34 二人の夜
一つ嵐が過ぎ去った直後に、別の種類の嵐が到来した気分だ。
(まさか、こんなことになるなんて……)
鏡に映る自分の姿を見つめ、はあ、とシェリルは憂いたため息をつく。
「お嬢様、もっとしゃきっとなさってください。待ちに待った若旦那様との初夜なのですから」
「……あのね、リンジー。何度も言っているけれど、今晩はただ一緒に寝るだけなんだからね」
振り返ったシェリルはそう言うが、髪に塗る用の香油を混ぜていたリンジーはどこ吹く風で、「そんなの、分かりませんよ」と嘯く。
「若旦那様がお嬢様のことが好きで好きでたまらないというのは、皆知っていますもの。建前はただの同衾かもしれませんが、いざ愛おしいお嬢様と一緒に寝室に入れば、恋心が燃え上がるかもしれませんよ?」
「……」
色々言いたいことはあるが、今の状態のリンジーに何を言ってものらりくらりとかわされるだけだと分かっているので、シェリルは諦めて肩を落とした。
(さすがに、そこまではないって言っているのに)
エグバートは今日の夕方、結局待機するだけで出番のなかったジャレッドに顛末を説明するなり、どこかへ連行されていった。
しばらくして戻ってきたエグバートはなぜかぶすっとしており、シェリルを見たジャレッドは片目を瞑ると、「もし嫌なことをされたら、『こんなエグバート様は嫌い』と言っちゃってください」と謎のアドバイスをしてきた。
彼曰く、これが一番エグバートにとって堪えるらしく、「間違っても『だめ』とか『こらっ』なんて言わないように」とまで言われた。
その直後エグバートによってジャレッドは屋敷から摘まみ出されたので子細は聞けなかったが、シェリルなんかよりもずっとエグバートとの付き合いの長いジャレッドが言うのだから、そのとおりなのだろう。
(……そういえば、父様には言ってないけれど……私の方から提案したくらいだし、大丈夫だよね?)
一言一句まで覚えているわけではないが、結婚式の夜にディーンは「気持ちが通じるまでは同衾禁止」と言い、エグバートも「シェリルの嫌がることはしない」のように言っていた。
ならば、シェリルたちはもう既に心を通わせており、しかもシェリルの方から「一緒に寝ましょう」発言をしたのだから、ディーンに叱られることはないはずだ。
(……よ、よし! そろそろ行こう!)
ここはシェリルの自室で、これからシェリルが向かうのは普段エグバートが使っている主寝室だ。
結婚の前に購入したあの凄まじい大きさのベッドはこれまでエグバート一人で使っていたが、今夜は――もしくは今夜からは、シェリルもそこで寝ることになる。
これまで自分の夜を守ってくれた愛用のベッドを一瞥し、リンジーにも就寝の挨拶をしてから、シェリルはどきどきしつつ主寝室へ向かった。
ドアをノックすると、「どうぞ」とエグバートの低く耳に心地のいい声が聞こえてきたので、ドアを開ける。
「失礼します……」
一応シェリルが女主人なのだから「失礼します」はおかしいのかもしれないが、つい癖で言ってしまった。
主寝室は、書きもの用のテーブルや本棚などが揃っているシェリルの部屋と違い、まさに寝るためだけの空間だ。
部屋の中央に例のベッドがどんと据えられており、そこに腰を下ろしていたエグバートが振り返った。
おそるおそる夫に近づくと、ふわっと甘い匂いがした。
「いい匂い……」
「気に入ったか? 若い女性が好むという、就寝時用のアロマを焚いてみたんだ」
エグバートが示す先のミニテーブルには確かに、可愛らしいピンク色の器がある。柑橘類の混じった焼き菓子のような香りは甘くて、シェリルはすぐにこのアロマが気に入った。
「はい。とてもいい匂いで、おいしいものを食べる夢が見られそうです」
「はは、確かにそうだな。シェリルは夢の中も、菓子を食べたりするのか?」
「た、たまに見るくらいです! そこまで食い意地は張っていません!」
もう、とエグバートの分厚い肩を叩くと、くつくつと楽しそうに笑われた。
「食い意地が張っているなんて、思わない。ただ……甘い菓子の夢を見るあなたの顔は、とても可愛らしいのだろうと思って」
「……み、見ないでくださいよ! よだれとか垂れているかもしれないので! ……あ、そうだ。寝相が悪かったりしたら、すみません。もしお顔を蹴ったりするようなことがあれば、容赦なく押しやってください」
「あなたに蹴られることくらい、なんでもないよ。むしろ私の方こそ、あなたを押し潰さないようにしないといけないからね」
エグバートは冗談めかして言うが、もし彼が本気でシェリルの上にのしかかれば、苦しいでは済まないのは確かだ。
(……でもそれってつまり、エグバート様が寝相にも気を付けないといけないっていうことだよね?)
一人で広いベッドを占領できるときはどんな格好でもいいだろうが、シェリルが隣に寝ているとそれだけ、彼が窮屈な思いをすることになってしまう。
「……私、なるべくお行儀よく寝るようにします」
「あなたはそこまで考えなくていい。こうは言うが、私は寝相はいい方なんだ」
そう言うと、エグバートは体を屈め、シェリルが履いていたルームシューズを丁寧に外した。
ただそれだけの動作なのだが、彼の大きな手が一瞬素肌に触れ、思わずびくっと震えてしまう。
「……怖いか?」
「いいえ。ちょっと、緊張しているだけです」
「そうか。……私も、とても緊張している」
「しているのですか?」
少なくともシェリルの目には、エグバートが緊張しているようには見えない。
だが彼はふわっと笑うとシェリルの片手を取り、自分の心臓の上に手の平を当てさせた。
(う、わ……すごい、どきどきしてる……)
服越しだとよく分からなかったが実際に触れると、鍛え上げられた胸筋越しでも心臓が高鳴っているのがはっきり伝わってきた。
緊張しているのは、シェリルだけではない。
「……恋い慕う女性と、初めて一緒に寝るんだ。緊張しないわけがない」
どこか艶めいた囁きにシェリルはどきっとするが、すぐにエグバートは表情を緩めると、率先してベッドに寝転がった。
「さあ、おいで」
「……はい」
体を捻り、えいや、とばかりにベッドに身を投げ出す。
夫婦用に仕立てられた大きなベッドはマットレスもしっかりしていてそれでいてふわふわで、シェリルの体がぽわんと揺れたため、エグバートが微笑んだ。
「楽な体勢を取ればいい。……あなたは、寝るときに上を向くか? 横の方がいいか?」
「横向きが多いです。……あの、でも、やっぱり緊張するので……背中、向けてもいいですか?」
「ああ、いいよ。私も同じ方向を向こう」
まだ、夫の美麗な顔を直視して寝られる自信がなかったので、エグバートがあっさり頷いてくれて安心した。
(……背中を向けるなら、なんとかなりそう)
そうしてもぞもぞと体の位置を変え、エグバートに背を向けて横たわる。エグバートも体の向きを変えたようで、ぎしり、とベッドが軋み音を立てた。
子どもの頃はよく、アリソンと一緒に寝ていた。両親の死後はディーンが添い寝をしてくれたと思うし、革命軍時代も狭いテントをアリソンなどの同世代の女仲間と一緒に使い、寝るまでおしゃべりをすることもあった。
だが、身内でもない男性と寝るのは、これが初めてだ。しかも相手は結婚してまだ二ヶ月程度の夫で、お互い想いあっている関係。
どきどきという心臓の音が、うるさい。
黙っていろ、とは言えないので、せめてもう少し静かにして、シェリルが寝られるようにしてほしい。
ふう、と、自分以外の人間の息がわりと近いところから聞こえ、思わずびくっと身を震わせてしまった。さすがにエグバートにも気付かれたようで、彼が片腕を使って上半身を起こしたのが気配で分かる。
「……やはり、熟睡できそうにないか?」
「……いえ、大丈夫です。努力します」
「……努力しなければ寝られないくらいなら、私が別室に移るが」
「それは物理的に難しいと思うので、このままでいいです」
シェリルが言うと、背後でふふっと笑う声が聞こえ、エグバートがベッドに再び上体を横たえたのが動きで分かった。
「……シェリル」
「……はい」
「……おやすみ。あなたが素敵な夢を見られることを、願っている」
低く優しい声がシェリルの背中に掛かり、遠慮がちな指先がそっと髪の先を撫でた。
今のシェリルではまだ、振り返って夫の目を真っ直ぐ見る勇気はない。
「……おやすみなさいませ、エグバート様」
か細い声で返事をすると、エグバートが満足そうに笑い、大きな息を吐き出して上掛けを引き上げた。
まだ、少しだけ心臓の動きは速い。
だが二人分の呼吸の音を聞いているうちにいつしか、シェリルは穏やかな眠りに落ちていた。




