ポワソン(魚介類)
ヤスミンが卒業する直前に、二尾のパシャの子息との縁談が申し込まれた。フェリフ家よりも格が上の、中位貴族だ。
十歳年上で、結婚したら「当主」を譲り受けるという。
そのためにすぐ結婚できる、大人しい娘を捜していたそうだ。
異母妹ダリラがニヤニヤ笑うのを見て、ろくでもない相手なんだろうと察した。
学校で、貴族とも取引をしている商人の子に相談した。
すぐにお相手の情報を教えてくれた。
お相手は学生時代に平民と恋愛関係になり、貴族の婚約者と破談になる。その後、新しい結婚相手が現れないまま十年経ったそうな。
異母妹は男女の恋愛に詳しい。彼女の様子からして、その平民と続いていると考えた方がよいだろう。
現当主は、奥方の療養のために、爵位を息子に譲って領地に下がりたいと言う。
王都の小さな教会で、親族だけの式を挙げた。
立会人の前で誓い、書類にサインをしただけ。
両家の食事会もなし。歌も踊り大皿料理を分け合うこともなく、まるで貧民の結婚式だった。
普通の令嬢なら、これだけで「結婚辞めます」と言い出してもおかしくない。
花婿の両親は、花嫁に詫びた。
言葉を濁しているが、要約すればこういうことだ。
十年前に息子が平民と付き合っているという噂が出て、周りから色々と言われて奥方が精神的に病んでしまった。今回も嫌なことを言う人がいるかもしれないので、内々ですませたい――と。
はっきり言ってしまえば、貴族が平民と付き合うのは、この国では許されないタブーだ。
「馬の家」に愛人を囲い子どもを生ませて、後妻に迎えた父の行為が「仕方ない」と許される常識的な行為であるように見えるくらい。
花婿は、私に興味なさそうな視線を投げた。
これは、本当に平民と続いているかもしれない――と嫌な予感がする。
私を歓迎しているのは、現当主夫妻だけなのだ。
息子の偽装に気づかずに祝福をしているとしたら、当主夫妻は滑稽な道化師だ。知っていて私を欺そうとしているなら、相当な演技派だ。
私の家族は早く「親子水入らずの食事」をしたいとそわそわしている。
いつも三人で食事をして、私は使用人たちと食べていた。なにが「親子水入らずだ」と罵ってやりたい気分だ。
少しくらいは、私に対して罪悪感を持っていたのだろうか。
ああ、高級なレストランでも予約しているのかもしれない。そう思いついて、また胸の奥が冷えた。
「これ以上ないほど冷え切った」と思っても、まだ底があるのかと、いっそ笑いたくなる。まだ、どこかで期待していたのか。
心など凍てついて砕け散ってしまえばいいのに。
異母妹が別れ際に近寄ってきて、耳元で、私が夫に愛されるはずがないと予言した。
「あなたも残り一年しかないんだから、頑張って」と、つい、言ってしまった。
彼女はいつものように手を振り上げたが、他人がいることに気付いて手を下ろした。
造形は美しい異母妹だが、意地悪い表情を隠さない。
子息が結婚を望んだときに、親が「馬の家」を知っていたら、普通の令嬢として候補に認められないのかもしれない。
それなら、他の価値があればいい。ぜひ嫁に来てくれと言わせればいいのだ。
だから、心から「頑張って」と言ったんだけど。
そうか。もう、彼女にひっぱたかれなくていいんだ。
それだけで、結婚した意味があるかも。私は、束の間の勝利に酔いしれた。
あっという間にささやかな式が終わり、王都にあるカリム家の屋敷に移動する。
私はヤスミン・カリムになった。
意外なことに、日当たりのいい「妻」の部屋に通される。 当主夫人の部屋だ。
当主夫妻は今日から客間を使うという。着々と、引き継ぎの準備が進んでいるようだった。
軽い晩餐を四人で囲む。
奥様が、貴族としゃべるのは久しぶりといったようにしゃべりまくる。
休み明けに、こんな感じの子がいた。休み中は家業の手伝いに追われ、雑談に飢えていた子。
仕事で話すのと友達との雑談は別物と言っていた。
ちょっと、旦那様。
知らんぷりして食事していないで、自分の悪行で母親が孤立しているのを自覚して、フォローしなさいよ。
食事をしながら、また一つ、自分の夫の嫌なところを見つけてしまった。
それでも、湯浴みをして、夫婦の部屋で待機させられるわけです。
いわゆる、初夜なので。
昼間の様子から優しくなさそうだと感じていたので、憂うつな気分が募るばかり。
未知の経験に対する恐れもある。
閨教育は受けたけど……本当に、あんな奇妙なポーズをしなければいけないのだろか。
だが、私の夫は、想像を超える馬鹿者だった。
私とは閨をするつもりがなく、愛人の子どもを私の実子として育てると宣言した。
話の流れからして、例の平民を愛人にしているのだろう。
それは、国家反逆罪に当たる行為だと理解しているのか。私がタレコミをすれば、この家は一巻の終わりだというのに、あまりにも堂々としている。
私の夫は、妙な思想にかぶれているようだ。
「人は平等であるべきだ」と言っているが、言葉の端々に男尊女卑の思想が透けて見える。
言っている言葉は理想的だが、借り物の言葉というか、薄っぺらいというか……。
貴族と平民は平等であると言っているのに、男と女は不平等でいいのか?
だって、こんなタイミングで白い結婚を強要するのは、女性が弱い立場で拒否できないと踏んで言い出しているのでしょう?
自分の方が立場が強いと確信した上での、卑怯な行為。
いろいろと矛盾だらけなんですけど。
ほんの少しだけ、実は噂とは違う誠実な人で、幸せな結婚生活ができるのではないかと夢を見た。
そんな乙女チックな自分を蹴飛ばしたい。
現実は、甘くなかった。
第二の人生が駄目なら、次はどうする? 自分で次の一手を考えろ。
大事にする気はないが、抱くだけ抱く男もいるらしい。それよりはマシだと、必死に自分を慰めた。
――惨めすぎる。
いや、そんなことより、今後の人生の方が大事なはず……泣くもんか。涙一粒だって、浪費したくない。
異母妹にせせら笑われるのを想像して、自分を奮い立たせる。
この国は、二百年前に現地民を征服して樹立した国家だ。
当時の貴族を平民や奴隷に落とした関係で、征服者の貴族同士の子でなければ貴族として認めない。
それは、被征服民が再起するのを防ぐためでもあるが、魔力を持つ者を平民の中に出現させないためでもあった。
だが二百年も経てば、規則を守らない者たちが少なからず出てくる。
現に、平民の魔力持ちがちらほらいるのだ。
そうなるのも自然の流れだ。だが、それに逆らうように、この国の首脳陣は必死で「貴族」を守ろうとしている。
悪趣味な、見せしめの公開処刑の回数が、百年前より増えているのが恐ろしい。
ちなみに、私が通った学校は平民のための学校だ。
貴族学校に通えない貴族を、受け入れているにすぎない。
だから、そんな経歴を持つ私を夫は軽視している。
義父はろくに調べもせずに息子と結婚させたのか、そこまで条件を下げなければ嫁が見つからなかったのか。
平民との結婚は阻止したが、嫁は貴族籍とはいえ平民学校の出身……なんとも笑える。
この家の将来が心配になってくる。
私が持っているのは、平民の学生に頼んで手に入れた情報だ。
貴族社会で孤立したら、そんな情報すら手に入れられなくなるのだろうか。
母が亡くなってから、貴族であって貴族でない生活をしていたから、そういう機微がよくわからない。
知れば知るほど、「貴族」の身分なんか捨てても構わないと思った。
とにかく、閨をしないですむなら、ありがたい。
一人で、貴族用のベッドで眠れるだけで幸せだ。使用人のベッドは硬かったから。
夫は嫌味っぽく「今夜も愛する人の元に行く」と言うから「どうぞ、いってらっしゃいませ」と送り出してやった。
私が悔しがるとでも思ったのかな。まさか、そんなわけない。
だって、愚かなところしか見てないもん。結婚式の時の態度も最悪。いい年をして、子どもっぽい。
あんなオジサンを好きになる要素は、全く見当たらないでしょ。
一人で眠り、軽く朝食を食べて二度寝した。
夜は変な夢を見て起きたりして、熟睡できなかったし……。
メイドはなにか言いたげだったが、私に訊かれても困ります。
旦那様に訊いてくださいとしか、言えません。
昼になったので、また四人で食事をした。
午前中に爵位継承の書類を書いたので、この後ご夫妻は領地に向かうそうだ。
私は無邪気を装って、義母に毎月手紙を出していいかと尋ねた。人との関わりに飢えている義母は、もちろん快諾する。
義父はその様子を見て、嬉しそうだ。
夫が苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、無視。
そう約束するところを執事に見せて、「私を無下に扱ったら、大奥様にチクるぞ」と牽制したつもり。
だって夫に蔑ろにされる妻は、使用人からも馬鹿にされて食事ももらえないって、小説で読んだもの。
監禁されるのと、餓死するのは予防しなきゃ。
押さえるべき人物は、阿呆で間抜けな夫ではなく、執事だろう。
夫の暴走に目をつぶり、前当主に対して隠蔽するのに協力しているのもコイツだし。つまり、この家の陰の主は執事だ。
平民の執事に操られている……この国の貴族社会の弱点を垣間見た気がした。
義父母が出発した途端に、私は妻の部屋を追い出された。
早すぎる。そして、露骨すぎる。
また使用人の部屋か。実家と同じだから構わないが、個室で鍵がかかる部屋を執事に要求した。
少しでも、実家よりマシな環境を作らなければ。最初に舐められたら終わるんだ。
だから、我慢せずに、主張した。
どうせ、夫はそんな細かいところまで気にしないんだから。執事の裁量でやれるだろうと交渉する。
学校で平民と切磋琢磨して、私は強くなったはずだ。もう、負けない。
いくら耐えても、誰も助けてくれないんだから。健気に、人の善意など期待しない。
夫は愛人と自由に生きて、私も自由に暮らす。
それでいいじゃないか。
「夫の愛」などという価値のないゴミは、私には必要ないのだ。




