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【書籍化】ナイチンゲールは夜明けを歌う  作者: 干野ワニ
十五章

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138話 ただの人間が変えてゆく

 エヴァンドロ新法王聖下の誕生が予定よりもかなり前倒しとなったことで、私もさらに多忙な日々が続いていた。エヴァンドロ法王の名の下に、フィリウス教が『斑点病(ヴァリオラ)の予防薬』の存在と効果を正式に承認したためである。後ろ盾を得た予防薬の需要はさらに増加し、供給が全く間に合わない状態となっていたのだった。


 さらに困ったのは、その価値を高めすぎた予防薬の輸送隊を狙う襲撃まで起こり始めたことである。予防薬の正しい効果を得るためには、正しい接種手順が必要だ。奪われてしまった予防薬は、今ごろ全部ダメになってしまっているだろう。


 こうして私の仕事は輸送隊を守るための傭兵部隊雇用の承認から、果ては予防薬を現地生産に切り替えるためのスタッフの育成計画にまで及んでいたのだった。


 そんな状況の中だったが、私は母の祖国であるロマーニアの王家から招待を受けていた。そろそろ国外にも話をと考えていたところだったから、渡りに船だろう。不在の間の調整を前倒しで進めるため、その日も私は、流通の取り仕切りの殆どを任せているヴァランタン商会――ギィと、打ち合わせを行っていた。



 *****



 一通りの打ち合わせを終えてほっと一息つくと、私はすっかり冷めた紅茶を口に含んだ。


「ここまで決めておけば、不在の間も大丈夫かしら。もし何か問題が起こったら、この石板(タブレット)で連絡してね」


 説明しつつ、私は手のひら大の黒い石板を持ち上げて見せた。このデジタル文字送信用の石板は、相変わらず火術師にしか扱えないものだ。だが彼はこのごろ借金のカタに複数名の元貴族を雇い入れていて、側仕えの従者だけでなく法術が必要な作業を行う人員にまで充てているらしい。

 ――うかうかしていると貴族と商人の地位が入れ替わる日も近いんじゃないだろうかと、最近特にそう思う。


「かしこまりました。後はこちらで良きように計らいますので、ご安心ください」


 そう言って、ギィはいつもの柔和な営業用スマイルを浮かべたが……私はそれに一抹の不安を感じて、じっと彼の表情を探った。彼はここ一年以上、流通に詳しくない私の代わりに、予防薬の輸送管理にかかりきりで働いてくれているはずだ。自分の本業もあるだろうに、本当に、このまま甘えてしまっていても大丈夫なのだろうか。だがいくら探ってもその表情に真意は見えなくて……私は項垂れた。


「あまり利のない、むしろ損の多い仕事なのに……ここまで協力してくれて、貴方には本当に感謝しているの」


「いいえフロランス様、利はこれまで有り余るほどに頂いております。今はこうしてヴァランタン商会の名が輸送と共に各地に広まることこそが最大の宣伝となりますれば、損することなどあろうはずがございません」


「ならいいのだけれど……。あの時貴方が、たかが十三歳の世間知らずの小娘でしかなかった私の話を、馬鹿にせず取り合ってくれて、相場を誤魔化すこともなく、そして有効活用してくれていなければ……きっと今も私はあの城に閉じこもって、ただ自分の不幸を嘆いているだけだったと思うわ。だから……いつも私の話を真剣に聞いてくれて、本当にありがとう」


 そう、座ったまま深く頭を下げた私が、再び顔を上げたとき。そこには、いつもの掴みどころのない笑みを消し……真剣な顔でこちらを見詰める、商人がいた。


「……フロランス様、私めはずっと誤解しておりました。神から法力を授かり、そして高位の貴族に生まれた貴女は……私のような只人(ただびと)とは違う、生まれながらにして特別な存在であるのだと。ですがそれは、間違いでした。ままならない現実に抗う貴女は、私と同じ……人間だ」


 正直言って、彼のその発言の意図はよく分からない。だがどこかむず痒く感じる気持ちを隠そうとして、私は明るく声を上げた。


「あはは、何それ! 褒め言葉として、受け取っておくわ」


「貴女の気高さは、その生まれ故のものではない。貴女自身の持つ、魂の輝きなのでしょう」


「またまた~、調子がいいんだから!」


 思わず、私がツッコミを入れるような仕草で手を上げると。商人は私の前にひざまずき、掬い上げるようにその手を取った。


 この感じ、何か遠い記憶を想い起こさせるような……。

 ――だがそんな私の思考を遮るように、こちらを見据えて彼は言った。


「尚更、貴女を手に入れたくなりましたよ」


「だから、言ったでしょ!? 貴族の血を入れたところで、今後は法力持ちによる貴族制度なんてどんどん形骸化していくわ」


「それは元より承知しておりますとも。――私が只人の頂に至るまで、もう少々……誰のものにもならず、お待ちいただけましたら、と」


 左手で私の手を取ったまま、右手を胸に当て微笑む彼に……私は不機嫌そうな視線を向ける。


「……トロフィーワイフなら、他で募集してよ」


「まことに申し訳ございません、私めにはそれがどういう意味か分かりかねまして」


 困ったような顔をして、それでも笑う商人から目を逸らして……私は呟いた。


「……何でもない。気にしないで」


『あの商人、なーんかまだ企んでそうなんだよなぁ……』


 そんな兄の言葉が、一瞬頭を過ったが――今はそっと、蓋をしておくことにした。


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