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【書籍化】ナイチンゲールは夜明けを歌う  作者: 干野ワニ
十章

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第92話 無力

 クリミア戦争といえば連合軍側であるナイチンゲールの名が有名だが、実は敵対するロシア側の野戦病院でも革新的なことが始まっていた。それは、トリアージの導入である。その初期の分類はごく簡単な三つであり、治療を急がずともよい『軽症』、急いで治療すべき『重症』、そして……『手遅れ』である。


 ここ数日の戦局はさらなる激化の一途を辿り、新たに運ばれてきた負傷兵に、今日も私は手早く三種の印をつけていっていた。だがその中に見知った顔を見付けて、私は思わず息を飲む。手順通りの確認を終わらせて、苦しげに差しのべられたまま魔術で炭化した指先をそっと握りしめると……私は一筋、涙をこぼした。


 彼はもう、『手遅れ』だ。

 いや、今すぐピエール先生に頼んで集中的に治療してもらえば……もしかしたら、助けられるかもしれない!


 私はがばっと立ち上がり──だがそこで、何とか自分を押しとどめた。命は平等だと、つい先日貴族たちにご高説垂れたばかりじゃないか。


 知り合いだからと処置の優先順位を贔屓(ひいき)しようとするなんて、私も所詮は同類だったのだ。手遅れの患者を必死に治療している間に、何人の重症患者が命を落とすことになるだろう。現場の限られたリソースを最大限に活かすとは、そういうことなのだ。


 せめて私に治療呪文が使えたら、この罪悪感を少しは減らすことができたのだろうか。……私はあふれ出す無力感に、ぐっと奥歯を噛みしめた。



 *****



 まともに眠る時間もないまま、数日が過ぎた。看護師達には三交代でシフトを組んでいたが、私はたまに倒れ込むようにほんの僅かな仮眠を取ったら、すぐに目を覚まして働いた。限界まで働き続けていないと、罪悪感に押し潰されてしまうような気がしていたのだ。


 それは──開戦からずっと転戦を続けていたベルガエ騎士団が、休息と補給を兼ねてピエヴェールに後退してきた日のことだった。


 にわかに人の増えた貴族用の野戦病院からは患者があふれ出し、平民用の仮設幕舎まで目の回るような忙しさである。治療のかいなく亡くなった兵士が、今日も病棟から運び出されていく。だがその空のベッドに寂しさを覚える暇もなく、次の患者が運び込まれた。


「待って、まだ敷布を変えてないわ!」


「そんなの、別によいではありませんか。まだまだキレイなもんですよ」


「いいえ、ダメよ! 目に見えない瘴気が残っている場合もあるから、必ず新しいものに交換しなくては。すぐに探してくるから、処置を始めていて!」


 護衛を連れるどころか灯りを持つ時間すら惜しんで、私は夜道へと駆け出した。僅かな月明かりを頼りに近道である建物の合間を通り抜け、静かな裏道を物資の保管場所へと急ぐ。


 その時。

 暗闇からぬっと突き出した手が、私の腕を掴んだ。


「なっ……誰!?」


 だが男は無言のままで、私を暗がりへと引き倒す。背中が固い地面に打ちつけられ、ひゅっと肺から息が押し出された。次の瞬間、引き毟られた上着のボタンが弾け飛び、首もとに冷たい夜風が流れ込む。


「いやっ!! 何す……」


「静かにしろ! おとなしくしてりゃ悪いようにはしねぇからさ……」


「んぐっ……!」


 鷲掴むように硬い手で口を塞がれて、私は恐怖に身を捩った。血と汗と酒の臭いが鼻を突き、無遠慮に服をまさぐる手つきに嫌悪感がこみ上げる。だが戦場帰りらしき男の身体はずっしりとして鋼のように固く、いくら押してもびくともしないのだ。


「チッ、どうなってんだよこの服! ちっとも取れねぇな!」


 スカートの下にズボンを穿いているなんて考えてもいなかったらしい男は、そう吐き捨てるように言って私の口許から手を離す。ベルトを外そうと咄嗟に両手を使おうとしたのだろうか……ようやく自由になった口で、私は叫んだ。


点火(イグニオ)!!」


「ぎゃあっ!! こっ、この(アマ)あっ、よくも!」


 燃え上がる服を脱ごうと躍起になる男から……私はこの隙に逃げようと、腕に力を込めた。まだ震える膝を叱咤して、何とか立ち上がろうと努力する。


「てめぇ……許さねぇ!!」


 だが私が立ち上がるより……逆上した男が拳を振り上げる方が、先だった。


 ああ、こんな奴でもできるだけ傷つけたくはないなんて……半端に手加減なんて、するんじゃなかった──。


 私は自分の甘さを後悔しながら、思わずぎゅっと目をつぶる。そして身を小さく竦めた、その時。


「そこで何をしている!!」


 声と共に駆け寄る足音が響いたかと思うと、間近で重たい打撃音──。


「無事か!?」


 聞き覚えのある声に恐る恐る目を開けると。そこにあったのは、見慣れた白い仮面だった。


「殿下……」


 地面にへたりこんだまま、私は小さく呟いた。緊張の糸がぷつりと切れて、涙が頬を静かに濡らす。


「だいじょうぶ、です……」


「すまない、遅れた」


 そこで彼は、私の着衣の乱れに気づいたのだろうか。黙って自分の外套(マント)を外すと、私の身体を包み込む。


「何の騒ぎだ!」


 見廻りの兵士が、ようやく異変に気付いたのだろう。駆け寄ってきた兵士はそこに総司令の姿を見付け、慌ててピンと姿勢を正した。


「これは大公殿下!」


「この者がエルゼス侯爵令嬢に無体を働こうとした。身なりからして傭兵だな。後で処断するゆえ、懲罰房へ入れておけ」


「はっ!」


 兵士が昏倒したままの男を引き摺ってゆくと、殿下はまだ立てないでいる私の(そば)に片膝をつく。そうして肩で息を吸い込んだかと思うと、珍しく語気を荒げた。


「何故こんなところに一人でいるのだ!」


 だがその剣幕に私がびくりと身体を震わせると。彼は一瞬ハッとしたように目を見開いて……それからゆっくりと、今度は(さと)すように話し始めた。


「今回は偶然そなたを探していたから間に合ったが……護衛を付けずに出歩く行為は感心しない」


「申し訳、ございません……」


「私が何故参陣を許可しなかったのか、こんなことになるのなら、はっきりと言っておくべきだったな。初陣のアルベール卿やジャン=ルイ卿も、どうやら誤解していたようだが……戦場で気の立った男共の中に女一人で身を置くとは、こういうことなのだ。自らの死地を(さと)った男が駆られる本能は、己の種を遺す事。恐怖は倫理を麻痺させる。どうせ死ぬのだから、と」


 私が押し黙ったまま項垂(うなだ)れると、殿下はため息をついた。


「フェルナンから、病棟業務への従事を許した経緯も聞いたが……相手を過分に信用し危険に身を晒す行為は、美徳ではない。もういいから、後は下の者に任せて安全なところで身を休めておけ。そなたがこれまでに構築した仕組みは、そなたがいなくとも充分に機能するだろう」


「護衛を付けずに行動したことについては、謝罪申し上げます。でも領民達が次々と死んでゆく……この惨状で、何もせず黙って見ていることなど……私にはできません」


「……そなたは、このごろ戦場の天使などと呼ばれているらしいな。だがそんな今にも過労で死にそうな顔をした天使が、どこにいる」


「天使とは……美しい花をまきちらす者ではなく、苦しむ人のために戦う者だ。と……私の尊敬する御方の言葉です。……本望です」


「そんなことを言って、もう何日しっかり休んでいないのだ」


「それは……殿下も同じでしょう?」


「馬鹿を言うな。そなたと私では、鍛え方が違うのだ。私は戦場で剣を(いだ)いたままでも休むことができる。そなたのようなご令嬢とは訳が違う」


「たとえバカだとしても、私には黙って休むことなんてできません。貴方の国の民が、次々と死んでいくのですよ? それでも貴方は黙っていられるというのですか!?」


 身を包む外套をきつく握りしめながら、私はとうとう声を上げた。涙の跡を拭いもしないまま顔を上げ、仮面の奥の瞳を睨む。


「……私は、ただの小さな人間だ。民の命に、私情で重みを付けてしまう」


 彼は鋭く見上げる私からそっと目を逸らすと、皮肉げに口許を歪めた。


「君や兄王のように、民を平等に愛することなどできそうにもない……矮小(わいしょう)な、ただの人間だよ」


「殿下……」


「……そろそろ行くか。立てるか?」


 そう言って彼は私に手を伸ばし……だが届く寸前で、拳を握って引き戻す。


「すまない、今は男になど触れられたくない気分だろう。しばし待て、いま侍女を呼ばせて──」


「いえ、大丈夫です」


 私は僅かな意地をかき集めて、殿下の言葉を遮った。


「ひとりで、立てます」


 膝にありったけの力を込め、借り物の大きな外套を掴んで立ち上がる。そうしてしっかりと両の足で立つと、深く頭を下げた。


「ご迷惑を、お掛け致しました」


「迷惑だなどと、思ってはいない。ただ……そなたはもう少し、自分を大切にした方が良い」


「御言葉、痛み入ります」


「その様子では……()めるつもりはなさそうだな」


「申し訳ございません……」


「本当は、できるなら……ここでそなたを守っていてやりたい。だが私は、この地を守らねばならぬ。だから……」


「過分なるお心遣い、有難き幸せに存じます。今後は重々気を付けて参りますので……どうぞエルゼスのことを、宜しくお願い申し上げます」


 私は再び顔を上げ、仮面の奥に光る目を見詰める。彼は少しだけ寂しそうに黄玉(トパーズ)の瞳を揺らすと……ややあって、低く呟くように言った。


「……了解した。では、行こうか」


「はい……」




 ──翌日。

 早くも()の騎士団は、戦場へと戻って行った。


 僅かな休息時間を割いて助けてもらったのに、そういやお礼すら言ってない……。今さらながらに気付いた私は物見台に駆け上がると、返しそびれてしまった外套を抱きしめながら、ベルガエ騎士団の旗印が消えた方角へと深く頭を下げた。


 そうして私も……再び自らの戦場へと、戻って行ったのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] いやぁ 戦場で気の立った男共の中に女一人で身を置くとは、こういうことなのだ。自らの死地を覚さとった男が駆られる本能は、己の種を遺す事。恐怖は倫理を麻痺させる。どうせ死ぬのだから、と」 ↑ 無…
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