第87話 開戦、そしてすれ違う思い
あれからしばらく、穏やかな時が流れた。農村はすっかり実りの季節を終えて、今年は収穫祭こそ自粛したが豊かな空気に包まれている。
もうこのまま開戦せず終わるのではないか……そんなムードが、領内に広がり始めた秋の暮れ。川沿いの砦に配置していた望遠鏡のうち一つに、森の木々に隠れるようにして渡河船の仕上げを急ぐ対岸の様子が、ハッキリと映し出されたのだ。
途端に騒然となったピエヴェールの領主館には臨時の本陣が敷かれ、行商人達が消えた市場はどこか閑散としつつも、慌ただしい空気に包まれている。
ロートリンジュから出発した増援一千が早くもピエヴェール近隣に到着したという知らせを受け……私は渋る兄を説き伏せて、共に本陣へと向かった。
ベルガエ大公とロートリンジュ駐屯軍司令マクレ男爵、そして今朝到着した増援の指揮官は、すでに会議室に入っているらしい。
急いで向かった私達は大公付の騎士が開いた大扉をくぐり──室内に予想外の人物を見付けて、揃って目を見張った。だがひとまずは、この場で最も偉い人へのご挨拶からである。
「大公殿下、遅参の非礼をお詫び申し上げます」
胸に手を当て頭を下げる兄に倣って、私は黙って淑女の礼をとった。
「よい。まだ我らも集まったばかりだからな」
「寛大なるお言葉、幸甚に存じます。さて、ロートリンジュからの増援を率いてきたのがルイ……いや、ジャン=ルイ卿であったとは、正直驚きました」
「久しいな、アルベール。……何故いるのだ、フロランス」
まさか急に名を呼ばれるとは思っていなくて、私は慌てて顔を上げた。
「こ、これはジャン=ルイ公子、ごきげんよろしゅう。公子は今、王都にいらしたのでは……」
「ベルガエ騎士団の派兵が決定した時点で、一時帰郷を願い出た。こういう場合、隣領から次男が出るのは妥当だろう?」
お隣のピンチになんて、もう若くない当主や大事な跡継ぎを出すまでもない。長男は自領で様子見しつつ守備を固め、出兵するのは次男以降の男子かそこそこの重臣というのが、こういう場合の定石だ。
確かにその通りなんだけど、まさか馬を飛ばしても片道十日以上かかる王都からわざわざ戻ってきてたなんて……。中央で順調に出世してると聞いていたけど、そんなに休んで大丈夫なのかな?
微妙に心配した私が、見詰めたままでなんと言おうか迷っていると。白銀に輝く甲冑で全身を包んだジャン=ルイは、ドヤ顔で顎を上げた。
「なんだ、この僕のあまりの凛々しさに言葉を失ったか?」
「いえ……眼鏡と鎧って、驚くほど似合わない組み合わせだなと思っていただけです」
「何っ!? アルベールだって眼鏡だぞ!」
「あ、ごめん。ぼくは機動力重視だから、ローブの下に鎖帷子を着込むだけなんだよね」
「なんだと!? そんな装備で大丈夫か!?」
「大丈夫だよ。最前線で直接武器を合わせる予定はないし」
「それならいいが、流れ矢には重々気を付けるんだぞ……。しかしながらフロランス、そういえばその男のような服装は何だ?」
「これはロマーニアの貴婦人が戦時に着用する、運動服ですわ。亡き母の形見なのです」
「カタロニアの助力を拒み強力な術師が不足しているロマーニアがどうかは知らんが、ここはガリアだ。この国はご令嬢を戦わせねばならぬほど、戦力に困ってはおらんぞ」
「それは申し訳ございません。ですが、これを着ておりますと……このような状況にあっても、まるで母に守られているような気がして安心できるのです」
私は悲しそうに目を伏せると、ぎゅっと自らを抱き締めるように、服をかき抱いた。つい先ほどまで攻撃的だったジャン=ルイが、僅かに怯んだような顔をする。
「どうぞ、着用をお許し下さいませ……」
ダメ押しとばかりに、潤んだ瞳をそっと上げる。すると横にいた兄が、笑いを誤魔化すように盛大に咳き込んだ。ちょっと、迫真の演技を邪魔しないでよおにい様!
「まあまあ、なんともいじらしい話ではありませんか。若様、どうかご令嬢にお母上の形見の着用許可を下さいますよう、このリオネルからもお頼み申し上げますぞ」
押し黙ってしまったジャン=ルイに向かって、マクレ男爵リオネル卿がとりなすように口を開いた。彼はロートリンジュ公爵フランセル家の家臣であり、エルゼスが平時から国境警備のために受け入れている常備兵五百を束ねる、司令官である。
「リオネルがそこまで言うのなら……仕方ない」
「ありがとうございます、ジャン=ルイ公子。そしてマクレ男爵リオネル様」
「なぁに、私にもご令嬢と同じ年頃の娘がおりましてな。近頃は生意気なことばかり言いおって、ご令嬢の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいですぞ」
「そんな……きっと離れて暮らすお父様に、上手く甘えるのが難しいお年頃なのですわ」
「はっは、ご令嬢のお言葉に免じて、今はそう思っておくことと致しましょう」
私がマクレ男爵と談笑していると、横からこれみよがしなジャン=ルイのため息が聞こえてきた。
「まあ服装に関しては、リオネルに免じて今回はよしとしよう。しかしながら、ここはロマーニアとは違うと心得ておくように。戦場にて直接この僕の戦いぶりを見せてやれないのは残念だがな」
こちらを見て今度は何やら得意気に腕組みをする再従兄に、私はニッコリと良い笑顔を返す。
「あら、公子に実戦の経験がおありとは、初めて知りましたわ」
「じっ、実戦はまだないが……だが、銀眼の戦闘力は魔人をも凌ぐと言われていて」
「慢心は身を滅ぼしますわよ」
「なっ! お前ごとき小娘が、何を生意気な口を!」
とうとう怒り出した再従兄を見つめると、私は眉根を寄せて言った。
「本当に、油断は禁物ですわ。どうか公子も……必ずや、ご無事に戻られますよう」
私の本心からの心配を感じ取ったのか……彼は少しばかり居心地が悪そうに前髪をかき上げると、無駄に形の良い鼻を鳴らした。
「ふ……フン! まあお前のようなか弱き女子は、せいぜい後方から我らの武運を祈っておくことだな!」
「それは……申し訳ございません。わたくし此度の戦は兄と共に参陣したく存じまして、この場にはご許可をお願いに参りましたの」
「な……参陣する、だと!? 女の癖に馬鹿を言うな! ここはガリアだと言ったばかりだろう。戦場は女子供がお遊びで立てるような場所ではないのだぞ!?」
「もちろん、前線で槍を振るいたいとは申しておりませんわ。私は衛生兵という補助部隊を率い、その指揮に徹するつもりでございます」
「エイセイ兵とやらが何かは知らんが、それがお遊びだと言っているんだ! ご令嬢は大人しく城にでも籠って震えていろ!」
まだ何やらわめいているジャン=ルイを尻目に、私はこれまで黙って私達のやりとりを眺めていたセレスタン殿下の方へと向き直った。
兄と共に出陣するためには、今回の戦で総大将を務める殿下の許可が必要だ。でもこの方なら衛生兵が何かを理解してくれているし、ジャン=ルイなんてすぐに鶴の一声で黙らせてくれるだろう。
「ベルガエ大公セレスタン殿下、どうぞわたくしめに参陣のご許可を賜りますよう、お願い申し上げます」
優雅に一礼する私。
だが返ってきたのは、冷たい一言だった。
「フロランス嬢の参陣は、許可しない」
「何故ですか? 衛生兵がどういうものであるかは、事前にご理解賜ったと存じます。どうぞ、兄と共に出陣する御許可を下さいませ」
「衛生兵部隊の運用については、エルゼス侯爵アルベール卿の自由にしてもらって構わない。ただし、令嬢の出陣は許可できない」
「何故ですか!?」
「何故……と? 私の決定に、理由が必要か?」
仮面の下からただそれだけを言い放つ殿下に、私はなすすべもなくうなだれた。
先日のヴァリオラ村訪問から昨日まで、彼は仮面を外して生活していた。皆平然として何も言わないのだが……と、逆に全く反応がないのを少し寂しそうにしていたくらいである。だが今日この場で仮面を着用しているのは、ロートリンジュの皆さんが居るからだろうか。
しかしそんな仮面ごしにも分かる表情は冷ややかで、それ以上の感情を読み取ることは難しい。
「いいえ……仰せの通りにございます」
私は頭を下げたまま、小さく言った。
王族の命令は絶対だ。これ以上食い下がるなど、臣下である私にはあってはならないことである。
「ほら見ろ!」とか何とかジャン=ルイが言っているが……意気消沈した私には、もう怒りのひとつも湧いては来なかった。
「そなたはこのピエヴェールの本営に残り、留守居組のマクレ男爵らと共に、領都の守備にあたるように。これは大公令である」
「かしこまり、ました……」
私は絞り出すようにそう答えると。
ひとり会議室から、退出した。
*****
──なによあれっ、パワハラじゃない!?
徐々にこみ上げてきた怒りに身を任せたまま、私はしばらく、ずんずんと領主館の廊下を進んでいた。だがやがて、足取りから力が抜けて行く。最後はとぼとぼと歩きながら、私は静かに溜め息をついた。
彼がこれほどまでに頑なに、取り付く島もないほどなのは……私を危険から遠ざけるためだということは、もちろん分かっているのだ。
そして、その理由には心当たりがあった。あれ以来ほぼ毎日のように僅かでも時間を作り茶飲み話をしに来られていれば、いくら私でもどことなく気付くというものである。
ただ、それを素直に受け取ることはできなかった。もし彼の人生が順調なままだったら、私なんかにこんなにも興味をひかれたりしただろうか。
それに私が彼を避けなかったのは、知識があったから、それだけだ。もし知らなかったとして、はたして同じ態度を取ることが出来ただろうか? かつて彼を避けた貴族たちだって、ちゃんと知ってさえいれば無駄に恐れることなどなかったのだ。
斑点病への偏見がなくなり多くの人に『普通』に受け入れられるようになれば……私に対する執着なんて、きっとすぐに忘れてしまう。共に過ごす時間を楽しく思えば思うほど、いつしか私はその来訪を素直に喜べなくなっていた。
私はすっかりこじらせてしまった自分を嘲笑うと……今はそっと、その場を後にした。




