第90話 全てを捨てて、逃げませんか?
ようやく一般兵用幕舎を取り仕切る権限を手に入れた私は、まず全力で環境作りに注力し始めた。幸いだったのはここを病棟として使用し始めてまだ間もないことから、衛生状態がそこまで悪化していなかったという点である。
私はナイチンゲールの『看護覚え書』を必死に思い出しながら、まずは環境整備に尽力した。だが環境がそこそこ整ってくると、ある大きな問題が浮き彫りとなった。そう、医師がいないのである。
簡単な処置を施すだけなら私たちにも可能だ。だが手術が必要なレベルの重傷者になると、ケア以上の手が出せないのが現実だった。ミヤコの記憶から見よう見まねで医師の真似をしてみようにも、ここには道具もなければ薬品も、何もないのである。道具の使い方は分かっても、作り方は分からないのだ。
設備さえあれば助けられる命だと知っているのに、ここでは助けることができない──それは私にとって、残酷な現実だった。
フェルナン卿をはじめとして、私達の『看護』という取り組みに興味を持った騎士団所属の治療術師たちが、視察のついでに重傷者の傷を塞いで行ってくれることはある。だがそれはあくまでも、彼らの手が空いているときだけの話だった。
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すっかり一般の行商人の往来が途切れた街の門を、前エルゼス侯爵の紋章印を受けた隊商がくぐった──その知らせを受けて、私は急ぎ領主館へと向かった。
そこにあったのは山のような物資と、いつもの御用商人。そして、見慣れぬ顔の四十がらみの男性の姿である。
その見慣れぬ男性……トゥーサン男爵ピエール・ド・バロー卿は、男爵位ながら強力な治療呪文を扱える地属性の術師である。かつて奪還戦争を共に戦った祖父の戦友の息子だという彼は、祖父からの依頼でわざわざこの危険な戦地へと足を踏み入れてくれたとのことだった。
「では、早速治療に参ろうか」
「あ……ありがとうございます! でも、長旅でお疲れになっているのでは……」
「何のこれしき! 私もこう見えて従軍の経験もある騎士の端くれだよ。ご令嬢よ、お任せあれ」
そう朗らかに言うピエール卿に救われる思いがして、私は深く頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます。どうぞ、苦しむ人々の治療を……よろしくお願い致します」
「ははは、そうかしこまらないでくれ! 私は父が昔交わした約定を果たしに来ただけなのだからな」
そう明るく笑ってくれたピエール卿の案内を師長のネリーに頼み、私は残って商人が持ってきた物資の確認を始めた。
「こんなにたくさん……よく、持って来られたわね」
この国には、まだ医薬品という存在はほとんどない。その内訳はたくさんの真新しく清潔な布地と乾燥させた薬草類、そして砂糖などの食糧品が主だった。しかしこの何もかもが不足する状況では、どれもが有り難いものである。
「弊商会ではこういった有事に商機を逃さぬよう、常々準備をしておりますので」
いつもの営業スマイルを浮かべる商人に、だが私は、困ったような視線を向けた。
「でもこんな危険な場所に、わざわざ出向いてくるなんて……荒事が専門の人を寄越せば済む話でしょう」
「御心遣い痛み入ります。しかし今回の件を人任せには出来なかったことには、理由がございまして」
ギィは急に笑みを消すと、声のトーンを落として言った。
「前侯爵閣下からの御用命には、続きがございます」
それだけ言うと。彼は私に向かい、すっと利き手を差し出した。
「フロランス様、私めと共に王都へ参りましょう」
「え? 何を言っているの?」
「トゥーサン男爵様をエルゼスへご案内するのと入れ替わりで、フロランス様を王都へご案内すること……それが此度の閣下からの御依頼全容でございます」
「おじい様が……」
「関係各所へのご連絡などは、閣下が良きにお計らい下さいます」
「私に、逃げろと言うの?」
「どうぞ、この手をお取りください。道中の安全はヴァランタン商会が……いえ、私が、保障致します」
いつもの薄い笑みを消したまま、彼はじっとこちらを見つめた。切れ長の瞳はいつになく光を帯び、その真剣さを物語っている。だが私は少しだけ挫けそうになる自分を抑え込むと、ぐっと膝に力を入れ、胸を張った。逃げたくないといえば、嘘になる。でも──
「……いいえ」
そして自分に言い聞かせるように、腹の底から声を出す。
「わたくしは、エルゼス侯爵ロシニョル家の娘。領民達を置いて逃げることなど出来ないわ」
きっぱりと言い切る私を前にして。商人は再びいつもの薄笑いを顔に貼り付けると、差し出していた手を引いて自らの胸元に当てた。
「さすがは我が令嬢、フロランス様にございます」
「依頼を完遂できない状況にして悪いけれど、おじい様には私の方からお断りしたと伝えておくわ。報酬の方はきちんと全額お支払いします」
「いえ、フロランス様のお手を煩わせる必要はございません。閣下からはお嬢様の方からお断り頂いた場合、無理強いする必要はないとのお言葉を頂いております」
「そう……」
私はおじい様がどんな気持ちで私の脱出を依頼したのか、その上で無理強いしなくてよいと言ったのかを考えて……そっと目を伏せた。おじい様の想いを無駄にしないよう、必ずや生きて家族のもとに帰らなければ。
「フロランス様……どうぞご武運を」
「貴方も、帰路の道中くれぐれも気を付けて。全てが終わったら、また会いましょう。良い新商品の構想があるのよ!」
ギィは一瞬哀しそうな笑みを浮かべたかと思うと……すぐにいつもの笑顔で表情を覆い隠した。
「それはそれは、必ずやご無事でまたお会いできますよう。……王都でお待ち申し上げております」
「ええ、またね!」




