第35話 不可能の色(3)
「……」
提示された数字に、私は無言で眉をひそめた。借金の半分どころか、一割にも満たない程度の金額である。いやそもそも領地レベルの借金を、一個人のアイデアでなんとかできると考えた方がバカだったのだ。
でも……諦めたらそこで試合終了だ。ここからは交渉でなんとかするしかない。
「その……これらの売却条件は、私への求婚を撤回することよ! 撤回するなら、これだけでなくもっと色々と新案を提供し続けて差し上げるわ!」
我ながらお世辞にも上手とは言い難い交渉文句に、ギィは無言のまま困ったように眉を下げ、苦笑した。
「わっ、わたくしと結婚したら、これ以上働く気は全くないわよ!? 毎日何もしないで、ひたすら贅沢ばかりして差し上げるわ! そんな法力があるだけのごくつぶしと、多くの有益な提案をできる上級貴族の後ろ盾とでは、どちらが良いかしら!?」
焦るあまり上ずった声を上げる私に、ギィはとうとう堪えきれないようにクックッと声を漏らして笑い始めた。
「もちろん、フロランス様に働いてもらおうなどと、毛頭考えておりません。それに、いくら贅沢して頂いても私は一向に構いませんが」
「う……でも……」
もともとフロルもミヤコも、口が上手なタイプではない。これ以上上手な説得文句が思い浮かばなくて、私は押し黙った。
……結局、何も変えることはできなかった。
私はしょんぼりとして項垂れると、カップの中にたゆたう花びらに目を落とす。
「やはり、貴女は変わられた」
はっとして顔を上げると、いつもの薄い笑みを消した商人がそこにいた。探るような目つきでこちらを見る彼から目を逸らせないまま、私はごくりと唾を呑む。
「臨死体験とおっしゃいましたか? しかしいくら死の淵を見たとはいえ十三やそこらのご令嬢の発想とは思えませんが……貴女は一体何者です」
「強いて言うならば……私は神託を受けたのかもしれないわ」
ヴァランタンの持つ静かな迫力に飲まれそうになりながら、私は適当に言いつくろった。ここは困った時の神頼みしかない。
「神託……? つまり貴女は、自分がかの伝説の『預言の乙女』であると?」
「さあ?」
「さあ? たった今神託を受けたと言ったのは貴女でしょう!」
「かもしれない、と言ったでしょう? 小娘の発想と思えないのはそちらの勝手だもの。私にも分からないものは、答えようがないわ」
視線が交錯したまま、しばしの沈黙──
ややあって、静寂を破ったのはギィの溜息だった。
「全く、食えないお嬢様だ……」
「ヴァランタン、不敬でしてよ」
常に営業用スマイルに覆われ本心の見えない彼の表情が、不機嫌そうに僅かに歪む。対する私は頑張って自分を奮い立たせると、高貴なる令嬢に相応しかろう鷹揚な笑みを浮かべた。
「まあ今回は貴方の珍しい表情が見られたから、見逃して差し上げるわ」
「……承知しました」
営業用に作られた、少し高めの柔らかな声音ではない。彼が発したのは、少し不機嫌そうな低音の地声だった。
──勝った!
いや、全然そうでもないか。営業用の仮面をちょっぴり剥いでやれたくらいで、結局借金返済してギャフンと言わせるという目的は、全く──
「フロランス様、貴女への求婚は、ご希望の通り撤回させて頂きます」
「──へ?」
令嬢としてはあるまじき間抜けな声を漏らしてしまい、私は慌てて姿勢を正した。
「何を企んでいるの?」
「これは心外な。フロランス様にこれ以上嫌われたくないという、健気な一心からでございます」
「健気……ねぇ」
そうは言っても、胡散臭すぎるにも程がある。でも一応、計画通りにいってはいるのだ。なぜ上手くいったのかどうにも釈然としないまま……私達は契約内容の確認を進めることにしたのだった。
*****
「では次に、当商会からロシニョル様への、代金のお支払い方法についてです」
いくつかの方法を提示しようとするギィを止めて、私は言った。
「基本的に全額借金の返済に充てるわ」
「報酬が貴女の手元まで届かなくてもよいのですか?」
「ええ」
私は女、それも未婚だ。個人資産なんて持てず、保護者であるおじい様にいいように使われるのがオチである。どうせ自由に使えないなら、他のことにも使えないようにしてしまおう。
「ただし、コンフィチュールの製造などで順次必要な仕入れが発生したら、そこから充当するようお願いできるかしら。他にも領内で入手できないものについては、必要が発生し次第、基本的にヴァランタン商会を経由して購入する予定よ」
「つまり私共を信用してお預けくださるということでしょうか?」
「その通りよ」
「基本的にヴァランタン商会を経由する」というのは、実はフェイクなんだけどね。原料の全てをヴァランタン商会に頼るということは、手の内を明かすようなものである。特にシトロンだけは今まで通り城下の青果商経由で、さりげなく仕入れ量を増やす方針だ。
それに今回は手元にあったシトロンで作ったが、確かリンゴでもペクチン液は作れるはず。暖かい地方から購入するシトロンと違ってリンゴならエルゼス領内でも作っているし、今後の目標は砂糖以外の材料の完全な自給自足かな。
「あとは月に一度、直接の報告と収支の明細書を頂くわ」
「かしこまりました。他に条件は?」
「そういえば、以前そちらに渡ったおじい様の銀杯を、買い戻したいのだけれど。もう転売された後かしら?」
「……私めの手元にございます。フロランス様との婚約相成りました暁には、御返ししようと考えておりましたので」
「なるほど、貴方の用意した手札は借金だけではなかったのね」
「いいえ……実は侯爵閣下から引き換えを打診頂いたおり、私めの方からお見舞いとしてお品は無償で差し上げると提案申し上げたのです。しかし閣下よりお断り頂きました」
「そうだったの……」
プライドの高い……いや、誇り高いおじい様であれば、無償提供を弱味と感じて嫌がっても不思議ではない話だ。これは本当のことだろう。
「それでは、銀杯についてはよろしく頼むわね」
「かしこまりました。他にはございますか?」
「私が関わっていることは、貴方とわたくしだけの秘密……他言無用で頼むわ。おじい様には許可を得るため知らせることにはなるけれど、当面は私の個人名を出さないでほしいの。ただ、家名の使用はおじい様のご許可を得られれば構わないわ」
「かしこまりました。他にご希望は?」
「そうね……今のところは特にないわ」
「かしこまりました。では……」
ヴァランタンはそこで一呼吸置くと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「もし私がこれらの条件を反故にしましたら、どうなさいますか?」
「そうね……消し炭にして差し上げようかしら?」
私がニッコリ笑って答えると、ギィは苦笑して首を振った。
「これは……恐ろしいことで。火術師の名門たるロシニョル家のお嬢様の手に掛かっては、冗談では済まされませんね」
「婚約はできないけれど、貴方とは今後とも有意義な取引を続けて行きたいの。だからお互いに、裏切る必要などなくってよ。貴族のお人形と結婚するより何倍も有益だったと、必ず思わせて見せるわ」
私はそう啖呵を切った後、握っていた拳を解いてぽつりとつぶやいた。
「こんな内容でなぜ要求を撤回してくれたのか分からないけれど、期待を裏切らないよう努力するわ」
「なにも私は、貴女を困らせようという訳ではないのです。ただご返済が滞った折には……再度何らかのご提案に伺いますので、そのおつもりで」
そう言ってギィは、いつもの本心の見えない営業用スマイルを顔に貼り付けた。そんな彼に、私は苦笑いを返すしかなかったのだった。




