第93話 氷公急襲
強力な魔術を背景に恐ろしい強さを誇る上級の魔人達だが……人間の法術師と同じ状況で、その割合はとても少ない。では魔族軍の主力は何かというと、下級の魔物である醜小鬼や食人鬼たちである。
醜小鬼ならば訓練されていない農民でも一対一で負けないくらいだし、食人鬼クラスの相手でも一般兵が数の有利で押し包めばなんとか勝てるくらいだ。
私は片手でエメから届いたキッシュをお腹に詰め込みながら、懐からギリギリ片手に乗るサイズの小さな囲棋盤を取り出した。これはあの囲棋の遠隔対戦に使っていたものをミニチュア化して、火術師ならば誰でも扱えるように兄が改良したものである。
小さく呪文を唱えると、細かい升目が切られた板にたちまち小粒の炎がいくつも燃え上がる。敵座標を赤、味方座標を青い炎で表したその戦術マップは、各ユーザーが確認した敵味方の座標と規模を手動で更新して共有するという、とてもソーシャルな逸品だ。未だリアルタイムな連絡手段がほぼないこの世界では、革新的な存在だろう。
盤上で揺らめく小さな炎達を眺めながら、私は首をかしげた。ここピエヴェールの街は、南北に細長いエルゼスの真ん中より少し南寄りにある。だが三つに分かれたガリア側の勢力は、右往左往しながら少しずつ北の村や砦の防衛へと、領都から引き離されているようだった。
対するバルデン側も複数に部隊を分けていたが、中でも辺境伯自らが率いる少数精鋭の部隊……その神出鬼没な戦いぶりは、まるで三十八年前の小夜啼鳥と呼ばれたおじい様のようである。
このまま北へと向かったら、負傷兵の速やかな後退に支障が出てきそうだが……果たして敵の狙いはそれだろうか?
──いや、そんなのは後方の発想で、前線の発想ではないだろう。まあ、私なんかが気を揉むだけ無駄なのかもしれない。余計なことは考えず、今はただ、自分にできることをやるだけだ。
だが、そんな私の違和感は……半ば的中、そして半ば外れることとなる。
突如、ルウィン川の向こうに沿って広がる深い森から、その軍団は現れた。上級魔人の割合は不明だが、その数四百余り。そしてその旗印は──バルデン辺境伯領の向こう隣にある、ヴュルテン公領の軍勢だ。
知らせを聞いた私はいてもたってもいられず、病棟のすぐ近くにある領主館へと駆け込んだ。そこにある街で一番高さのある物見塔に向かうと、見張りから望遠鏡を借りて目を当てる。
肉眼では、まだとてもじゃないが見えない距離である。だが最近さらに精度を上げている望遠鏡は、対岸に広がる『黒の森』に集う魔人達の姿を、克明に映し出していた。
未だ見えない船は森に隠してあるとしても、この数の渡河にはそれなりの時間がかかるだろう。この距離でも対岸の動きに気付ける望遠鏡があって、本当に助かった。伝令はすでに放ってあるし、何とか援軍の到着まで持ちこたえられるはずだ。
とはいえ、あまり慌てて引き返してはバルデン勢とヴュルテン勢との挟み撃ちになってしまうかもしれない。なんとか出来るだけ長く渡河に時間がかかってくれたらいいのだけれど。
私は望遠鏡を見張りの兵士に返すと、物見搭から降りようと階段を下り始めた。その時。
「ヴュルテン勢、移動始まりました!」
「どういうこと!?」
物見の叫び声が聞こえて、私は慌てて頂上へと引き返す。正式に記録を取り始めた物見から望遠鏡を借りるのは遠慮して、私は私物の小さなオペラグラスで川の向こうに目を凝らした。
続々と川向こうに集う影。そこに船らしき姿はない。
──だが。
遠目にもハッキリと、キラキラと輝く何かが……向こう岸からめきめきと成長を始めていた。大型船が下れるほどの川幅、さらに水量も充分な大河を覆うようにこちらへと伸びゆくそれは……まさか……。
私の脳裏を、兄から聞いた『氷の女帝』という二つ名が過る。
「まさか、氷の……橋……?」
物見の兵士のものだろうか。愕然とした声が聞こえて、私は望遠鏡を覗き込んだまま硬直する兵士を見上げた。
──それから間もなく。
「ヴ……ヴュルテン勢……、渡河始めましたッ!!」
物見の叫び声と共に、辺りは一気に騒然となった。
その後、なんとかお役目に踏み止まった物見の報告によると──敵の主力は二十余騎の魔人の他に、二百の醜小鬼、そして同数の人狼である。
バルデン勢ではあまり見かけないその人狼という種族は、狼のような鋭い牙と爪に、高い知性、そして恐ろしい俊足を持っている。魔人の騎馬兵たちは、各々の背に小鬼を乗せた人狼たちを伴って……氷で架けた巨大な橋を、真っ直ぐに走り抜けて来るというではないか。
流れている川の表面を軍馬で走れるくらい凍らせるなんて、いくら魔法のあるこの世界でも聞いたことのない荒業だ。
渡河を終えたヴュルテン公率いる部隊はあっという間にピエヴェールの街壁に迫り、街は騒然となった。あのバルデン勢のおかしな動きは壮大な陽動で、狙いはヴュルテン公による領都ピエヴェールの制圧だったのだろうか。こちらは領都をあまり重要視していなかったが、魔族側がおじい様の不在を知らなかったとすれば……充分にあり得る話である。
さらに誤算は、起こった。ピエヴェールの街に入るための大門は、川の方へは向いてない。街道の都合で九十度ほどずれているのだが、普通であれば門を破りにくるはずである。だがヴュルテン公は、そうしなかった。川に面した側の壁へと、真っ直ぐに向かってきたのである。
この街の壁は、とにかく正門側への迎撃力を高めるように設計されている。まさか分厚い石の壁がそびえる部分を攻められるとは、考えられていなかったのだ。
正門を守っていた弓兵達が慌ててそちらに向かっている間に。人狼の背から飛び移った小鬼たちが、次々と壁に取り付き始めた。その手に持っているのは、魔術爆破の触媒らしきものである。彼らは壁を一心不乱によじ上り、石垣の隙間に触媒を詰めてゆく。
だがこちらの兵士達は、その様子をただ何もできずに眺めているだけだった。大型の弩砲や投石器は、いわずもがな。弓矢ですら、ぐるりと円を描く街壁に取り付かれてしまうと、目標を真っ直ぐ狙えなくなってしまうのだ。
私はその話を聞くやいなや、居ても立ってもいられずに走り出した。そうして現場に到着した私の目に入ってきたのは、わらわらと右往左往するだけで手をこまねいている、多くの騎士達の姿だった。
その中に見知った顔の若い騎士……バルテル卿の姿を見付けて、私は声を上げた。
「何してるの!? 壁に小鬼が取りついてるんでしょ? 早く何とかしなきゃ!」
「しかし姫様! 壁の内にいる我らからは、手を出すすべがないのです!」
「壁を上ってくるんでしょ? ならば上の通路から岩でも何でもいいからガンガン落としてやればいいのよ!!」
私は昔ミヤコが見た大河ドラマのワンシーンを思い出しながら、拳を握った。
「しかしそんな岩なんて、こんな街中に都合よく落ちていませんよ!」
「そんなもの、その辺の石造りの倉庫でも崩して作りなさい! それに落とすのは熱湯でもガラクタでも、何でもいいから! 早くやるよう他の者たちにも伝えて!!」
「は……、はいっ!」
そんな岩落としは原始的な手段だがなかなか有効だったようで、敵の作業スピードは目に見えて低下した。だが、完全に止めるまでには至らない。落下物の合間を縫い、じわじわと爆破の術式が完成しているようである。
ヴュルテン公自身はどうやら魔力が尽きているらしいのは、ここにきてわずかな救いだった。だがこのままでは、街壁が崩れるのは時間の問題だろう。
せめて通常通り第一報から渡河まで半日も空いていれば、街中がこれほどまでに混乱することは無かったのだが……。兵士の百倍近い非戦闘員達のパニックが、今の状況では最も怖いものとなっていた。パニックは人々の諍いを生み、都市機能を麻痺させて……そして行き着く先は、暴徒である。
ならばその不満の暴発を防がねばならないが……皆に冷静さを取り戻してもらうには、適切な呼び掛けが必要だ。大勢の前で演説するなんて考えただけでも気が滅入るばかりだが……今ここにいるロシニョル家の人間は、私だけ。頼れる兄は、いないのだ。
──その時。
ちょうど良いタイミングで慌てたように領主館に現れたエヴァンドロ司教を取っ捕まえて、私達はマクレ男爵のもとへと急いだ。




