ソルベ(口直し)
また使用人の硬いベッドを使うことになってしまったけれど、自由な生活はありがたい。
監禁されたり、女主人の仕事だけ押しつけられたりしたら堪らないもの。
それに洗濯や掃除をするといっても、自分の分だけ。屋敷中を使用人たちと掃除したり、山のような洗濯物をするわけじゃない。
自分の時間が確保できるなんて、天国のようだわ。
午前中に自分の家事をこなし、使用人と食事をいただいた。
といっても、平民から貴族に話しかけることはできない。こちらから話したいこともないので、私は黙々と食べる。
使用人たちも初めは気まずそうにしていたが、数日もすれば慣れたようだ。
実は二日目に、私にコップの水をかけてきたメイドがいた。
少し見栄えがよいメイドで、ちやほやされて慢心しているのだろう。
エプロンからハンカチを出して顔を拭う。誰も、タオルなど持ってこない。
「大奥様に使用人の質が落ちているので、どうしたらいいかとお手紙で相談しないといけないかしらね」
と、大きな独り言をつぶやいた。
旦那様にひどい扱いをされていても、名ばかりでも「奥様」なのだ。
それをようやく思い出した使用人たちは青ざめた。
彼女を英雄のようにはやし立てていた連中が、手のひらを返して彼女を責め始めた。
相手にするのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、くだらない人たち。
一週間ほどは、新しい環境に慣れることを優先した。
掃除道具のある場所、使用人と洗濯する時間が重ならない工夫など、細かいことは沢山あった。
そして生活の基盤が整ったところで、私は動き出すことにした。
昼食の後にお仕着せを脱いで、実家から持ってきた流行遅れでくたびれた服に袖を通す。
この姿なら、誰も貴族とは思わないだろう。
侍女や護衛などはいないので、そっと裏口から街に出た。
学生時代の同級生が働いている所に行って、翻訳や代筆などの仕事をもらうのだ。
まずは、親の仕事を継ぐ子たちを訪ねてみた。
三人に会って、仕事を一つもらえた。
この仕事を丁寧に、迅速にやり遂げよう。
数日後には仕上げて持っていき、報酬と引き換えに渡す。
「さすがヤスミン。いい仕上がりだ」
「ありがとうございます。これからもご贔屓に」
「なあ、結婚したんじゃないのか?」
元同級生が、声を潜めて訊いてくる。
「愛人がいるから、私は書類だけの妻なのよ」
愛人が平民ということは伏せていても、充分とんでもない話だ。
「だから、自分の生活費を稼ぐ必要があるの」
明るく言ったつもりだが、面倒見のいい同級生は涙目になった。
それを聞くまでは、どこかでお嬢様のお遊びと思っていたようだ。
急に真剣になって、誰のところに仕事をもらいに行けばいいかを助言してくれた。
――規模が大きい職場に就職した子は、上司に相談しないと決められないだろう。
小さい所なら新人でも任される仕事が多く、すでに裁量権を持っている可能性が高い。
自分のような家業だと、小遣い稼ぎ程度の仕事なら簡単に依頼できる。だが、大きな案件はあまりないかもしれない――と。
「なるほどね。とても勉強になったわ」
「こっちこそ、助かるよ」
平民の学校に通わせたのは、継母の意地悪だったんだろう。
だが、結果的にはありがたい。頼りになる同級生達と知り合えたことで、人生を変えるチャンスを掴めそうだ。
そうこうしている内に一ヶ月が経った。
義母への手紙には、食事が美味しいと書いた。まさか、使用人のご飯のことだとは思うまい。
掃除や洗濯をやりながら、少し期待していたことがある。
「ついでにやりましょうか」と言ってくれる使用人が現れないかと。
だが、そういう申し出はなかった。一応、書類上は奥様なんだけどな。
まとまったお金が貯まってきたころに、服を買った。平民用の服だ。
気にしないようにしようと思ったが、流石に、流行遅れでボロくて街を歩くのが恥ずかしかった。
ひどい格好でうろついて、仕事をくれる同級生達に恥ずかしい思いをさせてはいけない。これは必要経費だと、自分に言い訳をした。
そんな贅沢をする余裕があるのかと、問いかける自分の心に対して……。
そうして気付いたこと――古着でも、自分で選んだ服は気分があがる。
堂々と顔を上げて街を歩けることに、感動した。
それから軍手を買って、母の実家に行った。
あの庭師は、私の結婚と同時にフェリフ家を辞めて、母の実家に戻っていたから。
雇い主の伯父さんの目を気にしながら、さっと手渡す。
私の境遇に怒ったり、元気でよかったと涙ぐんだり、とても忙しい。
家族ってこういう感じのものだよね。そう思ったら、私まで泣きそうになった。
慌てて「またね」と言って、帰ることにした。
涙を見せたら、また心配させちゃうから。
カリム家の屋敷に向かって歩きながら思う。
仕事で褒められるのは嬉しい。
こうやって、贈り物ができるのも嬉しい。
私は役立たずの無駄飯ぐらいなんかじゃない。
自分の能力を活かして働けるのって、幸せだと思う。
この国の常識で言ったら、貴族なのに平民の暮らしをして働かなくちゃいけないなんて、可哀想と同情されるだろう。
だけど私にとっては、楽しい生活だ。
執事や侍女頭が黙認するので、私は自分のペースで生活している。屋敷を抜け出して、仕事をしてお金を稼いでいるのも気付いているはずだ。
貴族の奥方として相応しい行動ではないが、やめるように忠告する気配もない。
――この人たちは、なんなんだろう?
書類上の夫をいさめることもなく、私の奇行を咎めることもなく、領地の前当主夫妻に報告することもない。
初めは忠誠心が薄い使用人で良かったと思ったのだが、数ヶ月すると気味悪さを感じるようになった。
なにが不自然なのか、しばらく言葉にできなかった。
ある日、彼らが自分が仕えている家に、愛着のようなものを抱いていないことに気付いた。
何が起きても他人事。だから、奥様である私がどう扱われようと、どんな行動をしようと興味がない。
よく考えたら、まともな人間なら、平民と恋仲になる貴族の世話などしたくないだろう。
それが公になったら、お家断絶。使用人も連座させられるかもしれない。
もしかしたら他の家では雇ってもらえない人たち……?
一度、私に不埒なことをしようとしてきた使用人がいた。
仮にも貴族なので、攻撃魔法で撃退しました。十二歳まではちゃんと教育を受けていたから、使えるんです。
のたうち回る男を、他の使用人たちが回収していきました。実に手際が良かった。
その後、その男を見かけないので、私も不問に付している。
――この家の闇は、なかなか深いのかもしれない。
ところで、私は女主人の仕事をしていない。
愛人にやる能力があればいいが、なければ、誰かがそれを肩代わりしているはず。
私は「やりましょうか」なんて殊勝な申し出をする気はないのが、この家は大丈夫なんだろうか。
ほとんど来客もないので、大丈夫か。
大奥様の趣味が気に入らないらしく、愛人は妙にギラギラした内装に変えていく。
この、華やかだが落ち着かない感じはなんだろう。
ふん、私には関係ないわね。
愛されないのに仕事だけ押しつけられて、搾取されるよりマシだ。
健気に尽くして、愛されるのを待っているような弱い女じゃない。
めそめそ泣いていても、うるさいと言われない個室を確保した、私は偉い。頑張ってる。
お母様が亡くなった時とは違う。 私は何もできない子どもじゃない。
――そう心の中で唱えて、時々自分を褒めた。
ふいに弱気になる瞬間もあるけれど、私の人生はまだ始まっていないと考えるようにした。
爪を研いで、反撃の機会をうかがうのだ。もっと自由に生きるために。
私が洗濯物を干しているところに、愛人がわざわざ様子を見に来たことがあった。
「お貴族様なのに、可哀想ね。あの人ねぇ、あたしの体に夢中なのよ」
「それは、ようございました」
あんなオジサンと閨などしたくない。全く羨ましくない自慢をされた。
「スカしてんじゃないわよ。大変な後継者教育と学校の勉強で、苦しんでいた彼を救ってあげたのはあたしなんだから」
「さようですか」
愛人は貴族ではないので、学校の同級生ではないはずだ。
「あんたに魅力が無くて、よかったわ。
いいえ、あたしの魅力の前には、誰が来ても関係ないわね。
あたし、歌い手なの。すごい舞台でも歌ったのよ」
彼が息抜きに愛人のステージを見に行っていたとするなら、少し年上の可能性がある?
お肌の感じからしても、二十代後半か三十歳くらいに見える。
あ、内装のギラギラは、劇場の雰囲気にしようとしているんだわ。
あれは劇場だからいいのであって、自宅で再現されたらくつろげないと思う。
愛人は見せつけるように歌い出した。
朗々と遠くまで響く歌声は、美しかった。
ひらめく洗濯物が観客の代わり。
性格が悪くても美しい歌が歌えるんだと、妙なところで感心する。
すると、夫が歌声を聞いて、飛んできた。
事情も確認せず、「こんな清らかな女性を虐げるつもりか」と怒鳴られた。
ちょっと待って。どこを見て、そう思った?
どう見ても、使用人同然の私の方が虐げられていると思いますけど。
この歌姫が、洗濯を邪魔しに来たんですよ。
心の中では、そう抗弁した。
言ったところで、この男は私の方が悪いと決めてかかっている。言うだけ無駄だ。
早く干したいから、満足したら帰ってくれないかなぁと靴の爪先を眺める。
「反省しているのか?」
するわけないでしょう、馬鹿な男。
「もうしわけございません」
棒読みで、心を込めずに口に出す。悔しい。でも、私の心は負けてない。
この女は、処刑台の階段を一歩ずつ登るような現状に気付いていないのだろうか。
この国では、平民が貴族を蔑ろにしただけで侮辱罪に問える。
つまり、愛人が私を見下す言動は許されない。その逆は、罪ではないのだけど。
そして、書類上の夫はそんなことも知らないのか。
だとしたら、貴族学校に通わせたのは、全くの無駄。お金をドブに捨てたようなものだ。
――もしくは、私が黙っていれば全てが収まると思っているのか。
人のいい親は欺せても、使用人たちはしっかり見ている。
解雇などして彼らの恨みを買ったら、どこにリークされるかわからない。
この国では、貴族が平民と子作りするのは違法だ。
それを自覚していないのか、警戒心がなさすぎて、とても危うい。
私はこの人達のとばっちりを受けないように、気をつけなければ。
露見したときに、妻というだけで連座になるなんてごめんだわ。
早く逃げ出したい。
どのタイミングで逃げるか、どこに行くか、慎重に準備しなければ。
チャンスは一度だけ。
失敗したら人生が終わるくらいの覚悟で、チャンスをうかがっている。




