第89話 救護幕舎の惨状(2)
「ひどい……」
幕舎の中を一目見た瞬間。私はそう、思わず呟いた。
法術師の治療が受けられるのは、まず貴族。次いで余裕があれば、ギリギリ準貴族である騎士階級の者達まで。平民が治療呪文の恩恵を受けられることはない……それは充分に、分かっていたつもりだった。
だが現実は、それ以下のものだった。平民の兵士達はまともな医師どころか世話人もほとんどいない状況で、粗末な敷布にところ狭しと転がされ……ただその死を待つのみの状態だったのである。
衛生状態が悪いとか、これはそういうレベルの話じゃない。ナイチンゲールの伝記に出てくるクリミア戦争は、十九世紀半ばの、つまり近世の出来事だ。この中世暗黒時代みたいな世界の野戦病院、いや仮設の救護所が、それと同じ程度の状況だろうなんて……私はなぜ、思い込んでしまっていたのだろうか。
あまりの様子に頭に血が上った私は幕舎を飛び出すと、ティボー子爵達の姿を探してずんずんと道を進んだ。先程と同じ場所でまだ立ち話を続けている二人を見つけて、私は声を上げる。
「ティボー子爵フェルナン卿!!」
「これはフロランス嬢。どうされましたか?」
怒りの形相を隠そうともしていない私を見て、ティボー子爵が困ったものを見るかのように片眉を上げた。
「あれは……病棟ではありません。棺桶に閉じ込められて死を待っているだけではありませんか! なぜろくに世話人すらいないのですか!」
衛生兵による応急手当が行われた状態で運び込まれているエルゼス兵ですら、あの地獄のような状況なのだ。ロートリンジュ兵の幕舎なんて、想像するのも恐ろしい状態だろう。
「彼らは平民です。わざわざ世話をされるような立場の者達ではありませんよ」
「しかし傷病者です! 医療を必要とする人々は、みな平等な存在です。そこに貴族も平民もありません!」
「ご令嬢は戦場というものをご存知ではない。とにかく人手が足りないのです。仕方の無いことでしょう」
「だからその人手を、提供しようというのです!」
さらに一歩、詰め寄る私。だが駄々をこねる幼な子を見るように、ティボー子爵はやれやれといった表情で首を振った。
「だから、後詰めといえど、ご令嬢のお遊びで出来ることではありませんと散々言っておるでしょう。忙しい我等の手間を増やさないで頂きたい」
「今の私は令嬢ではなく、エルゼス侯爵の代理としてここにおります! 我が領民が苦しんでいるのを、黙って見逃すことなど……できません!!」
私はとうとう、我慢できなくなって高く声を張り上げた。──だが。
向こうからざわざわと巻きおこった喧騒が、私の声をかき消した。
「何事だ!」
急に険しさを帯びたティボー子爵の声に、バタバタと走ってきた兵士が答えた。
「ロシニョル家の若い騎士達が喧嘩をしているようです!」
「何だと!? すぐに……いや、そうだ」
何かを思い付いたらしい子爵は、途端に私の方へくるりと向き直る。
「ではフロランス嬢、貴女がエルゼス侯爵の代理だというのなら……彼らを止めて頂けますか? 救護所とはいえ、ここは戦場です。戦場に立ちたいと仰るのであれば、貴家の家臣ぐらいきちんと御して頂かなければ」
「……分かりました。喧嘩を止めることができたら、一般兵の看護はお任せ下さるのですね」
「ええ。騎士に二言はありません」
「わかりました。参ります」
「お待ち下さいフェルナン卿! まだ年若きご令嬢に、何という酷なことを!」
騎士達の方へと足を向ける私を見て顔色を変えるマクレ男爵に、だがティボー子爵は事も無げに言い放った。
「構わんよリオネル卿。あのヴィルジール閣下のご令孫だぞ。纏っている精霊の数からしても、術師ですらない準貴族共など敵ではないよ。だが気の立っている兵士相手に物怖じしなければ、の話だ。どうせ手も足も出るまい」
聞こえよがしに話す声を聞きながら、私は内心困っていた。
水術師なら頭から冷水を浴びせたら済む話だし、風術師でも風圧で穏便に止める方法があるだろう。だが私の扱う火の法術では、どうやってもケガをさせるリスクがつきまとう。大事な家臣にこんなところでケガをさせるわけにはいかないのだ。
血の気が多く功名心に逸る若い騎士達にとって、ご令嬢の護衛なんかを名目に後詰めに配置されることは、ストレスとなっていたのかもしれない。
どうすれば──
悩んだ結果、私はまっすぐに掴み合う二人へと向かって歩き続ける。一瞬間合いをとった二人が、拳を握りしめ再び地面を蹴った。そのとき。
悠然と歩き続けた私は、何もせず二人の間に立ち止まった。
「なっ、危ない!」
ニヤニヤと傍観していただろうティボー子爵の声音が、一瞬にして焦るものに変わった、その瞬間──
今まで周囲が見えないほど殺気だっていたはずの二人の騎士は、咄嗟に拳を地面に叩き付けると、膝をついて項垂れた。
「「我が令嬢、フロランス様!」」
「エルメ卿、そしてバルテル卿。訓練に精が出ておりますね」
「ははっ」
「姫様が我らの名をご存じとは……光栄にございます!」
喧嘩をしていた自分達を恥じいるように、二人の若い騎士たちは赤面して顔を伏せた。
「もちろん、叙勲式での貴卿らの宣誓を忘れてはおりません。ここは前線ではありませんが、戦略上の要衝です。貴卿らの働きに期待しています」
「「ははーっ」」
こっ……こわかったあああ!!
私は今にも心臓が口から飛び出しそうなのをなんとか飲み込みながら、それを隠して穏やかな笑みを浮かべた。
今回だけはさすがに、まじで殴られたと思った。もしタイミングが悪かったら彼らも止まれなかっただろうし、もう二度と、こういう無茶はやらないでおこう……。
「これは……お見それしました。まさか法術を使わず諍いを止めるとは」
まだ信じられないといった様子で、駆け寄ってきたティボー子爵が言った。
「私は当家の騎士たちを信頼しておりますから」
できるだけ内心のビビりを表に出さないよう、私は優雅に微笑んで見せる。
「それでも、憶さず立ちはだかるとは並みの覚悟ではありますまい! いや、あの豪傑ヴィルジール閣下のご令孫とはいえ、感服致しましたぞ!」
つい先ほどまで子爵の隣で青い顔をしていたマクレ男爵が、上機嫌で声を上げた。
「恐れ入ります。ではお約束の通り、一般兵の看護はお任せ下さいますね?」
「もちろん、治療専門とはいえ私も名誉あるガリア騎士の端くれ、二言はありませぬ。必要な物資についても出来うる限りの便宜を図りましょう」
「有難う存じますわ」
私は精一杯の見栄をはると、完璧な淑女の礼を送った。
「ただし……重々お気をつけられよ。どこへ行くにも、必ずや護衛騎士を伴い行動されるように。暗い場所へは極力近付かれないように。それらを守られなければ、すぐに止めて頂きますよ」
「ええ、かしこまりました」
前線でもない街中、それも兵士だらけで裏通りでもない病院区域なのに、なんだかすごく大げさだなぁ。たぶんあの過保護な上司の命令だろうけど、付き合わされる部下も大変だ。
私はそんな不敬なことを考えながらも、今は準備を急ぐことにしたのだった。




