第55話 仮面の下
二人のご令嬢と別れると、私はそっとため息をついた。ここ数年限られた人としか関わらなかった弊害か、初対面の人との会話に物凄いエネルギーを消費してしまうらしい。
兄の姿を探すと、まだ謁見の長い列に並んでいるようだった。やっぱり合流させてもらおうかとも思ったが、どうやら列の前後の人と楽しそうに談笑しているようである。さらに集団の奥の方にいる兄と合流するには、かなりの人を押し退ける必要がありそうだ。……うん、やめとこう。
どこかで少し一人になって、夜風にでも当たりたい……そう考えた私は、バルコニーにつながるカーテンを押し開けた。
外へと一歩踏み出した、その時──黒衣を纏う長身の人影に思いきりぶつかって、慣れないヒールを踏み外す。転がる寸前に私の腕を掴んで引き上げた人物は、口元のわずかな部分以外を白い仮面で覆っていた。
「ありがとうございます」
私がとっさに礼の言葉を口にした、刹那。外れた仮面が地面に転がり、カツンと乾いた音を立てる。
「しっ、失礼!」
仮面の主は慌ててそれを拾い上げると、再び顔に宛がった。だが手を離した瞬間、再び床へと滑り落ちる。足元に転がってきたそれを、私はなんの躊躇いもなくひょいっと拾い上げた。
「なっ……平気なのか!?」
落とし主を見上げると、その顔は狼狽の色に染まっている。私はこの仮面で顔を覆った男性の名に、心当たりがあった。こんな特徴を持った人、この国に二人といるはずがない。
彼の名は、ベルガエ大公セレスタン・ド・ロワイエル。現国王陛下の親子より年の離れた弟で、確か甥である王太子殿下より四つ年下の二十六歳である。
例え人間の国同士でも国境で分かたれている以上、いつ領土拡張の餌食になってもおかしくない現状──魔王国に対してエルゼス奪還戦争を仕掛ける折、先代国王は後顧の憂いを断つため、好戦的な隣国イスパーニアから王女を迎え入れた。
三十歳で子の無いまま夫に先立たれていた王女は、当時二十代の王太子だった現国王の妃ではなく、五十手前である先王の第二妃となったのだが……数年の後めでたくご懐妊。そうして生まれたのが、セレスタン殿下である。
南欧生まれの母から黒髪と彫りの深い美貌を受け継いだ少年は、十三年前のエルゼス防衛戦争で初陣にして武功を立てることにも成功し、まさに順風満帆な人生を送っていた。
だがそんな彼を、次の遠征先で悲劇が襲う。この世に存在する最も恐ろしい疫病のうちの一つ、斑点病に感染してしまったのである。
この斑点病、伝え聞く症状からして、恐らく地球で呼ぶところの天然痘に近いものだろう。疫病から生還した彼の身体には、天然痘の瘢痕、いわゆる「あばた」が残された。
この世界には、斑点病に感染してなお死を免れた子供は魔物と化して、やがて醜小鬼になるという迷信がある。そんな迷信を信じる者も多いこの国では、天然痘が完治しても捨てられる子供が後をたたなかったのだ。
愛する息子が当事者となり初めてその問題に気付いた先王は、ようやく差別を禁止するよう御触れを出したが……一度根付いた偏見はなかなか消えなかった。
実は天然痘の恐ろしさは、その高い感染力にある。飛沫や患者本人への接触による感染だけでなく、患部から剥がれ落ちたかさぶたですら、一年以上も感染力を保つのだ。
その印象が強いためだろうか。セレスタン殿下の「あばた」は明らかに完治しているものだが、未だに社交界で遠巻きにされているのだ。
私は目の前の男性の顔に、真っ直ぐな視線を注いだ。額から左目の周り、そして左頬の上部にかけて、痘痕の凹凸がいくらか残されている。もっと重症の症例写真をたくさん見たことがある私にはこのくらいごく軽度のものに思えたが、病を恐れる者達にその脅威を思い出させるには十分だろう。
「その……すまないが、それを返してもらいたいのだが」
私がじっと見つめすぎていたからか……どこか居心地の悪そうな面持ちで、王弟殿下が口を開いた。
「ああ、失礼致しました。どうやらここの留め具が壊れているようですわ」
言いつつ、私は仮面を手渡す。それを恐る恐る受け取って、殿下は留め具を確認した。
「これは、弱ったな……年若いご婦人に見苦しい姿を見せてしまって、すまない」
よく見ると、彼が隠しているのは顔だけではなかった。手袋で手を、スカーフ状のクラヴァットで首もとを。けして肌を見せないよう、厳重に覆い隠されている。
「何も謝って頂くことなどございませんわ。……失礼致します」
反射的に、私は彼に手を伸ばした。あばたに重なるようにかきむしった痕がまだ新しいのは、乾燥による痒みのためか、それとも精神的なものなのか。私は彼のあばたにそっと指先で触れると、患者を安心させるよう微笑んだ。
「少し乾燥ぎみのようですね。差し支えなければ、後ほど保湿とかゆみ止めの作用のある軟膏を贈らせて下さいませ」
「君は……」
「ああ、申し遅れました。わたくしはエルゼス侯爵が第一女、フロランス・ド・ロシニョルと申します」
「ロシニョル……そうか、エドゥアールの娘か」
「はい、セレスタン殿下」
「私のことを知っているのか? その、この仮面のことも……」
「もちろんでございます。前の防衛戦で、父は殿下に命をお救い頂いたと伺っております。戦中に生まれたわたくしが生きた父と会えたのは、殿下のおかげでございます」
私はそこで言葉を切ると、スカートを掴み深々と腰を落とした。
「心より御礼申し上げます」
「いや、私は王族としての責務を全うしただけだ。それより……エドゥアールには戦場で多くのことを教えてもらったよ。惜しい人を亡くしたものだ」
そう言って殿下は、昔を懐かしむように目を細めた。
「殿下に悼んで頂いて、天上の父も喜んでいることでしょう。実はわたくし、幼い頃に亡くした父のことはあまり覚えていないのです。よろしければまたいつか、父の話をお聞かせ下さいませ」
「そうだな。いずれ機会があれば、また」
素顔を晒したまま僅かに微笑む殿下に、私は穏やかな笑みを返した。王都を避けるよう常に前線の任地を渡り歩いている彼に会えるのは、次はいつになるかは分からない。だが少しでも楽しみにしていてもらえたらいいな、と、私は思ったのだった。




