62 未来へ向けて①
じりじりと肌を焦がすように暑い夏が終わり、心地よい秋が訪れる。
夏場は夜になっても蒸し暑く、一緒に寝ていて暑苦しくなったシェリルがエグバートの胸を押し――拒絶されたと勘違いしたエグバートがショックを受けるということもあったのだが、最近は夜も涼しくなってきた。
ウォルフェンデン男爵邸の魔法研究室は、今日も明かりが灯っている。そこでは、若旦那であるエグバートがデスクに向かって、妻であるシェリルの指導の下で、魔法の練習をしていた。
今日のお題は、魔法で物体を動かすこと。
デスクには分厚い辞書やインク壺、円筒形の容器や丸い壺などが置かれており、エグバートはそれらをシェリルの指示で積み上げようとしていた。
「まずは辞書を下に敷いて、この丸い容器、ペンの順に置いていきましょう」
「……なかなか安定が悪そうだ」
「ええ、とりあえず積めばいい、と思っていると簡単に倒れてしまいます。難しいですけど、エグバート様ならできますよ。頑張ってください!」
「分かった。見ていてくれ」
それまでは少しだけ自信がなさそうだったが、妻の声援を受けると一気に気持ちが引き締まったようだ。
エグバートはふうっと深呼吸すると両手をかざし、まずは大きな辞書へと意識を持っていく。
そうしていると、ゆっくり辞書が動き、エグバートの正面に移動した。
続いて彼は普段ペン立てに使う円筒形の容器にも魔力を向け、転がった状態のそれを起こし、そろそろと空中を移動させて辞書の真ん中に置いた。
最後は、ペンだ。これを容器の上に寝かせておくのだが、ペンの重みを意識しないとバランスを崩して落としてしまう。
このペンはペン先が軽く、羽根飾りの付いた尻の方が重いので、やはり最初は何度かバランスを崩し、落としてしまった。
だが三回ほど落とすとエグバートも要領が掴めてきたようで、彼は額に汗を滴らせながらペンを動かして容器の上に載せ――魔力を消して数秒経ってもペンがその場で安定しているのを確認すると、はあっと大きな息を吐き出した。
「で、できた。どうだ、シェリル!」
「ええ、バランスよく乗せられましたね。よくできました」
シェリルは褒めると、魔法で冷やしたタオルでそっとエグバートの顔を拭いてあげた。
エグバートはやはり、訓練しても魔力量はあまり増えなかった。だがその分彼は魔法の一つ一つに集中しているので、勉強するごとに色々な形で魔法を使えるようになっていた。
シェリルはそんな夫を指導し、うまくできたら褒め、しっかり甘やかすようにしていた。
エグバートも褒められるのは嬉しいようだし、シェリルがこうして汗を拭ってあげたり頭を撫でてあげたりすると、目を細めて甘えてくる。
普段は女王の補佐としてきりりと働き、舅であるディーンの前でも礼儀正しい彼が、ご褒美をねだる子犬のように甘えてくるのはシェリルとしてもとても嬉しいし、いつも頑張る彼に心休まる時間を与えられることもよいことだと思っていた。
汗を拭いた後は、すぐに水分と糖分の補給だ。既に紅茶は冷やし、ケーキもエグバートの分を切って準備している。
それを持っていくとエグバートはふわっと笑い、ちょいちょいと手招きした。これは、膝に乗れという合図だ。
(……エグバート様ってやっぱり、ベタなものがお好きなんだね……)
元来真面目な貴公子だからかどうかは分からないが、彼は愛情を伝えるときも真っ直ぐだし、スキンシップも王道なものを好むようだ。
シェリルがとんっと彼の膝に乗ると、エグバートの視界をシェリルの後頭部が遮ってしまう。
だが彼は全く気にした様子もなくシェリルの体の両脇から腕を伸ばし、器用に茶を飲んだりケーキを食べたりしていた。
夫の膝の上で体の向きを変えて横座りになったシェリルは、ふふっと笑ってエグバートの頬をそっと撫でた。
「……本当に、毎回順調に課題をこなされていますね。素晴らしいことです」
「それは間違いなく、シェリルのおかげだ。いつもありがとう、先生。愛しているよ」
「どさくさに紛れて、先生を口説かないでくださいっ」
めっ、とエグバートの頬から唇に指を滑らせて叱ると、エグバートはとろりと甘い笑みを浮かべた。
前々からシェリルは、エグバートは叱られることが好きなのではないかと疑っていた。だがどうやら誰に叱られても嬉しいわけではなく、「腕力では絶対にエグバートに勝てないシェリルに叱られるからこそ、胸がときめく」のだそうだ。
(そういえば前に、ジャレッド様もそんなことを言われていたっけ……)
ふと、ジャレッドのことが思い出され、シェリルはことんと頭をエグバートの肩に預けた。
王都追放処分を受けたジャレッドからは出発前に手紙が届いただけで、彼に会うことはなかった。
その手紙も、「お幸せに」という一言が書かれているだけの簡素なもので、エグバートと顔を見合わせ、苦笑してしまったものだ。
きっとジャレッドは、元気でやっている。
エグバートの最後の命令を忠実に守り――シェリルたちの知らない場所で、「ジャレッド」以外の名を名乗り、たくましく生きていることだろう。
「……ああ、そういえば明日だったか。私が魔法研究所に行くのは」
紅茶を飲み干したエグバートが言ったのでシェリルは我に返り、おかわりを注ぎながら頷いた。
「そうですね。王配殿下も、エグバート様の成長ぶりをご覧になるのを楽しみになさっているようです」
「……さすがに、緊張するな。王配殿下の前で魔法の披露なんて……」
エグバートはぼそぼそ言いながら、シェリルが注いだばかりの紅茶を飲んだ。
夏に起きた事件で、エグバートは皆の前で魔法を披露することになった。
そうして女王やディーンなども交えた相談の末、旧王国軍の幹部も処分された今はもう隠す必要もないということで、エグバートが魔道士の素質を持っているということが明らかにされた。
これまで彼のことを「不良品」「廃品」呼ばわりしていた者たちは、この知らせを受けて青ざめたという。
彼らが密かに支援していた元妾妃は投獄されているし、旧王国軍の中心人物たちもことごとく処分を受けている。
それだけでなく、自分たちが罵倒していた――罵倒してもいいと思っていた元王子が魔道士の素質を持っていたというのは、かなりの衝撃だったようだ。
アリソンに聞いたところ、城の関係者の中には、「もっと早く魔道士の素質が芽生えていれば、王位継承権を奪われなかったかもしれないのに」と言う者もいるそうだ。だが、そんな仮定は全くの無意味である。
エグバートは元妾妃派たちに圧力を掛けられたことなどが原因で、魔道士の素質を自ら殺していた。
だがシェリルと過ごす日々に安らぎを感じて呪縛を自ら解き、訓練を受けることで魔道士になれたのだ。
言ってしまえば、王位継承権を剥奪されてシェリルと結婚したからこそ彼は魔道士になれたのだから、彼らの言う「かもしれない」は、絶対にありえない空想だった。
「……大丈夫ですよ。王配殿下も、純粋にエグバート様の魔法を楽しみになさっているようですもの。それに、難しいことをなさらなくていいんです。魔法がうまくいくかどうかは、気持ちで決まりますからね。楽しみながら披露しましょう!」
「……難しそうだが、努力する」
エグバートは真面目に頷いた。




