アントルメ(甘いお菓子)
小さなお嬢様が、国を出ることを決意した。
寂しいが、幸運を祈ろう。
ヤスミン様からのお手紙は、違う名前で届いた。
郵便を使わずに、ヤスミン様の元同級生が、俺の行く園芸店に言付けてくれる。
その元同級生の家は商家で、他国にも店を持っている。
生存の事実を今のご主人様――ヤスミン様の伯父に伝えるかは、俺に任されている。
だが、ご主人様は家が傾き続けることに焦りを感じている。
薬草から作る薬が、魔法で作る薬に市場を奪われつつあるからだ。
醜聞にまみれたフェリフ家の、当主と前当主が投獄された。
その後継者争いに口を挟み、何がしかの利益を得ようと必死になっている。
ヤスミン様が虐げられていた頃には、何もしなかったくせに。
実家にいたときも、結婚してからも……彼女は肉親の情に飢えていたのだぞ。
だから、ご主人様にはヤスミン様のことを伝えていない。どんなふうに利用されるか、わかったもんじゃない。
サルマお嬢様は、典型的な政略結婚をなさった。
愛情ではなく、家の利益のために命じられた。サルマ様も当然のこととして受け入れていた。
夫になったサミールは、サルマ様の調合の価値を認めなかった。
それでも庭に薬草園を作ることを許し、俺を庭師として受け入れたのだから、それについては感謝している。
サルマ様はご婦人方に薬を分けて、代わりにフェリフ家に便宜を図ってもらうこともあった。
サミールは、そういうサルマ様のお働きに、気がつくことはなかった。
家のことは執事に任せきりで、何が必要なのかも理解していなかったのかもしれない。
サミールが愛人を囲っていることを、サルマ様はご存じだった。
夜会で余計なことを言う女がいるからだ。
新婚時代に周りをうろつかれて、調合の時間が取れなかった方が辛かったと、愛人の存在を気に病む様子はなかった。
ああ、夫のことを愛していないんだ。
それを知ったときの喜びがこみあげる感覚は、今でも鮮烈に思い出せる。
俺は、なんと下衆な男なのか。
互いに関心のない夫婦は、それなりに平和に生活していたと思う。
男子の後継者を強く求める貴族社会で、ヤスミン様お一人でいいのだろうかという疑問はあったが、俺が口に出すようなことではない。
それに……あまり愉快な事柄ではないし。
それなのに、サルマ様が毒を盛られた。
ヤスミン様が気丈に振る舞い、俺をサルマ様の枕元に案内してくれた。
初めて入る、寝室。
あの日、苦しむサルマ様の手を握ることしかできなかった。
俺はなんて無力なんだ。薬草は育てられるが、調合はできない。
毒の種類もわからない。
食中毒に似た症状だ。直感的に毒だと思うが、証明できない。
あの男か? それとも愛人か?
ヤスミン様を守らなければ。
だが、たかが庭師の俺に、できることなどなかった。
愛人とその娘は、すぐに乗り込んできた。
案の定、サルマ様の痕跡を消し、ヤスミン様の居場所を奪っていく。
サルマ様の薬草園も潰された。
手塩にかけた薬草を、雑草として抜けと命じられた。
ただ、歯を食いしばって、黙々と作業をした。
青臭い、千切れた植物の匂い。
本当なら、サルマ様の手で、薬に変わるはずのお宝たち。
悔しい。軍手の泥が付いていないところで、汗と一緒に涙を拭った。
ヤスミン様が泣いているのが視界に入る。だが、駆け寄って慰めることは許されない。
ヤスミン様が使用人として生活させられるようになった。
なんてことを!
……でも、一緒に飯が食えるようになった。
喜んではいけないのだろうが、小さな幸せを見つけてしまった。
サルマ様付きの侍女は二人いた。
一人はサルマ様の生家に戻り、一人は新しい奥様レイラに付いた。
レイラに付いた侍女は、日に日に愚痴が増えていった。
当然だろう。貴族を相手にできるマナーは身につけていても、貴族として生活したことがない女だ。
使用人に正しく指示を出すのも貴族の務め。意思疎通が上手くいかなかったら、サルマ様は「どう伝えればよかったのか」と試行錯誤されていた。
それを「私を馬鹿にして、言うことをきかない」とヒステリックになり、物を投げつけるレイラ。
結局、侍女は怪我をして、退職していった。
愛人の娘、ダリラがサルマ様の遺品を靴で踏みにじった。
だが、俺は手出しできない。相手が貴族だから。
こんな、人の心がない怪物のどこが尊いのだ? どこを敬えと?
屋敷の雰囲気が悪くなったのを、サミールはどう思っているんだろう。
飯時に、ヤスミン様が平民学校で習ったことをお話しくださる。
楽しそうに知識を吸収し、市井のことを学び、将来のことを考えている。
同級生たちに、卒業したら仕事をもらえるように交渉しているというではないか。
素晴らしい。
逞しく、自分の道を歩いて行けるだけの力を育んでいるのだ。
ヤスミン様をこの家から出すことができれば、なんとかなりそうな気がしてきた。
今だって使用人として働いているのだから、平民に混じって暮らしてもいい。
守ってくれる男性と出会って、結ばれるのでもいい。
旦那様は、これまでヤスミン様を見ようともしなかったのだから、どうかこのまま見逃してくれればと願わずにいられなかった。
だが、貴族の令嬢は、父親の決定に逆らえない。
ヤスミン様が嫁いでいった。
短い婚約期間にも、誠実な対応を見せなかった男の元に。
心配だが、俺にできることはない。
フェリフ家を出て、サルマ様の生家に戻った。
薬草を育てる腕を買われていたので、当主になっていたサルマ様の兄君にも歓迎してもらえた。
ヤスミン様の結婚相手は、父親のサミール以上にひどい男だった。
愛人がいるのは同じだが、貴族ではなく平民だという。そんなことをしたら、お家断絶もありうる。それにヤスミン様が巻き込まれたら、どうしてくれるのだ。
それでもヤスミン様はへこたれずに考え、行動した。
あらかじめ頼んでいた元同級生たちに仕事をもらって、働いていると言う。
ちゃんと個室を確保したから、落ち着いて翻訳できると笑顔を見せた。
ある日、軍手を持ってヤスミン様が訪れた。
なんということだ。
こんな、宝物は使えない。
「使いなさい」と命令された。
俺は「無理です」と泣き笑いをした。
ヤスミン様は、一世一代の賭に出るという。そのとき、一緒に国を出ないかと誘われた。
ほんとうに嬉しかった。
だが、俺はサルマ様との思い出が残る、この薬草園から離れられない。いや、離れたくなかった。
あのときだってヤスミン様がいなければ、サルマ様と共に命を終えたいくらいだった。
そして、ヤスミン様が消えた。
夫のジアド・カリムが平民との子を貴族として届け出たことが明るみに出て、大騒ぎだ。
ついでに、嫁であるヤスミン様を使用人部屋に住まわせていたことも知れ渡った。
カリム家は当主たちが捕まり、裁判で有罪が確定し、取り潰しになった。
ヤスミン様の伯父にあたる、今のご主人は、関係者として何かもらえないかとあがいていたが、無駄足に終わったらしい。
それまで交渉がなかったのに、図々しいことを考えたもんだ。
ヤスミン様の実家、フェリフ家も傾いて、消えるのも時間の問題だろうと噂されている。
あれから、数年経った。
今は、年に一度だけ幸せそうな報告がヤスミン様から届く。もちろん、偽名を使って。
返信には言葉を書かずに、薬草を押し花にして同封している。
育成が難しい薬草を差し上げることで、ヤスミン様のやる気を奮い立たせることを願っているのだが……伝わっているだろうか。
血のつながりはなくとも、愛しい子。
どんな境遇でも、へこたれず自分を見失わなかった強い娘。
こんな「馬小屋」のような国から解放されて、自由に駆けてゆけ。
――そう、願う。




