オードブル
ヤスミン・フェリフは「一尾のパシャ」の娘である。下位貴族と言えばわかりやすいだろうか。
十二歳で母が亡くなった後、すぐに父は後妻を娶った。
ヤスミンにとっては継母となる。
普通なら、一年ほど喪に服して故人を偲び、安らかな眠りを祈る。
――それを守らない行動に周囲は眉をひそめ、「禍が降りかかるに違いない」と陰口を叩いた。
その継母には連れ子がいたが、おそらく父との子どもであろう。
目と耳の形が同じなのだ。
そしてお約束通り、私は継母に虐げられた。
「お前の母親のせいで、私は『馬の家』に行かされたのよ」
と、なじられた。
初めて聞く言葉で、図書室で調べてもわからない。
家庭教師は異母妹のものになったので、もう話しかけてはいけないと継母に言われてしまった。
だが、「母のせいではなく、祖父のせいなのに」と思ってしまう。
母だって、こんな愛人がいる父に嫁ぎたくなかっただろう。
とにかく、継母によれば、二人の「真実の愛」を母が邪魔したそうだ。
そんな母の遺品を取り上げるのは、当然の権利だと言う。母が実家から持ってきた物は関係ないと思うのだが、そう言ったら頬を叩かれた。
部屋を異母妹に明け渡し、使用人の部屋に移るように命令された。
使用人は全員平民だ。つまり、私はもう貴族ではないと言いたいらしい。
食事は使用人と同じ物になり、休日は使用人として働かされたが、学校には通わせてくれた。
貴族の学校ではなく、平民のための学校。
だが、貴族の学校の学費が払えない貴族は、平民学校に通うことがある。
貴族の子女を学校に通わせないと罰の対象になるが、ぎりぎり言い訳ができる範囲。うまくグレーゾーンを突いてくるものだと感心する。
母の実家はそれほど裕福ではなく、頼ることはできない。
以前は薬師として有名だったが、錬金術の薬が出回るようになると取引量が激減してしまったのだ。
それは、私が五、六歳の頃だったろうか。
それくらいの時分から、父の態度がより冷たくなったような気がする。
父と母は政略結婚だ。
父は軍に所属する家系で、祖父が安定した土地持ちの家系と縁づきたかったらしい。
土地持ちは、二尾以上のパシャだ。
一尾のフェリフ家は相手にされず、一尾だが薬草園を持っていた母の実家に目をつけた。
あくまで祖父の希望なので、父は大いに不満だったらしい。
更に、母は男を生まなかったことを、父から責められていた。
それを見ると、自分が女だからいけないんだと思いしらされ、身の置き所がなくなる。
庭の隅で泣いていたら、庭師が慰めてくれた。
母が実家から連れてきた庭師だ。この家に薬草園を作って管理し、母が趣味で調薬するのも手伝っている。
「ヤスミン様が男でも女でも、尊いことに変わりはないですよ。
見てください。この実は、雄株と雌株が揃わないとできません。
そして、育つまでは雌雄どちらかわからない」
そう言って、ヤスミンの涙を拭こうとして泥だらけの軍手を慌てて外す。その下の素手も少し汚れていた。
「だいじょーぶ」
ヤスミンは自分のハンカチで涙を拭いて、ふふっと笑った。
庭師は自分の頭をかいて、「なら、よかったです」と笑った。
こんな日々を送っていれば、父親よりも庭師に懐くのは当然の話。
父親が「貴族は偉くて平民は馬鹿だ」というのに、違和感を覚える。
貴族が絶対に優れているという主張に嫌悪感を持ち、家庭教師に歴史を習ってこの国の貴族制度に疑問を持った。
貴族には魔力という武器があるが、歴史的に見れば「後から来た侵入者」。
支配者でいられるように仕組みを作っただけで、偉いとか優れているとかそんな証明はできないのではないか。
母の実家は、薬の仕上げだけは一族だけでやっているそうだ。平民の優秀さを知るが故に、警戒心も湧くとのこと。
薬師も家によっては、全てを使用人の平民にやらせているらしいが……。
ヤスミンが十歳を超えても、跡取りとして軍事の勉強を始める気配がなかった。
体格的には劣るとしても、兵站の管理や暗号を担当する女性軍人はいる。
魔力が多ければ、男女関係なく戦えるのに。
父と会話するのも嫌になっていたし、母と薬を作る方が楽しかったので、まあ、いいかと疑問を放置していた。
いざとなったら軍から婿を選んでくるだろうと、諦めの気持ちもあったかもしれない。
後で振り返ってみると、「なぜ、教育しないでいいのか」を深く考えるべきだった。
十二歳が近づき、そろそろ貴族学校に通う準備を……という頃に、母が突然倒れた。
父は「ご自慢の薬で治してみたらどうだ」と憎まれ口を叩く。
まさか、母に毒を盛ったのではないだろうなと睨みつけるが、子どもが大人に敵うわけもない。
父や執事に医者を呼んでくれと頼んでも、「もう、夜遅いから明日」と言われる。
「じゃあ、私が薬を作る!」と啖呵を切った。
もちろん、解毒薬が作れるほどの知識はない。毒だと疑っているだけで、確証もない。
ただ、庭師を母の枕元に呼ぶための方便だ。
母は不貞など働いていないが、庭師と私たち三人は家族のようだった。
庭師に石けんを渡して手をよく洗わせ、作業靴を脱いでボロい革靴に履き替えさせた。
足音を気にしながら母の寝室に行き、二人は別れの挨拶を交わした。
高熱で嘔吐を繰り返す母の顔を優しく拭き、かすかに互いの名前を呼んだ。それだけ。
「ヤス……を……まも……」
「お任せください。力の限り」
この国では平民が全力を尽くしても、貴族の気まぐれで簡単にどうにかされてしまう。
それがわかった上で、他に頼む人がいなかった。――いや、この庭師だから頼んだのか。
庭師が母の手を下から取り、ヤスミンがそこに手を添えた。
そして、庭師がもう一方の手が、その上に置かれる。
誰かに見とがめられないように、ほんの少しだけ触れあった。それだけ。
庭師は母の実家に帰らずに、この屋敷にいてくれる。
だから、使用人として働くのも、ヤスミンは平気だった。
最初は、母の喪に服さない父を憎んだ。
時が経って冷静に考えれば、毒殺した加害者が被害者を悼むはずもない。
素直に離婚を申し出れば、母は応じただろう。持参金を返すのが嫌で、殺したに違いない。
母の実家が代替わりしていなければ、「娘を養育するから持参金は返さない」と父が言って、母の父が「孫ごと返せ」と反論するとか――そんなやりとりがあったかもしれない。
まあ、こんなのは、寝る前にベッドの中で考える妄想だけれど。
継母からかばってくれず、見て見ぬ振りをする父に、体裁を整える分別もないのかと憤りを感じた。
だが、それができるくらいなら、母を形だけでも尊重するふりをしただろう。
母が社交をあまり行わなかったのは、父の浮気が有名だったからだ。
自分の父親ながら、軽蔑する。
役立たずの恥知らず。
平民の学校では、家庭教師の「貴族向けの教育」とは違う知識が得られた。
十五歳で卒業したら、上の学校に通うことなく結婚させられるかもしれない。
父が私に最低限の教育を施したのは、母が亡くなったときに十二歳だったからだろう。あと三年養えば、「貴族の嫁」がほしい家に高く売れる。
もし、もっと幼かったら……? 恐ろしくて考えるのをやめた。
もう、愛人たちが暮らしていた「馬の家」に放り込まれるのでなければ、なんでもいいと思った。
それ以上、ひどい場所はないだろうと……。




