末をだよ」


「……幸福な……結末?」


「そうだよ、だからさーー」


少女は、松原憂鬱はうっとりと頬を染め夢見る乙女のように、

神を盲信するように、

其れこそがただ唯一の救済であり福音であるかのように、

愛を囁くように、密告するように、或いは脅すように告げてくる。


私は生涯忘れないだろう。彼女が笑いながら次に発したその一言、あまりにも馬鹿げていて意味不明でふざけ過ぎていて常軌を逸したその提案をーー。


「どうせならその自殺、心中にしちゃおう!」


「…………は?」


これが、これこそが自称自殺フリークの松原憂鬱との出会い。

そして彼女と僕の十通りの自殺の手法を巡る、あまりにも愚かで滑稽でばかばかしい喜劇の幕開けだった。

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