サラダ
裏門から出て、駅へ向かいながら考える。
母が死んでから、私は写真を一枚も撮っていない。
子どもの頃の写真を見せて、「この写真から七年経っている。この女を見なかったか」と尋ねても満足できる答えは返ってこないだろう。
それに、子どもの頃の朗らかさは消え失せて、気の強さがにじみ出る女になってしまった。昔の面影を、今の私に見ることは難しい。
新聞に捜し人を出されたとき、写真の有無が大きく影響するだろう。
名前だけなら、偽名を使えば辿れなくなる。
だから、逃げてしまえば、捜索は難航するはず。
駆け足になりそうな自分を押さえつける。目立ってはいけない。
目撃者に駅の方に行ったなどと証言されたら……いえ、駅に向かったと推測されるのは仕方ないか。
列車に乗れば、隣国に脱出することができる。
国境を越えた辺りで、身分証を確認する役人が車内を点検するらしい。
事故で亡くなった平民の身分証を買い取ってある。平民は写真なんて撮らないから……大丈夫なはず。
下請けの仕事をもらっていた事務所に、次の仕事先を紹介してもらっている。
翻訳の仕事の評判が良く、今度は通訳も頼みたいと言われている。一応、貴族の常識を知っているので、引っ張りだこになるかもと言われた。
そうなったらいいな。
今まで稼いだお金は、隣国の銀行に送金済み。
準備万端なのだ。
不自然ではないくらいの早足。次第に息が苦しくなってきた。足がもつれそう。
汗が背中を流れた。体を動かしているからか、冷や汗か。
義理の家族に馬車を使われたら、すぐに追いつかれてしまう。急がなくては。
いい加減な息子を育てた前当主夫妻は罰を受けるべきだし、私を蔑ろにした実家も没落すればいい。
当然、「白い結婚」の夫も、図々しい愛人も破滅してほしい。
だけど、私の手で仕返しをしなくても、もう彼らに未来はない。
仕返しをするためにここに留まって、一緒に処罰されるのは絶対に嫌。
それくらいなら、仕返しを諦めて、遠くに逃げる。
駅が見えてきた。背後から追いかけてくる気配はない。
勝った。
これで、私は自由だわ。
手の甲で、顎まで垂れた汗を拭った。
もう、乗車券は買ってある。
お化粧室で汗を拭いて、なんともない普通の顔になっているか鏡で確認した。
たぶん大丈夫。
どきどきする心臓の上に手をやって深く息を吐き、もう一度「大丈夫」と自分に言い聞かせた。
駅をうろつく物売りから、オレンジを一つ買った。
「それでは、ごきげんよう」
誰も聞いていない挨拶をして、列車に乗り込んだ。もうこの国に戻ることはないだろう。
荷物を網棚に乗せ、膝の上にハンカチを広げてオレンジを置いた。
柑橘系の爽やかな香りが、勝利の証のように鼻腔をくすぐる。
ふと、手が震えていることに気がついた。
手元が怪しいので、オレンジを剥くのをいったん中止する。飛沫が飛び散ったらいけない。
そうだ。落ち着いたら、庭師にだけは手紙を出したい。
ただ、実家や義理の家族が私を捜していたら迷惑をかけてしまう。出しても平気か、慎重に考えないと。
あの、三ヶ月になったばかりの赤子はどうなるんだろう。
罪のない子どもの行く末が気になったけれど……ちゃんと貴族の両親から生まれても不幸になった私。
そんな人間が子どもの幸せを祈ったところで、効果はなさそう――そう思ってしまい、祈るのを止めた。
ガタンと音を立てて、列車が動き出した。
ほお~っと息が漏れ、肩の力が抜けた。
喉がカラカラだ。気をつけながらオレンジを剥いて、一房口の中に入れた。
噛むと、じゅわっと甘酸っぱさが疲れた体に染みわたり、心まで潤した。
私は、父に母を殺された。
継母と結婚するために邪魔だったから。
異母妹はフェリフ家の令嬢になれたけど、それまで「馬の家」で育てられたことを恨んでいるらしい。
恨むならいい加減な父だと思うが、恨みは私に向けられた。理不尽だと思う。
子どもは、誰も親を選べない。生まれた家も、境遇も、どうにもならないところで決まってしまい、平等ではない。
私ではなく、父を、神を、この国の制度を憎んで欲しい。
私だって、初めは異母妹が憎かった。
私の物、私の場所を取られたと思った。
私が使用人として働くのを、わざわざ笑いに来るのも、悔しくて涙が出た。
だけど、ある日気がついたの。
どうしてそんな暇があるんだろうと。
母親が生きていた頃。
お茶会に一緒に行くために、参加者のことを覚えさせられた。
貴族学校でよい成績を取るために、先取りして勉強させられた。学校では涼しい顔をして、お友達と交流することに専念できるように。
そういうことを、やっていない? だから、私を虐める時間があるの?
母には生家にいたころからの人脈があった。
加えて、薬の知識があったので、男性に相談しにくいことを訊くためにお茶会と称して呼ばれることもあった。
そういう貴族社会の下地を持っていない彼女たちは、お茶会に呼ばれない。
正式に結婚をしている女性にとって、「馬の家」は夫が浮気をする場所でもある。上手く立ち回れなければ、軽蔑されたままだろう。
そうか。貴族学校に通い出すまで、彼女にとって「貴族令嬢」は私だけだったんだ。
なんて可哀想な異母妹だろう。
父は愛欲のまま好き勝手に振る舞っているだけで、きちんと貴族として生きていける環境を与えなかったのか。
ドレスや宝飾品で贅沢させるだけで……。
果物の雫が手のひらを伝った。慌ててハンカチの隅で押さえる。
ふと、夫も幼い頃か学生時代に何か心に傷を負って、それに拘ったまま年だけ重ねたのだろうという気がした。
夫と異母妹は、どこか似たところがある。
「こうだ」と決めつけたら、人の意見を聴かない。
誰かのせいにして、自分にも言い訳を重ねて、意固地になっていく。
オレンジをもう一房、口に含んだ。
――私の母も、柔軟な視野を持っていなかったと思う。
どうせ死ぬなら、平民になっても良かったじゃないか。
私だって、今から平民になる。
四年前にその決断をして、庭師と逃げていたら、今でも生きていられたはずだ。
母の薬師の知識があれば、外国でも生活できた。
……今、私がひとりぼっちになることもなかった。
手に力が入り、果汁が目に飛び込んだ。
ハンカチは敷いてしまっているので、涙を押さえられない。
ボックス席の向かい側に人がいなくてよかった。私はうつむいて、涙が流れるに任せた。
目を擦ってはいけないと、母に習った。
鼻の辺りに力を入れると嗚咽が抑えられると、実家の使用人の大部屋で学んだ。
落ちる雫は、膝の上のハンカチに吸い込まれていく。
しばらくして涙が止まる。はーっと大きく息を吐いた。
「あはは、私も『母のせいだ』って、人のせいにしちゃった。仕方ない、人間だもん」
自分の頬を片手で軽く叩いて、気合いを入れる。
恨んだり、妬んだりするのは時間の無駄だ。
異母妹のようにはなりたくない。
最後のオレンジをぽいっと口に放り込む。
気をつけて食べたつもりだが、手がベトベトになっている。
貴重品が入った鞄を肩にかけ、列車の洗面スペースに向かう。
列車の揺れで転ばないように足に力を入れながら、一歩ずつ確実に歩く。
流れる水で、ベタベタした物をしっかりと落とすのだ。
目元を軽く洗う。目元のこわばりがすっきり解消された。
それから、まるで過去を洗い流す儀式であるかのように、私は丁寧に手を洗った。
12月16日 加筆




