第39話 夜明けの白光
室内に招き入れられて、私は驚きのあまり目を疑った。ガラスなど嵌まっていない木の窓は全て雨戸が閉めきられているのに、その室内があまりに明るく暖かいからだ。それを実現している照明も熱源も、ただひとつだけ。高い天井から下げられた、ランプ? っぽいものだけである。
だがそのランプ? は、私が知っている物とは全く違っていた。薄暗い炎の色ではない。まるでLED電球のような、白く強い輝きを放っているのだ。
「あれ、なんですか!?」
目を丸くして声を上げた私に、いそいそとソファの上を片付けていた兄は作業の手を止めもせずに言った。
「た、ただの点火だよ」
「あれが、点火!?」
私は驚きのあまり、光球の浮かぶ天井を再び仰ぎ見た。
おにい様が引きこもるようになったのは、滑舌が悪くて初級呪文しか発音できないことをからかわれたことがきっかけだった。
確かに兄は、効果倍率の高い上級呪文は唱えられないかもしれない。しかし呪文の威力を決定するのは、「効果倍率×術者の法力量」である。いくら倍率の高い上級呪文を唱えても、術者の法力量が少なければ大した威力は出ないのだ。
逆に言えば、法力量が桁違いのおにい様の初級呪文は、上級呪文を凌ぐほどの威力を叩き出せても不思議ではない。もしおにい様の気性がおじい様並みに激しかったなら、彼をからかった相手はその場で灰も残さず燃え尽きてしまっていただろう。命拾いしたべロム侯爵令息は、マジで兄の温厚さに感謝すべきだ。
しかしながら、こんなふうに白く強く輝く高エネルギー状態の炎を、ランプ代わりに長時間保つなんて……私も法力操作は得意な方だと自負していたが、先ほどの点火のように集中力を欠いたら即消えてしまう程度の代物だ。兄とはただ単に法力の量が違うだけかと思っていたが、運用面でもこんなにも差があるなんて。
私は兄に寄り添う精霊に、視線を移した。法術師が意識を集中したときにだけその姿を見ることができる精霊の数は、連れている術師の法力量に比例する。
だが兄は違っていた。子供の頃から、ただ一柱だけ。火の大精霊の加護を受けているのである。
彼とも彼女ともつかないその存在は、薄絹を纏った美しいこどもの姿で、いつも静かに兄と共に在った。一方フロルが連れる精霊達は、小さな光の粒である。その数は、人族の術師の中ではそこそこ恵まれている方だろう。だが同じ火術師ゆえに、子供の頃から兄との才能の差を見せつけられていたのだ。
兄はずっと、特別だったのである。そんな状況も、私の「優秀な兄に守られて当然」という気持ちを強めてしまっていたのかもしれない。もっとも今の私も、結局は守ってもらおうとしてるんだけど……。
私は気を取り直すように、兄に声をかけた。
「あの炎……すごく暖かい。ありがとう、にいさま」
片付けの終わったソファ(といっても上に積んであった本を別所に積み直しただけだけど)を勧められて、私は微笑んだ。
「いっいや、どういたしまして……」
遠慮なくソファに腰かけると、私は持ってきた水差しの蓋を取った。水面に指先を向けて、呪文を口にする。
「点火」
小さな炎で軽くお湯を温めなおすと、香草茶の入ったポットに注ぐ。それをふたつ用意していたカップにつぎ分けると、私は微笑んだ。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がって下さい」
「う、うん。あいがとう……」
兄は私と目が合うのを恐れているのか、対面に座った今でもその視線はおどおどと宙を舞っている。そもそも長らく伸ばし放題の枝毛に隠れる銀縁眼鏡の奥の瞳は、見つけることすら困難だ。
ガリガリの体躯はひょろりと長く、ぶかぶかだが明らかに丈の足らない法衣からは、枯れ枝のような腕が突き出ている。痩せた背中を猫のように丸めて、兄はバラのメレンゲ細工をひとつ摘まんだ。
「こ、こえ、きみが作ったの?」
「はい! 意匠を工夫してみましたの」
「そ、そうなんだ……」
やはり兄も良家の子女が厨房に立つなんて……というだろうか。だがそんな私の心配をよそに、兄は笑った。
「き、君は昔かや器用だったかやね。とても良くできていゆよ」
初めて無条件で肯定してもらえて、私は心底嬉しくなった。
「ありがとうございます」
私はカップに口をつけながら、久しぶりに見る兄の口元に目をやった。これは……やはり。おにい様は重度の舌下短縮症のようである。
舌下短縮症とは、舌と下顎をつなぐ舌帯という部分が、舌の根元だけでなく舌先の方までくっついているという形質上の問題である。それによって舌の動きが制限されて、舌先を大きく動かす音が正確に発音しにくいのだ。そのため昔の日本では、生まれてすぐに舌帯を切開する処置がとられていた頃もある。
だがその後、幼少時に適切な発語訓練を行うことによって、多くのケースで普通に発音が可能になるという報告が上げられた。そのため近年では、手術ではなく訓練で対応することが学会で推奨されるようになっている。
舌下短縮症は遺伝性の形質異常であるが、果たしてマイノリティを異常としても良いものか? という意見もあるからだ。ものすごく鼻の高い人もいれば、ものすごく低い人もいる。だからものすごく舌の短いひとがいても、矯正なんてしなくてもいいんじゃないかという考え方だ。
しかし、こんな話がある。
ミヤコが小児外科病棟で勤務していたとき、ある一人の女の子が入院患者としてやってきた。舌下短縮症だったその子は、今の兄と同じように、ラ行の発音に問題を抱えていた。
「できるよ」が「できゆよ」になってしまう彼女は、笑顔がとっても可愛い小学六年生だったのだが──その舌たらずな発音が、クラスの女子たちから「ぶりっこしている」と思われてしまったのだ。そのため辛いいじめを受けた彼女は、一度は見送られた切開手術を十二歳で受けに来たのである。
『まだ痛いけど早くリハビリ頑張って、中学に入ったら友達たくさん作るんだ!』
……そう笑って、彼女は退院して行った。
ある人気朝ドラ女優は本格的に役者を目指すにあたり、滑舌改善のために十七歳で手術を受けたらしい。同じ年頃である兄のケースも、滑舌を手っ取り早く改善するには手術が有効そうなのだが……。
舌帯の切開は、0歳のうちならハサミでチョンっと一瞬だ。しかし一歳以降に行う場合は全身麻酔と縫合が必要で、大手術……とまではいかないが、この国の医療技術ではそう簡単に再現できるものではない。
となると残る方法は発語訓練なんだけど、私には言語聴覚士のような技術はないし──
静かにお茶を飲みながら考えをめぐらせていると、兄が口を開いた。
「ふ、フヨ……」
言いかけて、はっとしたように口をつぐむ。
「おにい様、どうぞ、昔のようにお呼び下さい」
「で、でも……名前も正しく呼べないなんて……」
そう言って、兄は酷い猫背をさらに縮こめるようにして俯いた。
実のところ、兄の発語障害は記憶よりもかなり改善されていた。巻き舌を多用するラ行が若干訛る以外、ほぼ正しく発音できるようになっている。慌てると話始めに吃音が出るようだが、これは精神的な焦りからくるものだろうから、落ち着いてしゃべり慣れれば改善していくだろう。
「本当は、君の名前を正しく呼べゆようになったや、もういちど話し掛けようと思っていたんだ」
やはりあの夜中に聞こえてきた声は、呪詛でも怨嗟の声でもなく、発声練習だったのか。兄もずっと部屋から出ようと、努力していたのだ。
「おにい様……今こうしてお話しできているだけで、私は幸せよ」
眼鏡の奥で目を細めて、兄はひとつ頷いた。私は感極まって泣きそうになるのをなんとか我慢して、震えそうになる口角をぐっと引き上げる。
やっぱり、やめよう。努力してようやく前を向き始めたおにい様に、私の我儘で「ジャン=ルイと戦って!」なんて……言えるわけがない。
それからぽつぽつと他愛もない話を続けたあと、私は席を立った。
「すっかり長居してしまってごめんなさい。また遊びに来てもいい?」
「もちよ……んだよ。いつでもおいで」




