第96話 氷の女帝と光の魔法(2)
──やがて光が消えると。
あの禍々しい氷塊は、すっかり姿を消していた。膝から崩れ落ちる女帝の巨躯を、私は咄嗟に抱き止める。
「フロランス、離れるんだ!」
「ウルリヒ様っ!」
殿下に支えられてはいるものの声を上げられる状態の兄、そしてこちらに駆け寄るヘルフリートと呼ばれた魔人へと視線を移して、私は僅かに微笑んだ。
「大丈夫ですわ。ヴュルテン公は気を失っていらっしゃるだけです」
到着したヘルフリートの助けを借りてヴュルテン公をそっと地面に横たえると、私はミアを抱き締めた。
「ねえちゃん!」
「ミア! 怖かったでしょ、大丈夫!?」
「うん! じいちゃんと一緒だったから!」
「そっか! よかった……」
私は笑顔でミアの頭を撫でながら、頭には疑問が渦巻いていた。ヘルフリートがミアの祖父……つまり彼女は、魔人と人間との混血児だ。もしや紫眼の聖母とは、魔族の血をひく子供ということなのでは……。
「フロル! 怪我はない!?」
自分の名を呼ぶ声に現実に引き戻された私は、はっとして兄に駆け寄った。
「おにい様! 私は平気ですわ。それよりおにい様こそ大丈夫ですか!?」
「ごめん、法力切れだね……こんなふうに全力出したのは初めてだから、油断してた」
「しかしながら、あの魔王国でも一、二を争う魔術師と名高いヴュルテン公に、純粋に力で押し勝つとは……銀眼とは、すさまじいものだな」
兄に肩を貸しながら、王弟殿下は感心したように言った。
「いえ、彼のような水術師は元来あまり攻撃には向かないとはいえ……さすがに最高位魔族相手に単純な力比べで勝るのは難しいはずです。公はもとから魔力を消耗していたのではないかと」
「そういえば昨日ルウィン川を凍らせていましたわね」
「凍らせた!? あの川を!?」
「正確には、表面に頑強な氷の橋を掛けた感じです。それが奇襲のカラクリですわ」
「マジかよ……」
おにい様は珍しくらしくない言葉を使うと、ため息をついた。
「そういうそちらは、一体何があったのです? 全く状況が掴めないのですが」
「話すと長くなるんだけど……ひとまずヴュルテン公が目覚める前に、なんとかしとかないと」
「なんとかするとは、どうするのですか?」
「本当は禍根を断っておきたいところだけど……ヘルフリート卿との取引があるから、寝ているうちに国にお帰り頂くことになるかな」
「そうなのですね。では、ミアは……」
私はミアの方に近付くと、膝を折って目線を合わせた。
「ミアはこれから、どうしたい?」
「うちはね、にいちゃんとばあちゃんとこ帰りたい」
彼女はそう言って悲しそうな顔をすると、祖父と呼ぶにはまだ若い姿の魔人を振り返った。
「ごめんね、じいちゃん」
「いや……お前にはもう大切な家族がいるのだから、仕方のないことだ。だが、私が祖父だと一目で信じてくれて……ありがとう」
「だってじいちゃん、母ちゃんそっくりなんだもん!」
「そうか……ユリアにも、生きているうちに会いたかったな。まさかもう、瘴気病で亡くなっていたとは……」
ミアの祖父である男は、そこで声を詰まらせる。やがて再び口を開くと、決意を秘めた声音で兄の名を呼んだ。
「アルベール卿……私はこのミアが幸せに暮らしているうちは、エルゼスには攻め込まぬことを誓おう。なのでどうか、教会の紫眼狩りからこの子を守ってやってくれ。そしてどうか……たまに会いにくることを許してはくれまいか」
「ヘルフリート卿……確かに。承知した」
「そしてセレスタン卿。このことは他言無用にお願いできるだろうか?」
「それで休戦が成立するのであれば……私に異論はない」
「……恩に着る。ただヴュルテン公閣下と私とでは、国内での発言力も、戦力も、雲泥の差だ。閣下が動くとなれば私では止められぬとだけ、ご承知おき頂きたい」
堂々たる騎士達の会話に横槍を入れるようで気後れしつつも、私はおずおずと口を開いた。今を逃したら言うタイミングが無くなってしまうかもしれない。
「あの、実は……おにい様達が到着する直前に、疫病対策の情報を取引材料としてヴュルテン公と交渉していたのです。そのとき、僅かながら良い反応を頂いておりまして」
「本当に!?」
驚いたようにこちらを向く兄に、私はこくりとうなずいた。
「はい。……私は、ヴュルテン公と改めて対話の機会を希望したいと思っています」
「フロランス嬢、そなたは自分が何を言っているのか、理解しているのか!?」
険しい目を向ける王弟殿下を、私は真っ直ぐに見つめ返した。
「はい、もちろん」
「危険だ!」
「もとより、承知の上です」
「教会も黙ってはおるまい!」
「それはこれまで通り、こっそりとやればいいのですよ」
「バルデン辺境伯の申し出で和平には十分な筈であるのに、なぜ魔族に情報を提供してまで協力を要請するのだ! 人族同士の連携が先ではないのか!?」
「それは……私の求めているとある薬木が、魔族の領域に生えている可能性が高いためです。もっとも、そう一朝一夕で交渉できるとは思っていません。仕切り直したからには、こちらもヴュルテン公と対等に交渉できるだけの実力を──!」
「フロランス、そこまでだ」
常に穏やかな兄にいつになく強い口調で名を呼ばれて、私は沈黙した。
「ベルガエ大公殿下、我が妹が御無礼つかまつりましたこと、深くお詫び申し上げます」
「いや……私も言い過ぎた。議論はここまでにして、今回は忘れよう」
「は。有り難き幸せに存じます」
私は頭をガツンと殴られたような気がして、深く項垂れた。兄の態度も、当然だ。私は倍近くも歳上で確たる実績もある王族相手に、強い口調で反論を繰り返すという……失態を演じてしまったのだ。
優しいこの人になら、少々出過ぎたことを言っても大目に見てくれるだろうと……立場を忘れて、甘えてしまっていたのである。
「寛大な御処置を賜り、有り難う存じます」
そう言ってさらに深く頭を下げてから、神妙に見上げると……彼は一瞬寂しそうな表情を浮かべたかと思えば、すぐに顔を引き締め、言った。
「もうよい。ヴュルテン公が目覚める前に、撤収の準備を」




