41 男爵令嬢夫妻のあれこれ・昼
ディーン視点
シェリルとジャレッドが話をしているほぼ同じ頃、王城の騎士団長執務室では。
「……失礼します、ウォルフェンデン男爵。エグバート・ウォルフェンデンです」
「……入ってくれ」
野太い声を受けて入室したのは、文官のローブを纏った赤金髪の男――エグバートだ。
休憩時間になったのなら、少し寄るように――その伝言を侍従に持たせたのは、つい四半刻ほど前のことだ。
「……補佐官の仕事は、大丈夫なのか」
「はい、ちょうど休憩時間でしたので。……まず男爵には、こちらを」
そう言って歩み寄ったエグバートが差し出したのは、もう二人の間ではすっかり見慣れた木箱。
ディーンは頷くと木箱を受け取り、開けた。その中に入っていたノートは、最初にディーンが買ったものとは表紙の色が違う。二冊目だった。
まずディーンは栞の挟まった箇所を開き、そこに新しく書かれている内容にしっかり目を通す。
それによるとどうやら昨夜、娘と娘婿は風呂上がりに髪の乾かしあいっこをしたようだ。
ディーンの眉根がぎゅうっと寄った。
「シェリルの細い指先が髪を梳る感覚は心地よく、『かゆいところはないですか?』と問う声には労りの気持ちが溢れていた」の箇所を何度も何度も見返し、ディーンは交換日記を閉じた。
そして傍らにいた侍従を退出させると、娘婿の名を呼ぶ。
「……ひとつ、相談がある」
「はい、何なりと」
「……この交換日記帳も、もうすぐページが埋まりそうだ」
「はい、間もなく三冊目に突入かと」
エグバートははきはきと言った。
ちなみに既に全てのページが埋まっている一冊目は、ディーンのデスクの、鍵付き引き出しの中にしまわれている。
ディーンはしばし沈黙した後、口を開いた。
「……この交換日記は、この巻で終わらせようと考えている」
「……」
「もう、ひとまずの役割は果たしたと俺は思っている」
ノートの背表紙を撫で、ディーンは言った。
「俺はそもそも、貴殿がきちんとシェリルのことを見るかの確認をするために、この交換日記を始めた」
もしエグバートがシェリルのことをお飾りの妻、仕方なく結婚した女、としか思っていなかったら、この交換日記はほとんどページが埋まらなかっただろう。ディーンも、エグバートが白紙のままこれを提出することさえ考えていた。
だがエグバートは元々几帳面な性格である上に、共に過ごすうちにすっかりシェリルに心を奪われている。
しかも彼はここ一ヶ月ほどで魔道士としての才覚も発揮させているようで、王配テレンスも「間違いなく、シェリルと過ごした日々が彼を変えたのだろう」と言っていた。
エグバートがシェリルを想っていることは、よく分かった。
だからもう、わざわざ日記を書かせる必要はないのだ。
「……俺がいなくてもシェリルは大丈夫だろうし、貴殿とも確かな信頼関係を築いている。それが確認できた今は、もうこれを書かせる必要もない」
「……そう、ですね」
「不満か?」
「いえ、男爵がそうおっしゃるのでしたら、私としては異論はございません」
エグバートは首を横に振ると、少々ぎこちないながらも微笑んだ。
「……男爵がおっしゃるとおり、シェリルと結婚してからの数ヶ月で、私は妻を愛するようになりました。私と共に歩いてくれると言ってくれたシェリルと、これからもずっと……ずっと、共にありたい。そう願っております」
「……」
「記録をするのはもう日課になっていたので、書く必要がなくなるのは寂しい気持ちもしますが……むしろ、書く必要がなくなったことを、喜ばしく思います」
「……そう、だな」
ディーンは胸の前で腕を組むと、しばし瞑目した。
にいさん、と舌っ足らずに呼んでディーンの足元をうろうろしていた少女は、もういない。
彼女は大人の女性になり、心から愛おしいと思う男を見つけた。
彼女を守るのはもう、ディーンの仕事ではないのだ。
「……俺は、あの日の誓いを果たせたようだな」
「男爵?」
「なんでもない。それより……まだ時間があるなら、手合わせでも願いたい」
目を開いたディーンが言うと、エグバートは青の目を丸くし、ディーンを見てきた。
「貴殿は文官として働いているため、体がなまっているかもしれないが……俺も、少し年を取った。これから老いることはあっても今以上に強くはなれない俺の代わりに、貴殿にシェリルを守る力があるか……一つ、試したい」
「っ……はい! 喜んで!」
エグバートが元気よく返事をしたのでディーンは頷き、侍従を呼んだ。
騎士団長とかつて武官として名を馳せた元王子の練習試合ということで皆が張り切って準備をする中、ディーンは目を細め、デスクに置いた日記を見ていた。
今から数年、十数年経った頃、ディーンはこのノートを手に取り――そういえばこういうこともあったな、とエグバートと共に笑いあえるようになっているかもしれない。
そうなってこそ初めて、この日記帳たちは最後の役目を果たすことになるのだろう。




